アンダードッグ

草森ゆき

1


 コロラドの深い森の中だけがオリバーの守る場所だった。生まれた小さな田舎町は排他的で、保守的で、あらゆる面白みに欠けていた。都市は遠く、オリバーは一度しか行った覚えがない。五歳程度だったため記憶としては薄く、数枚の写真で事実と認識できる程度の感慨しか残っていなかった。

 うんざりしていたのだとオリバーは思う。町に一つだけあるダイナーはバーを兼ねており、唯一の娯楽として毎夜騒がしく、近くを通る度に目についた。看板の装飾は古めかしく時代遅れだ。昼間からアルコールを出しているため、夕方には既に酔い潰れた客が路上を寝床にいびきを立てていた。実に幸せそうな寝息だった。

 オリバーは辺りを見回し、酔客のそばに膝をついた。深く眠り込んでいる男は当然のように顔見知りで、顔の横には消化されていないピザと深紅の赤ワインの混じった吐瀉物が撒き散らされていた。際限なく腐敗した臭いが鼻をついた。この町の狭さと汚さが凝縮されたようなゲロだった。クソったれ。オリバーは毒付いてから、男のポケットから素早く財布を抜き取った。


 オリバーに実家というものは存在しなかった。物件としてはあるのだが、今はアルコール中毒の父親と薬物中毒の母親が毎日のように殴り合いの喧嘩か嬲り合いのファックをしている見せ物小屋で、オリバーは既に寄り付かなくなっていた。本当はハイスクールに行くべきだったがそんな余力も経済もない。そもそも、ミドルの頃からスクールに通わなくなっていた。同年代の友人もいたためしはない。

 故郷への情も、両親への親愛も、友人の顔も、何もかもが浮かばないオリバーの拠り所は、今や森だけになっていた。町から少し離れた、荒野を横切った先にある深い森。山へと続く木々の連なり。オリバーは抜き取った財布を薄汚れたジーンズに押し込みながら道なき道を進んだ。同じような景色の続く森の中で、オリバーは既に迷わない。木々の匂いを吸い込んで方角を確かめ、蔦の絡んだ樹へと声をかけつつ、森の奥にある小さな丸太小屋を目指して歩く。

 数十分も行けば小屋がある。ふと開けた場所の真ん中に、亡霊のように現れる。オリバーは少しだけ肩の力が抜ける。

 小屋のそばには一人の男が座っている。黒い髪を後ろで一つに束ねており、荒さの多いコロラドにはあまり似合わない端正な顔立ちの男だ。オリバーは男に向けて、軽く手を上げて見せた。男はオリバーに向けて柔らかく微笑んで、手元の猟銃を素早く構えた。

 撃鉄が容赦なく振り下ろされた。弾丸はオリバーの頬を掠めて後ろの枝をへし折った。驚いた鳥が数羽、ばさばさと逃げ出して飛び去った。

「遅いよ、オリバー」

 男は柔和な声で言った。オリバーはそろそろと両手を上げて、悪かった、とまず謝ってから空を見た。夜に近い夕暮れだ。陽が落ちるまでに帰ると告げていたため、分が悪いのはオリバーだった。

「本当はもっと早く戻るつもりだったんだ、ロベルト」

 オリバーの言葉に、ロベルトと呼ばれた男は頷いた。それから流暢な手付きで装填数を確認し、銃口を再びオリバーへと向けた。

「おい、ロベルト」

「オリバー、僕は言うことを聞かない犬は要らないし、役に立たない犬も要らないし、使えない犬は殺処分すると決めているんだ。五秒数えるよ。その間に遅くなった理由を言え。一、二、三……」

「これを拾ってた!」

 オリバーはポケットから抜いた財布を慌てて投げた。財布は地面で一度跳ねてから、ロベルトの足元に転がった。ロベルトは財布を見下ろし、オリバーを瞬き一回分だけ見つめてから、猟銃を下ろした。ほっと息をついたオリバーは、歩み寄ってきたロベルトに下腹部を思い切り殴られた。

「馬鹿犬、遂に路上でくたばったかと思ったよ」

 今まさにあんたのせいでくたばりそうだよとオリバーは思ったが、言わなかった。

 オリバーはロベルトの犬だった。正式に言うならば、ロベルトの猟犬を探すために雇われた、偽物の犬だった。


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