我らヒトは今もホモ・サピエンスのままであるというのに

海堂 岬

第1話 人が牛になる

 18世紀から19世紀になろうとする頃、欧州のどこかで奇病の噂が囁かれた。

「人が牛になる」

噂は人々の口から口へ伝わり、瞬く間に全土を覆った。


「ところで、牛になったのはどこの誰だい。俺も知ってるやつかね」

「さぁ、知らねぇよ。でも、牛になるって聞いたさ」

「蹄もねぇお前に言われてもな」

噂を聞いた男は、牛になった女を探しに出かけた。雌牛なら乳を出すから、役に立つ。人だったというのならば、命令も聞くだろう。牛を飼うより楽なはずだ。男は、牛になった女を探した。だが、そんな雌牛はいなかった。仕方ないから、牛になった男を探してみた。だが、そんな雄牛もどこにもいなかった。

「くだらねぇ」

大儲けの夢を見た男は、旅を諦めた。故郷の酒場で、酒と一緒に諦めた夢を飲み干した。


 代わり映えのしない日々を過ごしていたが、平穏が続くわけがない。男の住む町を天然痘が襲った。

「神が乗った牛の聖なる液を注射したら、天然痘にならないですむ」

どこからか町にやってきた医者達の言葉に、男を含めた町の人々は、藁にもすがる思いで従った。


 神が乗った牛であっても牛は牛だと気付いた奴がいた。牛を注射されたあと、あの噂を思い出した奴もいた。

「人が牛になる」

医者に騙された、俺達を牛にするつもりだと、町のものが暴徒化した時には、医者達は町を去ったあとだった。医者が逃げたと誰かが叫び、俺達は牛になってしまうとまた別の誰かが叫んだ。


 だが、誰も牛にはならなかった。


 町では誰も天然痘にならなかった。理由を気にするものなどいなかった。男も、町の者達も、医者のこともや神が乗った聖なる牛のことも忘れた。明日の食事の糧にありつけるかどうかが大切なのだ。


 誰かが牛になったら、そいつを食えば良い。男も、町の者達もそう考えたが、誰も牛にならなかったから、日々の糧を得るために、働き続けるしかなかった。


 こうして牛痘は少しずつ、誰を牛にすることもなく、各地に広がっていった。そのうちに、「人が牛になる」という噂は、どこからも聞かれなくなった。


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