22 夫の気がかり
死出の世界に来てからの時間を考えるのをそろそろやめようかな。
ある朝起きて、撫子がそう思った日のことだった。
「撫子、あなたに会わせたいお客様がいらっしゃいます」
「はい? 私にですか?」
レストラン「ハバナ」で給仕をしていた撫子を呼びとめて、オーナーが手招きをした。
撫子がオーナーの後ろをついていくと、彼は一つのテーブルの前で立ち止まる。
「本日のお食事はいかがですか?」
「うん。大変けっこうだ」
「いつも通りおいしいわ。ありがとう」
男性と女性の声で答えがあって、撫子は声に記憶の引っ掛かりを感じながら首を傾げる。
「オーナーの後ろにいるのは、もしかして撫子さんかな?」
「はい」
「まあ、嬉しい。話をさせてくれる?」
オーナーは振り向いて撫子の肩を叩く。撫子は一礼して前に進み出た。
「僕のことを覚えてる? 委任状を作る時に拇印を押したんだけど」
「あっ!」
あのときと違って帽子を取っているから、とっさには分からなかった。撫子は記憶が蘇って頭を下げる。
「その折にはお世話になりました。えと、どうお礼をすればよいのか」
道理で声に覚えがあるはずだ。撫子は恐縮してしどろもどろになる。
「気にすることないわ。彼は困っている人がいるとすぐにハンコを押しちゃう人なの」
女性がおっとりと言ってくる。
ん? とかすかな違和感があった。
簡単に書類に印を押してしまうとは難儀な方だ。生前はさぞかし苦労なさっただろう。
そういう人に、撫子は一人覚えがあった。
「顔を上げてちょうだい。あなたとお話したいって、オーナーに何度もお願いしたのよ」
撫子は女性の方も声に聞き覚えがあるなと思いながら顔を上げる。
彼らは大学生くらいのカップルだった。いかにも仲がよさそうに寄りそって、人が良さそうな笑顔を浮かべている。
撫子はごくんと息を呑んだ。
撫子は若い二人の顔を交互に見ながら、見覚えがあるというレベルではないことに気付く。
似ているという言葉では片付けられない。彼らはそのものだ。
「……お名前を伺ってもよろしいですか?」
「ああ、ごめんね。自己紹介が遅れた」
彼らはうなずき合って答える。
「僕は水島
「私は
撫子は呼吸が止まったような衝撃を感じていた。
「この間結婚したばかりなんだよ」
照れたように言う男性に、女性が微笑み返す。
「え、まさか、え……っ! ちょっと失礼します!」
撫子はオーナーの袖を引いて裏方まで連れて行くと、そこで勢いこんで言った。
「オーナー! あのお客様……いや、私の知ってる頃よりずっと若いですけど、でも!」
「落ち着きなさい」
オーナーは撫子の口の前に指を立てて言う。
「この世界で休暇を過ごす内に、あの方々からは記憶が抜けて、姿も一番生前覚えが強かった若い姿に戻っています」
「じゃ、じゃあやっぱり……」
一つうなずいて、オーナーは猫目でじっと撫子をみつめながら告げる。
「あなたのお父様とお母様です」
目を見開いた撫子に、オーナーはなお続ける。
「水島夫妻は本日の列車で終着駅に向かって出立されます」
「それって、つまり……本当の」
死と、撫子は言葉にできなかった。
「私はご送迎のため同行いたします。あなたはどうしますか?」
たぶんそれは言葉にできない以上に、考えたくないことだった。
もしそれを考えたら、認めてしまうことになる。だから撫子は心に蓋をして言っていた。
「ご一緒させてください!」
オーナーの答えはあっさりとしていた。
「では着替えてフロントにいらっしゃい。水島夫妻の用意が出来次第出発いたします」
オーナーはそっけなく撫子の横を通り過ぎていく。
「父さん……母さん……」
撫子は亡くなった両親に会えたことの衝撃が強すぎて、自分が嬉しいのか悲しいのかさえわからなかった。
だからオーナーが振り返って撫子をみつめていたことも、撫子は気づくことがなかった。
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