21 事実は二人の秘密

 撫子がオーナーを部屋に連れて行ってベッドに寝かせると、彼は一息ついて言った。

「急がなくとも私は戻れたのですよ。オーナーの変更はお上に受け入れられて初めて完成です。従業員名簿にオーナーの名を書き込んでも、時間が経てばお上から確認が来ます」

「え、そうなんですか?」

「はい。ましてオーナーの権限を移すのは、さっきの方法でなければ効力はありませんし」

 となると、言われた通り待っていればオーナーは元の地位に戻ったらしかった。撫子はベッドの脇に座って脱力する。

「ならよかったんですけど。でもオーナーだって悪いんですよ。簡単に従業員名簿を渡しちゃうんですから。先代だって呆れていました」

「先代?」

 怪訝そうなオーナーの声に、撫子は遠い目をした。時すでに遅しと説明をする。

「吸い込んだ記憶の中に「オーナーの鍵」のことがあったので、それを使って過去の記憶にダイブしていました」

「は? 戻れなくなったらどうしようとは思わなかったんですか」

「いや、まあ、考える暇がなくて」

「……無事だったからよかったものの」

 オーナーは目をとがらせて言う。

「危ない橋を渡るのはやめてください。気が休まりません」

「うう……すみません」

 あきらめて謝ると、オーナーは口の端に微かに苦い笑みを浮かべた。

「まあ、でも今回のことは私にも非がありました。先代も呆れたでしょう。軽はずみだと」

 目を伏せるオーナーが落ち込んでいるように見えたので、撫子は慌てて手を振る。

「いや! 女将が交換条件に出した映画のフィルムはホテルにとって大事なものだったんでしょう? 仕方ないですよ」

「ホテルにとってはさほど重要なものではありません」

 オーナーは半身を起して撫子に手を差し伸べる。

「見てみますか?」

 撫子は一瞬迷ったが、ポケットに手を入れてフィルムを取り出した。

 スクリーンを出してオーナーが上映した映像は、古ぼけたものだった。

 雑音と映像の乱れが激しい中、画面の中で女性が手を振る。

「あー。聞こえる?」

 明治の頃のような、ショートカットヘアに着物姿の女性だった。女性にはアニマル的特徴がないから、人間らしい。

 音声が聞こえるかどうか慎重に何回かテストした後、彼女は画面の中央に立つ。

「キャット。この映像をあなたが見る頃には、私はもう終着駅に着いて消えているでしょうね」

 画面のこちら側のオーナーが見えているように、女性は親しげに話しかけてくる。

「突然私がいなくなって、あなたは寂しがってるかしら。それとも怒ってる?」

 オーナーは何も言わなかったが、それが先代のオーナーの映像だということは撫子にもわかった。

「けど私はもう十分すぎるくらいホテル作りをしたから。後はあなたに任せた方が、ホテルのために良いと思ったのよ。さて」

 先代はあっさりと言葉を切って、大きな目でじっとこちらを見る。

「これからのホテルはあなたがオーナーなのだから、あなたの思うようにすればいい。私が作ったどんなものもあなたが必要ないと思えば捨てていいし、あなたが必要と思うものはどんどん取り入れて構わない。……だけど」

 人差し指を立てて、先代は言う。

「一つだけあなたに残しておいてほしいものがある。それは、笑顔」

 先代はその言葉を実行するように、愛嬌たっぷりに笑ってみせた。

「お客様に笑って休暇を過ごして頂けるように、まずはあなた自身が笑顔でいなさい」

 その笑顔は別れの挨拶とは思えないほど明るくて、屈託なくて、見る者の気持ちを晴れやかにしてくれた。

「それだけよ。後は任せたわ、オーナー」

 映像はそれで途切れた。

 ザザっと画面が黒く乱れる。

「このフィルムは、唯一先代が映っているものです。私は先代が嫌いでした」

 もう何も映らない画面を見ながら、オーナーはぽつりと言う。

「身勝手で突拍子もなくて、言いたいことだけ言ってさっさと逝ってしまう。私のことなど、好奇心で取り入れたホテルの備品の一つくらいにしか思っていない人でしたから」

「ぷっ!」

「何がおかしいんです」

 撫子は思わず笑って言葉を挟む。

「親の心子知らずってやつですね。いや、子忘れですか? オーナー、かわいがってもらってたじゃありませんか。いっぱい頭撫でてもらって、膝枕してもらって。記憶のほこりの中にありましたよ」

 オーナーはうろたえて、撫子に視線を投げかける。

「吸い込んだ記憶はさっさと忘れなさいと言ったでしょう」

「あんなほのぼのした記憶、そう簡単に手放しませんよ」

 撫子はくすくすと笑いながら続ける。

「オーナーが先代のことを嫌いなはずがありません。だって、オーナーはずっと先代の名前を持つ人間を探していたんじゃありませんか?」

 「オーナーの鍵」のプレートを見て、撫子は察しがついたのだ。

「先代の名前、撫子さんなんでしょう」

 撫子の言葉に、オーナーは少し黙った。

「……はい」

 なぜか重苦しい沈黙が落ちて、撫子は触れてはいけないことだったような気がした。

「い、いや、いいじゃないですか、別に。オーナーに好きな人がいたって、私は……」

「違います」

 オーナーは撫子を引き寄せてすぐ側で見下ろす。

「先代はあくまで私の師で、親代わりです。あなたとは何もかもが違います」

 オーナーは立ちあがってプロジェクターからフィルムを取って来ると、それに手をかける。

「待った! 何破こうとしてるんですか!」

 撫子は慌ててフィルムをオーナーの手から取り上げる。

「詫びの言葉もありません。それのせいでホテルを危険にさらした上、あなたに浮気まで疑わせてしまった」

「貴重なメッセージをそんな簡単に捨てちゃ駄目ですよ! 分かりました、浮気じゃないんですね! それならいいでしょう?」

 なんかいつの間にか夫婦喧嘩みたいになってると内心焦りつつ、撫子はなだめるように言う。

「私を信じますね?」

「信じますって。ですからこれは大事に取っておいてください」

 綺麗な猫目でじっとみつめられると、撫子は繰り返しうなずくしかなかった。

 撫子はフィルムを枕元にそっと置くと、オーナーに振り向く。

「そんな余計なことに気を回さずに、ゆっくりお休みになってください」

 撫子はベッドに座ったオーナーの体を支えようと手を伸ばす。

 とにかくオーナーは帰って来たし、ホテルも元通りだ。ひと段落だと安心したところで、その手がオーナーにつかまれた。

「ところで、私が責任を取っていないとの苦情がありました」

「ひええ!」

 撫子は自分が言ったことながら今更真っ赤になる。

「いやいや! つい勢いで!」

 引っ張り込まれてベッドに倒れ込む。あわあわする撫子の耳元でオーナーが言う。

「……大丈夫。怖かったら止めますよ」

 優しくほおをなでられたら、撫子の体から力が抜けた。

 このひとのこういう案外気遣いさんなところ、結局私、好きなんだなぁ。撫子はもぞもぞとオーナーの服の裾をつかんで思った。

 ちなみにその後オーナーを呼びに来た従業員によって、「オーナーが奥方様とついにベッドインされた」という情報がつつがなく従業員全員に共有されたことを撫子が知るのは、数日も経たなかった。

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