蝶肢筋と七七六の超越者
羊蔵
蝶肢筋と七七六の超越者
その人は蝶肢筋という常人には存在しない随意筋を持って生まれたそうだ。
遺伝とかではなく先天性異常なのだという。それもポジティブな。
一度さわらせてもらったが、僕には普通の背中と区別がつかなかった。
でも、その筋肉のおかげで、その人は常人より肩甲骨の可動域が広く、またあり得ない方向に強い力を使うことができる。それは確かなことだった。
その人は、それほど真剣にうちこんでいるわけでもないフリークライミングで、日本屈指ともいえる記録をいくつか残した。
「蝶などというのは名前だけだよ。それで空が飛べるわけじゃない」
と、その人は自嘲する。
でも常人には、それどころか昆虫にも進行不可能なオーバーハングを、素手でひらひら登っていく姿は、僕には充分「空を飛ぶもの」に見えた。
やはり孤独なのだろう。その人は他者の体つきを確かめたがった。
僕の背中を手で探り、平凡な筋繊維の奥に蝶肢筋めいたものを探すのだ。
無論、僕にそんな器官は存在せず、その人をがっかりさせてしまうだけだった。
「同じ蝶肢筋を持った人と出会った事がある。一度だけ、ほんのわずかな交わりだったけれど」
ある時その人は教えてくれた。
「その男がいうには、蝶肢筋を含めたポジティブな先天性異常は、理論的にいって七七七種類が予見されるらしい。骨格やなにかから計算できる、とそういうんだ」
そういって遠い目をするのだった。
「そういう人がいたら会ってみたいですか?」
と僕は訊ねた。
「面倒くさいよ」
とその人は答えたけれど、休みの度に旅に出るのが、クライミングのためだけではない事くらい僕にも分かる。
何かを期待しながら旅に出て、がっかりしながら僕ら凡人の所へ帰ってくる。
いずれ遠からず、僕らの住む俗界から『蝶肢筋のクライマー』が飛び立って行くことは間違いないように思われた。
未知の超越者を探して。
あるいはつがいになるもう一人の蝶を求めて。
蝶肢筋と七七六の超越者 羊蔵 @Yozoberg
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます