蕾落街

秋ノ夜長

遺書のような何か

分からない。

これが今の私の人生の総括である。テレビで、雑誌で、本で、噂で、ネットで、著名な人々の活躍を見る度に、私にも何か人kら讃えられるようなことをなせるのではと夢想してきた。しかしさて、これが考えれば考えるほどに、こんがらがっていくのである。

神であれば、およそ超越的に、俯瞰的に物事を見定められれば、およそ見事な答えが得られると、さながら数学の公式のごとくさっぱりとした答えが見つかると今までは思っていた。あらゆる本を読みあさり、新聞を読み、電子媒体をあさり続けた。しかし、結果できあがったものといえば、実用性が皆無な独りよがりの理論のみ。孔子であったか。そのようなことを指摘したものがいたような気もする。これくらいの教養さえ思い出せないのだから、あれだけ読んだはずの文字の数々が私の糧になっているなどとは、口が裂けても言えないのである。

話は変わるが、私は恵まれた生を送ってきた。子を子とも思わぬような両親はおらず、愛と金と時間をひたすらにそそがれて生きてきた。欲しいと思えば、玩具であろうと食ベものであろうと、少しねだれば与えられたものである。それどころか、幼い私では気が回らぬようなことまで、私の両親は、ほうほう手を尽くしてくれていたのである。そんな訳で私は真の意味で苦痛を知らずに育った。それどころかそうした苦痛に耐性がなく、そうした話題が上がれば、まるでそれを騒音のように捉え、耳を塞いだものである。人として間違った感性であるとは思わない。しかし、優れた人物であるとは到底認められない。こうした問題をどのように捉えるかは議論によるところであるため省略するが、ようするに私は何かから脅かされたことなど無かったのだ。

 世の人は幸せと捉えるだろう。私としても同意である。たとえ親が生きている間の期限付きの幸福であろうともそれすら謳歌できない人間がこの世にはごまんといるのだから。しかし、私からすればそれは決して幸福とは呼べなかった。それを不満に感じたなどという意味ではない。あらゆるものに囲まれ、足りなければ補充され、何かを為すのではなく、何かをしている状態を褒められる。そんな環境に身を置いた私がどうなったのか。あらゆるものに満たされていると、仮にそうでなかったとしてもそう思わされてきた私は、やがて「欲しい」という感情が鈍くなっていた。すると、かつて色鮮やかに見えていたはずの景色が、驚くほどに色を無くしていくのである。私がそれに気づいたときには、世界は、いや私の目から色は大半が失われていた。こうなってしまうと辛い。誰かがこうだと言った色に同調することも反発することもできない。自分の中にあらゆるものに対する基準と評価が消え失せ、口は開いて動くのに、何も言えなくなるのである。しかし、同時に自分に対しては饒舌になる。自分しか自分の世界にいないからである。色鮮やかな物体はもう私にとっては私しかいないのである。こうしてできあがるのは、あらゆる知識を営々と蓄えながら、それをさびれた書庫のように押し込めただけの鉄でできた人間である。鉄になったのが心ならばどれほどよかったか。あらゆる困難に負けない忍耐を得られただろう。しかし鉄になったのは、脳であり、体なのである。何をするにも鈍重で、ユーモアが効かず、歩くことさえ億劫になった、さながらブリキの人形である。いや誰かを楽しませるか、あるいは作るものに金をもたらすだけブリキの人形の方が有益かもしれない。

 自分でさえこれだけ思うところがあるのである。これだけの破綻をどうやって包み隠せよう。希代の詐欺師として完璧な仮面をかぶるか、あるいはその足りなさを相手につけ込ま/さ/せるだけの弱さとして着飾れたらよかっただろう。しかし、そうではない。恵まれた環境で育ったが故の私には、最初から他者など必要なかった。両親でさえが私に餌を運び、出たものを知らずの内にどこかへやってくれる飼育員であった。無論あのときの感覚を再現するとこんな表現になるだけで、当時からこんな虚無のような感性はしていない。結果、私は見てくれに興味を示さなかった。もはや、着飾るという概念さえなかったのである。故に、私の破綻は見る間にその身に現われた。鉄の体に錆のように現われる人としての未熟と破綻はもはや外を歩けば人の目には入らない。入っているのだろうが、否定のまなざしすら向けられない取るに足りない存在なのである。世の人々は自分以外の世の人々にとって大体がそうであろう。しかし、得てして人は誰かにそうでない見られ方をする。それが恋愛であれ、友愛であれ、拒絶であれ、嫌悪であれ。それがない。自分から見てもそうなりつつある。

人は人と関わってはじめて意味をなすという。この言葉の意味するところはもっと深いものであるが、今回は意を汲んでくれると有り難い。汲めないという方は社会に貢献することこそ人の本懐であるというぐらいで受け取って欲しい。誰に顧みられることもなく、誰かを顧みることもなく、社会から興味という名の枷を外してしまった私には、我ながら哀れなことであるが、その再びの止め方を知らなかったのである。枷を外したとき、私は自由になった。それは素晴らしいと感じた。しかし、そうではなかった。枷を外したということは、誰かとのつながりも同時に失うことだった。奇妙なものである。枷をつけられたまま、鎖を長く長くして一人になっている間は、不自由であれ不満であれ、不安ではなかった。しかし、取り外して本当に一人になったとき、私は言い様もない不安を感じた。戻り方の分からぬ私は枷につながれている振りをしている。いつかこの振りはばれ、はみ出し者として追い出されることに違いはなく、日々おびえるばかりである。そんな恐怖にさいなまれ、何もできない日々が続く。私に天が何かを与えてくれていたなら、私は一人で生きていけたかもしれない。しかし、私はどうしようもないほどに凡人なのである。

そんな訳で、いま私にとって社会にいる人とは私だけなのである。他の人はさながら天で騒がしく走り回っている八百万の神様のごとくである。近くにいながら、話も価値観も通じない。人の形をしていながら、人であるはずの私の振るまいとはまるで違う生を生きている。

とはいえ、私にはまだ一つ誰もが持ちながらおよそ私以上にもっているものなど限られている資産がある。それが「時間」である。それを活かして、私は考え続けた。このような境遇から抜け出すにはどうすればよいのか。この境遇にはどんな法則があるのか。しかし、考えればかんがえるほどドツボにはまる。

いやはや申し訳ないことである。親は飼育員などと表現したが、恩こそ感じていないが人として義理は果たさねばと考えている。その結果がこれである。もはやこの文章も着地点を見失ってしまった。故に、ここまでとする。道理ばかり求めて、世を知らずに育った私にはこの様な末路は相応しいかもしれないが、そこで生きてゆけないのだから都にはなるまい。

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