忘却の女神の道楽

涼月

第1話 風鈴の館

 この世とあの世の境には大きな川が流れている。


忘却レテの川』と呼ぶ民もいれば、『三途の川』と呼ぶ民もいる。『奈河』『ステュクス』『ヴァイタラニ』など呼び名は一つでは無いし、役割や川の形状も微妙に違うけれど、世界各地でこれほど長く語り伝えられているのだから、きっと真実なのだろう。

 にも拘らず、その存在が物語の域を出ていないのには、れっきとした理由わけがある。

 なぜなら、この川を越える度、人はその記憶を失ってしまうから———


 罪を問われ、罪を赦される度に、何度も何度もこの川を行き来しているはずなのに、人はその記憶を留めることが非常に難しい。 

 川の畔で美女が施す『忘却の薬湯』を拒める人なんてそう多くはないのだ。


 記憶を持ち続けることが幸せとは限らないと知っているから……



 

 側からその川を見下ろせる小高い丘の上に、瀟洒な洋館が佇んでいた。落ち着いた灰墨色のレンガ。浮き立つ白い窓枠。やや傾斜の鋭いとんがり屋根が左右対称に配されているため、必然的に出入り口は真ん中になっている。

 細かな蔦模様の彫られた胡桃の木で作られた扉は艶やかな飴色を放っていて、真鍮でつくられた取っ手に力を加えれば、ぎぎーっと軋んだ音が響き訪問者の到着を告げた。


 二階の自室で寛いでいたこの館の主は、横たえていた体を長椅子から起こした。

 後ろで高く結い上げた髪が、パサリと遅れて主に寄り添う。衣紋をかなり大きく抜いた首元が白く美しい。露わになっている鎖骨が少々寒々しく見えるが、左前に合わせた胸元には紫に金糸で描かれた牡丹の花が艶やかに咲いている。腰高に結われた帯は前側で蝶結び。大胆に左右に割れた着物の裾先が椅子から零れ落ちているが、足が露わになることは無い。隙間を覆うのは柔らかな淡い桃色のドレープ。細くて長い脚に吸い付いていた。

 それを静かに椅子から降ろすと、女は耳を澄ませた。


 彼女の周りには、所狭しと蛍袋型の愛らしい風鈴が飾られている。側面には切り絵模様がびっしりと描かれていて、影と影の隙間から、色とりどりの淡い光が漏れ出ていた。

 風も無いのに、時折くるりと回っては、チリンと涼し気な音を鳴らすのだが、今は扉が開くのと同時に風が一吹き。

 チリリン、チリリンとたくさんの音色が重なり合った。


 それを奏でた男を、微笑みながら出迎える。


「こんなところまで、お越しくださるとは。そんなに私が恋しいですか」

「そうだな。そなたの顔が見られないと落ち着かなくなる。こんな気持ちにさせるお前はなんて罪深い女だろうな」 

 

 スラリとした長身の男は、そう言って美しい口の端を引き上げた。

 黒蝶舞い踊る赤い羽織をちょっと着崩して、真っ直ぐな黒髪をさらさらと風に広げながら、血のように赤い眼が女を捉えた。普通だったら、その色気に当てられて頽れてしまうだろう。だが、目の前の女は臆することなく見上げると言い返した。


「まあ、閻魔様にそんな風におっしゃられたら、私は即地獄行き確定ではありませんか」

「いや、そんなことにはならないよ。罪と罰が鬩ぎ合う場所。それが私の言の葉だが、そなたの罪は私が直々に罰してあげるからね」


 妖艶な笑みを湛えたまま、男は女を抱きすくめた。


「ああ。やはり落ち着く」


 そう言って甘い唇も味わい始めた。


 時が止まったかのような静寂の中で、時折チリン、チリンと風鈴が鳴る。

 まるで、自分たちの存在を忘れるなと抗議するかのように……


 二人だけの時間を邪魔されて、閻魔と呼ばれた男は鬱陶しそうに取り囲む風鈴に目をやった。


「お前も酔狂だな、清果きよか


 その視線を再び目の前の女に戻し、彼女の真名まなを呼ぶ。


「お前の役目は記憶を消すこと。この世の記憶もあの世の記憶も。それぞれの地で結んだ果実を混ぜ合わせないために、そなたは薬湯を差し出し跡形も無く消し去ってきたはず。それなのに、こんなところにこの世の記憶を集めてなんとする。しかもこんな細切れの記憶を」


 女はふふっと笑みを浮かべる。


「道楽です。私の。敢えて言うなら……私なりの罪滅ぼしとでも言いますか。消してしまった記憶は戻らないし、必要が無いと言われてしまえばそれまでなのですが、かの者達が積み上げた月日を全て『いらない』と切って捨てるのは非情過ぎるなぁと思いまして。だから、私だけでも弔ってあげようかと」


 閻魔の表情が蕩けて、清果を見つめる瞳に熱が宿る。


「やはりそなたは優しいな」

「それはどうでしょうか?」

「謙遜することは無い。集めているのは彼らが捨てたいと思っている記憶だけと聞いている。辛くて悲しい記憶をお前に預けることができれば彼らは解放される。きっと幸せになれるはず。私に裁かれる罪の数も減るに違いない」

「閻魔様こそお優しい」


 閻魔の首筋をなぞりながら、清果はその瞳の奥を覗き込む。誰よりも深い悲しみに支配されたその水底を捉えながら、ゆっくりと顔を近づけていく。その耳朶に直接囁きかけた。


「人々に罪と罰を言い渡しながら、誰よりも深く傷ついていらっしゃるのはあなた様ではありませんか? 本当はこの世から罪など消えて欲しいと願っているのは閻魔様でしょう。だから、薬湯を一番必要とされているのはあなた様だと言うことを、私は分っておりますよ。ご所望いただければいつでも……」


「嫌だ。この最悪の気持ちを忘れられたらどんなに良いかと毎夜思っているのは確かだ。そなたの診立ては間違っていない。でも……だから忘れたいとは思わない。それも私なんだ」

「そうおっしゃるだろうと思っておりました。だから……」


 清果は閻魔を寝屋へと誘う。チリン、チリンとなる風鈴を指差しながら優しく語り掛けた。


「嫌な記憶を捨てたから、生きやすくなるなんてことは無いのです。人と言う生き物は考えることを止められないので、常に新しい罪の意識が芽生えてしまう。その意識がまた罪を呼び寄せる。なんとも業の深い生き物です。でも、可愛らしくもあります」


 己が膝に閻魔の頭を乗せて口づけてから、右手人差し指で、二つの風鈴を呼び寄せた。


「これからちょっとした上映会です。この風鈴の中にどんな記憶が刻まれているのか、気になりませんか?」

「何を企んでいる?」

「別に。何も。ただ、閻魔様がそんなに悲しい顔をされなくてもいいのですよと、お伝えしたいだけです。何をどうあがいても、罪と罰は生まれてしまう。だから、貴方様がそれを憂うことは無いのです。大丈夫です。然るべき時が来たら、私が必ず彼らを忘却の彼方へ連れて行きますから。これを見る度、私は自分の存在意義を思い出すのです。忘却は幸い。だから私が居るのだと」


 儚い笑みが広がる。


「そして、あなたは忘却の前の清めの儀式を彼らに授けている。そう言うことです。魂の浄化と忘却。この二つがあるからこそ、彼らは生まれ変わることができるのです。それを忘れないでくださいね」


「清果……」


 閻魔の赤い瞳が、うるりと輝いた。その目じりを一撫で。

 指先で捉えた塩辛い汁を口へ運び、清果はもう一度微笑んだ。


 二つの風鈴が回り始め、淡い光に包まれた光景が走馬灯のように流れゆく。

 

 語られるのは記憶の切れ端―――


 それを、この世の宵闇の中で、二つの影が寄り添い見つめている。


 

 


 



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