第17話 夜の道行き
築年数の浅い小綺麗なマンションの七階、南東角部屋のリビングである。
照明は点いていない。だがカーテンが開けっ放しのため、窓の外には街の灯りが見えていた。
にもかかわらず、室内は奇妙なほど闇が濃かった。まるで黒い霧でも立ち込めているかのようだ。
「僕のせいじゃない僕のせいじゃない僕のせいじゃ……」
男は洒落たソファの脇の床に座り込んでいた。両手で頭を抱え、陰鬱で偏執的な呪文を唱え続ける。
「……ない僕のせいじゃない悪いのはあいつだあいつが悪いんだ僕の」
ふいに顔を上げる。調子外れに声が高まる。
「せいじゃないっ、全部あいつのせいだ!」
憎い仇に対するように、
「答えろ! 僕のせいじゃないって言えよ! あの娘が死んだのは僕のせいじゃない、そうだな!?」
輝くように美しい少女から、噴水のごとく鮮血が
彦坂が直接手を下したわけはない。それは絶対確かなことだ。
彦坂にはあの娘を傷つける意図さえなかった。
それを勝手に過剰反応した挙げ句、自分から剣の前へと飛び出したのだ。つまり本人の過失による事故で、彦坂には何の責任もないはずだ。
「然り。ぬしの罪ではない」
闇が軋んだ。彦坂の背後に、暗い影がどろりと浮かび上がっていた。
彦坂は骨まで凍るような寒気を覚え、だがその場から動こうとはしない。むしろ救われたような風情で、異類の物へ言葉を吐き出す。
「当り前だ。だって僕は指一本触れてないんだからな。全部お前がやったことだ」
「然り。まさに吾が剣を振るった」
「だからお前がどうにかするんだ。僕は知らない」
彦坂の一方的な押し付けにも影が逆らうことはない。中世騎士の
「然り。全ては汝の与り知らぬことだ。汝は何も知らずにいれば良い。故に」
黒騎士の影が広がる。彦坂の身がじわじわと侵蝕されていく。
「吾に委ねよ。汝の心を開くのだ。さすればあらゆる
「そうか、そうだな……うん、お前に任せよう。それで僕は……」
彦坂の首ががくりと垂れた。急速にまぶたが落ちていく。
いつの間にか黒騎士の姿は消えており、やがて彦坂はゆるゆると面を上げた。
その瞳はどこまでも暗く黒い。あらゆる光を閉じ込める純粋なる闇の色。
「凛子を、僕のものにする」
錆びたバネのようにぎこちなく開いた口が、無感動に妄執を紡ぎ出した。
頭が痛い。悩み事とかではなく、純粋に肉体的な意味で辛い。
さっきユリアに突き飛ばされた後遺症だ。出血やめまいなどはないものの、大きなたんこぶができていて、しきりと
「痛っ」
つい力を入れ過ぎた。我ながら実に間抜けだ。文字通りイタい奴である。
「我が君、どうされました」
隣を行くユリアが顔を向ける。心配してくれているのは間違いない。だがいかんせん調子が素っ気ない。
「大丈夫、大したことないから」
「そうですか」
ユリアはあっさりと頷くと、すぐに前に向き直った。その小脇にはシーツを巻いた細長い包みを抱えている。中身は人に知られたら非常にまずい代物だ。だがなにしろ見た目は可憐な美少女だから、人も殺せる兇器を持ち運んでいるのだとはまさか誰も思うまい。
その生真面目な横顔を竜仁は盗み見る。
夜の住宅街に灯りは乏しく、暗視能力など持たぬ身には、肌の色の変化までは見定めがたい。
ひょっとして未だ治まらぬ怒りに紅潮しているのだろうか。それとも不機嫌に
だがいずれにせよ、失神する前の出来事は現実だった。
だからこそユリアは微妙に尖っているのだろう。
キスすら未遂に終わったとはいえ、一糸
後ろから自動車のエンジン音が近付いてくる。道幅は狭く、専用の歩道はない。竜仁は端へと身を寄せた。
「きゃっ」
「わっ、ごめっ」
だがユリアの小さな体にぶつかってしまい、反射的に距離を取ろうとしたのがまずかった。
けたたましいクラクションの音に打たれて身が竦む。まずいと思っても体はますます固くなり、かろうじて顔だけ振り向かせたことが、いっそう状況を悪くした。至近からのハイビームに視界が
「我が君っ!」
まさに間一髪だった。しがみついたユリアが竜仁を引き戻し、直後にワゴン車が鼻先を走り過ぎた。風圧がまつ毛を揺らしたのを感じ、どっと冷や汗が
「ふぅー……ありがとうユリア。おかげで助かった」
「いえ、大事なくて何よりでした。緊急時とはいえ、ご無礼を致し……」
ユリアの言葉がふいに途切れる。竜仁もまた息を止めていた。
距離が近い、どころではない。完全に密着している。不可抗力の成り行きとはいえ、
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