第8話 いけない先生

 正直なところ、悪い気はしない。

 とびきりの美少女が、いつでも自分の傍にいようとする。

 動機は未だ不明だが(当人は悪しき竜と戦うため、などとわけの分らない供述をしている)、ユリアの気持ちはきっと本物だ。だいたい、単なる冗談や悪ふざけで一人暮らしの男の部屋に女の子が泊まり込んだりはしないだろう。しかも布団は一組しかないのに、である。


 しかし単純に喜んでばかりもいられない。

 なにせ自称十六歳だ。文字通り人種も違うのでなかなか判断が難しいところだが、時にもっと幼くさえ見える。


 エロいことはまだびた一文していない(というかさせてもらえない)。だがもし変な相手に目をつけられ、悪意の通報でもされたら、青少年なんたら条例でタイホされてしまうかもしれない。

 だがそんな将来の可能性の話より、今まさに現在進行形の脅威があった。


「……いてて、っくー」

 身動みじろぎした拍子、全身に痛みが走る。この週末、ユリアに過激な行為を強要され続けた結果である。体が未開発の竜仁たつひとには本当に過酷な経験だった。もう駄目、許してと幾度叫んだことだろう。精力を絞り尽くされた挙げ句、失神してしまったことさえあった。


「我が君、いくらなんでも出し惜しみが過ぎます。周囲に多大な被害が及びますから、全力でやれとは申しません。しかしせめて体をほぐす程度のことはしておかなければ、いざという時に戦えません」


 いや別に戦う予定なんてないし、という正論はユリアには通らなかった。

 腕立て伏せや走り込みといった基礎体力作りに始まって、直接相対しての格闘訓練では文字通り叩きのめされ、投げ飛ばされ、押さえ込まれ締められた。


 これまで月曜日を嬉しく思ったことなどなかった。だが今日は違う。おかげで大学を大義名分に、特殊部隊のキャンプさながらの責め苦から解放されることができた。

 ユリアはアパートで留守番だ。初めは当然のように付いてこようとしたのだが、もしまた前みたいな騒ぎを起こしたら主従の縁を切ると宣告すると、「そんなことを言っても駄目ですからね。ひとたび結ばれた契りは永遠なんです」と瑠璃色の瞳を潤ませながらも、最後は待機命令に従った。


 心苦しさを覚えなかったと言ったら嘘になる。だが常識的にも都合的にも連れていくという選択肢はあり得なかった。

 講義の間はひたすら体力の回復に努めた。たぶん四分の三ぐらいは居眠りしていただろう。そのせいで最後のコマを終えて校舎を出た時、竜仁の体はすっかり強張っていた。もし今温泉に浸かったら秒速で落ちる自信があった。


 体力も金もないのでこれから遊びに繰り出す余裕はない(ついでに一緒に出掛ける相手もいない)。しかし早く家に着けばそれだけ特訓の時間も長くなる。とはいえユリアを長く一人にしておくのも不安だ。


武大ぶだいくん!」

 苦悩に沈んでいた竜仁はびくりとして足を止めた。硬いヒールの音がカツカツと背後から近付いてくる。


「ごめんなさい、待った?」

「は?」

「それじゃ行きましょうか」

「へ? ほわ?」


 鷹司たかつかさ凛子りんこは躊躇なく竜仁の腕を取った。そして犬の綱を引くようにして歩き出す。意味不明だった。竜仁に鷹司と約束した憶えはない。ドッキリか何かだろうか?


「凛子、まだ僕の話は終わってない。途中で立ち去るなんて許さないよ」

 さらに鷹司を追ってきたらしい男が、二人を追い抜いて行く手を遮っていた。シャツにジャケットという小綺麗な身なりをしていて、一見して犯罪者やチンピラ風ではない、というか竜仁も知っている相手だ。なんとゼミの彦坂ひこさか准教授である。


 鷹司はさりげなく立ち位置を変えた。彦坂に対して竜仁を盾にするような形である。

「いいえ彦坂先生、お誘いならもうお断りしました。どいてください。見ての通り約束があるので」


「ははっ、笑わせるんじゃないよ。君みたいな女が、そんなカスみたいな男に何の用があるっていうんだ。見え透いた嘘はやめて僕と来るんだ。最高のお楽しみが待っているよ」


 彦坂の目は何日も徹夜を重ねたみたいに血走っていた。普段の知的で洗練された印象とはおよそかけ離れた面持ちだ。

 鷹司はあくまでも冷静だった。


「これ以上しつこくするようなら警察に連絡します。武大くん、電話を出して」

「え?」

「早く」

「は、はいっ」


 言われるままにスマホを取り出す。彦坂が今にも殺しにかかってきそうな眼光で睨む。めちゃめちゃ怖い。だが竜仁は耐えた。鷹司には前に同じようなやり方で助けてもらっているし、それにこの状況で自分だけ逃げ出せるはずもない。


 キレて襲ってこないかとヒヤヒヤしたが、幸い彦坂にはまだ理性が残っていたらしい。盛大に舌打ちをすると、荒々しくきびすを返した。

 竜仁は息をついた。こめかみの辺りが針で突かれたように痛んでいた。

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