第12話 来るべき未来
どのくらい時間が経過して、どのくらい記憶が欠落しているんだろう。目覚めた僕の前には、知らない天井が網膜に映し出された。その白い天井は、何の情報も与えてはくれず、あてどもない時間軸を彷徨っていた。恐る恐る、視線だけを動かしてみると、ここが病院らしきことが理解できた。無機質な金属のパイプで組み合わされたベッドに寝ているのがわかった。窓からは、朝日か夕日かは判らないけれど、斜めに光が差し込んで僕の足を照らしていた。腕には点滴のチューブがつながれていて一滴ずつ体内に送り込まれていた。
ベッドの横に視線を移すと、そこには車椅子のまま、ベッドに顔を埋めている美佳がいた。たぶん、疲れて寝ているのだろう。いつから、僕についていてくれているのだろうか。部屋には時計もなく、僕の知らないところでただ静かに時が流れているようだった。意識がはっきりしてくると、言いようのない焦燥感が僕の心に押し寄せてきた。体のけだるさは、いくぶんか改善されているようだった。ベッドに、体を押しつけている重力に逆らうように体を起こそうとしたが、相変わらず体は重く起き上がろうとする気力は削がれてしまった。その時、改めて感じた違和感が頭の中に広がった。いつもと違う体にかかる重力配分が、下半身だけに重く大きくのしかかった。
「まさか、今更なんで。」
振り払いたい疑惑が、口の中の苦みに変わっていく。恐る恐る僕の脳から、右足を動かす指令を送ってみる。思いとは裏腹に、右足の神経は断線した回路のように何の反応もしなかった。反射的に僕の脳は、左足に動くことを命じていた。だが右足と同じように重力に逆らうような動きをすることはなかった。
「発病したのか。」
胸の中の思いが、自分の意思に反して言葉となり、静かな病室に響いた。
「目が、覚めたんですか。」
僕の声に、反応したかのように美佳はベッドに埋もれていた顔を持ち上げてこちらを向いた。
「よかったぁ。熱が高くて、丸一日寝てたんですよ。」
美佳は、安心したかのように微笑んだ。
「今、何時?ずっと、君が付き添ってくれてたの?」
「今は10時半くらいです。橘さんが倒れたとき、病院に付き添ってきたのは伸子先輩でした。私は、仕事が終わってから病院に来て、伸子先輩と交代したんですよ。」
自分の腕時計を確認しながら、美佳はゆっくりと僕に話してくれた。
「一晩、ここで付き添ってくれてたんだ。ありがとう。」
押し寄せる質問の言葉を、先送りしながら美佳に礼を言った。
「私は、ただ付いてただけですから。どうですか気分は?」
「うん。昨日よりは、だいぶ楽になったみたいだよ。ただ・・・。」
「ただ?」
今は触れたくないような感情に駆られて、話題をそらすように美佳に聞いた。
「ここは、どこの病院?」
「市立病院です。」
「担当の先生は、なにか言っていなかったかな?」
「いえ、私はなにも。伸子先輩が、主治医の先生に呼ばれてましたけど。」
「先輩が?」
「はい。私が昨日、病室に来たとき看護師さんが先輩を呼びに来て、交代で私が付き添った感じになります。」
「そう。」
僕の中にある不安を読み取ったのか、美佳は安心を与えるように言った。
「熱も徐々に下がってるみたいですし、こうやってお話もちゃんと出来るんだし、もう大丈夫ですよ。」
「うん。体も少しは楽になってるみたいだから、君は心配しなくても大丈夫だよ。」
反射的にそう言っている僕は、美佳に少しだけ微笑んで見せた。
「橘さんは病人なんだから、私に気を使わなくてもいいですよ。私が無理を言って海なんかに連れて行ってもらったから。」
「そんなことないさ。」
「でも、あのとき・・・あんなことにならなければ・・・。」
「あのせいじゃないよ。それに、あの日のことは僕たちの大切な想い出として記憶に残しておきたいんだから、そんな風に言わないでくれよ。」
「それは、私だって同じです。」
「だったら。ねっ。」
「はい・・・。わかりました。」
美佳は、自分を責める気持ちを押し殺して、僕に向かって頷いた。
「それより、疲れてるんじゃないの。昨夜から、ずっとここにいたんだろ?」
「だいじょうぶです。そばにいられない方が心配ですから。それに、先輩がお昼くらいになったら交代に来るって言ってました。」
「そう。じゃあ先輩が来たら、少し休まなきゃ。」
「はい。一度家に帰ってシャワー浴びて着替えてきます。橘さんは着替えとかどうしましょう?鍵を預からしてもらえれば、取ってきますけど。」
「そうだなぁ。どうしよう。タンスの中にあるのわかるかなぁ。」
「この前、お邪魔したときに大体の位置はわかってますから、大丈夫だと思うんですけどね。」
「タンスの中から、恥ずかしいものが発掘されても、見ないふりしてね。」
「わかりました。でも、そんなもの発掘される可能性ってあるんですか?。」
「たぶん、大いにある。」
置いてある物が少ないため、よく反響する病室にクスクスと笑う二人の声が響いた。他愛もない会話が、今の僕には救いだった。
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