ふたつの足跡

@Anthony-Blue

第1話 喧騒の朝

短い繰り返しのクラクションが浅い眠りの頭に飛び込んでくる。

「また、誰か渡り損ねたな。」

 僕の部屋の前の幹線道路は六車線。渡りきるには、結構なスピードでなければ向こう岸までたどり着けない。おまけに、道路の断面は、排水を考慮して蒲鉾状になっている。センターラインまでは、上り坂と言うことになる。「あの日」以来、建物や交通機関の対応は、それなりに整備されてきているのに細かい配慮までは追いついてない。信号の間隔を長くすればよいのだが、車中心の交通行政はそれを許さない。車から降りれば、同じ境遇なのにである。

 まだ、少し早いなと思いながらゆっくりと起きあがる。昨日、仕事であちこち歩き回ったせいか腕が重い。立ち上がり、洗面所にゆく。相変わらず、低い洗面台には閉口する。僕は、決して身長が高いわけではないのだが、今ではあまり意味のないことになってしまった。立って歯を磨く、立って顔を洗う、それ自体今の時代では、無意味なのだ。

 服を着替えて、冷蔵庫にあったミネラルウォーターを飲み干す。朝は、決まって食欲がない。水を飲むのは、前の日に汚れた胃の粘膜を洗い流すための儀式なのかもしれない。

 出勤前のもう一つの儀式は、部屋に置かれた車椅子に乗ることである。几帳面な人は、靴と同じように玄関で、部屋用の車椅子に乗り換えるそうだが僕はそこまではしない。まあ、うちの玄関は段差はなく、土間のPタイと部屋のフローリングの区切りに、アルミの平板がはめ込んであるだけのものだから、ついつい横着になってしまった。

車椅子に腰を下ろし、足に靴をねじ込み、ドアを開け表の廊下に出る。腕時計をみると、まだ7時40分だ。僕の部屋は、3階なのだが、いつもなら遅刻ぎりぎりでエレベーターを待つ余裕もなく、非常用スロープを駆け下りるのだけど、今日はその必要はない。エレベーターを待っていると時間もまだ早いせいかスムーズに降りてきてすぐにドアが開いた。 中には、三人の先客が乗っていた。一応、軽く会釈をしてバックで、中に滑り込む。小さい頃、前進でエレベーターに乗って狭い中で、方向転換をするような迷惑をするなと、よく母親にしかられた。

 このマンションは、築十数年だが政府の建物環境基準によるとAAとはいかないまでもAクラス認定である。エレベーターとしては中型で、ぴっちり詰めれば九台は乗れる代物だ。最近は、エレベーターの大型化よりも機数を増やす傾向にある。一番効率がいいのは、前後にドアがあることだ。そうすれば、途中で降りる人のために、エレベーターの中で切り返しながら移動することもなくなる。まだ、こういうタイプのものはそれほど普及してないのが現状だ。

 地下駐車場で、車に乗り表通りにでる。我が愛車は、大学時代にバイトをして買った中古のオンボロだ。まあ、ボロはボロでもいいのだが、極端にブレーキが重い。サーボが、いかれかけているのかもしれない。腕の重い朝は、余計に堪える。

 八時前だけあって、まだ人通りは少ない。前時代に比べると、会社や学校の始業時間は、通学通勤に時間がかかるため、30分から1時間位遅くなっている。もう少しすると、百足競争のような小学生の列が、小型モーターカーに引っ張られ学校に向かう姿が見かけられる。

渋滞にも引っかからず、30分で会社に着いた。がらんとした駐車場に車を入れ事務所のドアを開ける。

「あっ、おはようございます。今日は、えらくはやいですね。橘さん。」

「おはよう。君も早いね。」

「私は、これが普通です。」

と、自慢げな顔でいった。彼女は、今年入社した高橋美加である。新人で張り切っているのか、それともそれが素なのか1クラステンションが高い。僕は、その元気の良さが少し苦手で、あまり話をしたことがなかった。

 自分のデスクに行き、あくびをしながら、書類の整理をしていると、

「はい、どうぞ。」

と、言ってコーヒーを差し出した。

「ありがとう。朝早くに目が覚めちゃって。」

「もう、お歳のせいですか?」

「僕は、君と3歳しか違わないんだぞ。」

 少しムキになっていった僕を見て、彼女は華奢な体を少しふるわせて笑いをこらえながらこちらを見た。

「でも、橘さんてすごく健康そうですよね。足も、太そうだし。私なんか、クラスDでしょ。いいなあ。うらやましい。」

 彼女は、少し寂しそうに言った。

「おかしな事を言うなあ。前時代ならともかく、今の時代には何の意味もないことじゃないか。そんなこと。」

「そんなことないですよ。やっぱり自分の足で立ち上がり、自分の足で歩いてみたいじゃないですか。もし、夢が叶ったら夕焼けの海の砂浜で、足跡をつけながら波打ち際まで行くんです。波が、私の足跡を消してゆくところを見たいんです。そのために私、週に一度はトレーニングセンターに行ってるんです。」

「立ち上がるなんて目的で、行ってる人間なんていないだろ。自分の足で、歩けなくても何も困りはしないじゃないか。むしろ、その逆の方が困るくらいだ。」

「えっ。」

と言って、不思議そうに、彼女は僕を見つめた。

 彼女の希望は、ほかの人間には忘れ去られた想いであり、大多数の人間には、その感覚さえ体内には存在しないのかもしれない。希望は、現実と亀裂し、悲しみを生み出す。悲しみを生む希望は持たないことで生きる糧を持ち続ける。ある時から、その希望はすべてを否定してしまうような存在に変わった。

僕は、その希望を現実として持ってしまっている。彼女にそれをかぎつけられるのではないかと、体を堅くしてしまう。

「今度、いっしょにトレーニングセンターに行きましょうよ。橘さんの、実力も見てみたいし。」

「僕は、だめだよ。もう歳だから。」

「さっきと、違うじゃないですか。言うことが。」

と、言って二人で笑った。しかし、心の中では、この子はほかの人間とは違う、どこか不思議な感覚があるような気がした。彼女に見つめられたとき、僕の体が透明になりすべてを見られたような感じがする。注意をしなければいけないと思う一方で、すべてを見られたような開放感で、惹かれるものがある。彼女が、ハンターである可能性が、全くないわけではない。世間で、まことしやかに囁かれている、ハンターの存在自体あやふやなのだけれども、用心しなければならない。

「何、朝から二人でいちゃついてるのー。」 

「違いますよ、先輩。」

「ほぉ、後ろから見てるといい雰囲気だった感じだけどなぁ。」

「もうっ、からかわないでくださいよ。」

「橘君には、気をつけた方がいいよ。この人、なんか秘密がありそうな感じだから。」

「山口先輩、変なこと言わないでくださいよ。彼女が本気にするじゃないですか。」

「だって、私の勘は当たるのよ。」

と、言って山口伸子は給湯室の方に向かって行った。伸子は、僕が新入社員の時に仕事を教えてもらった間柄で、それ以来親しくさせてもらっている。姐御肌で女子社員の間では頼りにされている存在だ。

「コーヒーありがとね。」

「あっ、いえ。」

 話の途中で割り込まれたせいか、少し戸惑いの表情の彼女をおいて資料室に向かった。 しばらく、資料の整理をしていると、出勤してきた者たちで、事務所の中は埋まっていった。

「橘君、もう来てるのですか。張り切ってるじゃないですか。今日から、展示会だからですね。9時には出られるようにしてくださいね。」

と言う声が、事務所中に響きわたる。営業所長の長野だ。事務所の中にいた連中は、なるべく所長と目を合わさないように遠巻きにするように動き出す。

「朝一から、嫌みかよ。この、くそおやじ。」隣のデスクの望月が、所長に聞こえないように床に向かって言葉を吐き出した。

「わかってます。」

僕は、事務的に答えた。

「わかっているのなら、結構です。」

 だれが聞いても、悪意があるとわかるような言い方で所長は言った。

 うちの会社は、昔は町工場みたいな、小さな車椅子のメーカーだった。それが、あの「怒りの日」以来、急成長を遂げた。今では、車椅子だけでなく、生活補助具全般に手を広げている。長野所長は、町工場時代からの社員で、一時期は本社の営業部長だったこともある。しかし、社長との重大な意見の対立によってこの営業所に左遷させられたと言うことだ。詳しい事情は、よく知らないのだが、今では部下にとっては最悪の上司となった。

「おい、早めに支度して出ようぜ。」

と、鞄に資料をつっこみながら望月が言った。「ああ、そうだな。」

 僕も、そそくさと支度をして事務所を出た。 営業用の車は、比較的新しくきれいだ。会社自体は儲かっているらしく昨年入れ替えた車ばかりだ。税金対策のためだろうか、こういうところには金を使う。若い社員はみんな、こんなところに金を使うなら給料を上げろって言っている。まだ、傷もないドアを開け車椅子をシートの後ろに投げ入れる。出勤のための車であふれる道路に出た。助手席に乗った望月が、タバコを口にくわえながらため息をついた。

「ゆっくり行ってちょうだいね。焦ることないんだから。準備は、昨日のうちにできてるし、ニューモデルの展示もないんだから、お客も来ないよ」

「じゃ、休憩していくか」

「そうそう。営業の特権使わないとやってらんねいよ。」

「所長が聞いたら、ノルマも達成してない人が言う台詞ではありませんね。って怒鳴られるぞ。」

「聞こえないから、いいの、いいの。」

 望月は、助手席のウインドウをあけて、肺の中にあるたばこの煙を外に吐き出した。僕は、左にウインカーを出し川の土手沿いの道に入った。車を道端に止め、僕もタバコに火をつけた。窓を開け、五月の空気といっしょにタバコの煙を深く吸い込む。今日の展示会場までは20分ぐらいなので、少しの間ここで川を見ていても大丈夫だ。隣で、眠そうに外を眺めていた望月が思いだしたように言った。

「橘、おまえ本社の人事部の横山さん知ってるか。」

「ああ、新人研修の担当の人だろ。俺たちの時もそうだったじゃないか。夜、騒いでたら怒られた。」

「そう、その横山さん。今年の新人研修の後突然失踪したらしいんだ。」

「なんで。」

「それがさあ、普通なら大騒ぎになるんだろうけど、会社の方もさっさと退職扱いになったんだ。どうも、ハンターに捕獲されたってみんなが噂してるらしいんだ。」

「えっ、じゃあ横山さんて。」

「そう。歩行可能者だったんじゃないかということらしいよ。」

 望月は、その噂が事実でしかないような確信のある顔で言った。僕は、平静を装いながら、否定的な言葉を吐いた。

「でも、そのハンター自体、存在するかどうか解らないんだろ。政府の秘密機関とか、公安委員会の組織だとか、あげくのはてに、国連の特殊部隊とか、みんな好き勝手に噂してるだけじゃないか。」

「じゃあ、本当のことを言おう。俺が、そのハンターなんだ。」

 その言葉を聞いたとたん、僕の時間は凍りついた。

「バカ。そんなに驚くなよ。冗談に決まってるだろ。まあ、歩行可能者にしてもハンターにしても、本当にいるのかどうか分からないからな。もしいたとして、捕まえてどうするんだろう。」

「さあな。」

 望月に見えないように、ズボンで手のひらの汗を拭きながら無表情に答えた。

「年喰ってから見つけたって、役に立たないだろうし、幼児検査の時に見つからない訳ないよな。」 

「どうして。」

「二歳くらいの子供が、これからの人生を考えて選別のための検査で僕は歩けませんってわざわざ嘘をつくか。もし、歩ける子供がいたとしたら、その子にとってはそれが当たり前のことだからさ、何のためらいもなく検査官の前で歩くよ。」

 妙にまじめな顔をして望月は言った。

「そろそろ、行くか。」

 僕は、タバコをもみ消してハンドルに手をかける。

「あ、ああそうだな。」

 望月は、無関心そうな僕の顔をつまらなそうに見た。今朝から、こういう話題が僕の周りを巡っている。偶然とはいえ、いらつき気味なのは自分でも判っている。ずいぶん前からこの手の話題には、一歩身を引いてしまう。警察に、追われる犯罪者のようだが、大きく違うのは罪の意識がないことだ。第一、僕の存在に罪があるわけではない事は信じたい。だが、追われることの恐怖感は確実に存在する。追っ手の存在自体が確かではないあやふやな状況の中、いつまでこの恐怖と共存しなければならないのか。果てしなく続く失望感の中で、恐怖はますます重くのしかかる。夢中で何かをしていると、一瞬でも解放されることがある。しかし、次の瞬間には何倍もの重さで僕を押し潰そうとする。狂喜と悲哀を繰り返す、僕の心が崩れ去るのはいったい何時のことだろう。

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