箱庭の楽園-外伝 壱-

柊木 あめ

Prologue

01_船の中

 ニュクスが世界を支配し黒雲が月を覆い隠す夜、不規則な間隔を保ち点在する松明の灯りを頼りに、すっかり夏の気配を振り切った肌寒さの中を、多くの者達が道なき道を進んでいる。


 彼等は戦争によって侵略され住む場所を失い、大陸を移ろいながら迫害を受け追い出された者や、貧困の犠牲となった者達だ。東大陸に在るヴェルダン大帝国の慈悲深い皇帝は彼等を哀れみ、≪可哀想な者≫と位置付け遠く離れた海に浮かぶ孤島に招き、住居と職を提供した。


「噂には聞いていたけど、こりゃぁ随分な人数が集まったもんだ……」


 闇に溶け込む船の上層に位置する豪華な部屋の窓辺から、松明の灯りの中でぼんやりと蠢く影を見下ろすのは高瀬明彦。生え際がやや地毛の焦げ茶をみせはじめた金の髪を後頭部の所でちょこんと結ったやんちゃそうな顔立ちに、上下灰色のスウェット姿がよく似合っている。


 リビングと称される此の室内に居るのはあ2人。ローテーブルをL字に囲うソファーの、窓と対面している位置に座り紅茶を片手に1人チェスを嗜んでいるのは、黒の髪をオールバックでキッチリ整え、銀縁の眼鏡を着用したネイビーの生地に細いストライプのスーツを纏った男。片倉右京、46歳。


 もう1人は、肩につくか否かの白髪で、白いスーツを纏った若い男。静寂を浮かべた中性的な美貌は哀愁を浮かべており、彼を見た者に儚い印象を与えている。黒曜の視線は手元にある黒い表紙の分厚い古書に落ちた儘、一言も発することなく一定の速度でページをめくっていた。


「ここに居るってことは、皆さん箱庭への研修に参加するってことっすよね?」

「ああ、そうだとも」

「じゃあ折角なんで自己紹介でもしません? 向こうで顔合わせることあるだろうし。俺は高瀬明彦。歳は21。月島学園の医大生っす。第陸研究棟に配属される予定っす」

「ご丁寧にどうも。私は新島病院で外科医をしている片倉右京です。以後お見知り置きを。配属先は第参研究棟。そこで最新医療を学びます」


 ジッと視線を交わす2人はどこか張り合うような、ピリッとした空気を纏っている。数秒の間をもって片倉が口を開く。


「月島学園と言ったら、国立の大学附属高校≪梟≫と肩を並べる名門私立じゃないですか。しかも医学部を専攻していらっしゃるとは、素晴らしい。将来有望ですね」

「いやぁ、俺なんてまだまだっすよ。新島病院と言えば、帝都を支える医療の大手じゃないっすか! ゆくゆくはお世話になる心算なんで、コレを期に仲良くしてほしいところっすね」

「君が配属される頃には外科医統括部長になっていると思うから、こちらこそよろしくお願いします」

「うっす!」


 高瀬は片倉に近付き、右手を差し出した。数秒後に握手をする気配がないことを察し、頭を掻く。一息吐いたところで視線を白髪の青年へと向けた。


「で、アンタは?」


 片倉は静かに2人を見守る。


「おい、アンタに言ってんだよ!」


 大股で歩み寄り、黒い古書を奪う。気怠そうな黒曜の視線が向けられた瞬間、あまりの無機質さを不気味に感じ、小さく息を呑んだ。


「おいアンタ。見るからに若そうだけど、目上の者には愛想をよくしておいた方がいいぜ?」

「……ご忠告、痛み入ります」


 落ち着き払った声音が溜息交じりに言う。


「人と話す時くらい、本を閉じたらどうなんだ?」


 ひょいと奪った本に視線を向けた。何処かで見た異国の言語に似ているが、似ているだけで高瀬が意味を知ることはない。


「なんだ、この本。造語か?」

「……ギルダ大陸に伝わる古代文字の一種です」


 霧は退屈そうに返す。


「ふぅん。古代文字ねぇ……」


 パラパラとページを捲ってみたが、やはり高瀬に解読できる文字はない。


「見せてもらっても? こうみえて学生時代に専攻していてね。滅多に見かける機会がないから、古代文字と聞くと、どうにも血が騒ぐ」

「そうですか。どうぞ、閲覧ください」


 霧が言うと、古書は高瀬の手から片倉へと移る。


「……おや? これは、初めて見る文字ですね」

「片倉さん、それ本当に古代文字なんすか? コイツ、この本を売った店主に騙されてんじゃ?」

「決めつけは失礼ですよ、高瀬君。古代文字の種類は複数あります。年代によっては参考資料が少なく、解読が困難で現代語訳されずに消えていった物も多く存在するくらいです。勿論、誰かが作った造語を、古代文字だと騒いだ歴史が存在するのも事実ですが」


 含みのある笑みを浮かべ、言葉が続く。


「見るからに古そうな本だが、何が書いてあるのかね?」

「ギルダ大陸に根付いている天使信仰の元となった天使たちが、地上を統治していた頃の話が記されています。此れは、当時使われていた天使文字です」

「なぁ、本当に読めてんの?」


 高瀬がニヤニヤしながら尋ねるのを横目に、片倉はページをぱらぱらとめくって奥付を見た。≪神の代行者≫≪神聖イフェリア大帝国≫の文字を確認し、パタンと本と閉じる。


「最も古い天使文字は、神の代行者に属する者でも極一部しか解読できないと言われています。……君は若いのに大したものですね。こんな、専門家以外の誰も読まないような本を、すらすら読んで。……嘸かし勉学に励んだことでしょう」


 片倉の表情は穏やかに笑っているが、「そうですね」と白髪の青年が返した途端に頬が引き攣り、空気が重くなるのを肌で感じた高瀬は思考を巡らせ、片倉よりも先に言葉を紡ぐ。


「あ。そういや、アンタ。自己紹介しろよ? まだ名前さえ聞いてねぇし」

「……雨冠に執務の務と書いて、キリと言います」

「そのまんまだな! 名は体を表すってか? 今にも消えそうだな!!」


 にかっと笑う高瀬は、霧と名乗った青年の白髪をわしゃわしゃと撫でた。霧は非常に鬱陶しそうな視線で高瀬を一瞥するだけで、抵抗をする風はない。


「苗字を聞いても?」


 冷静さを取り戻した片倉が尋ねる。


「……名乗る家名はありません」

「なるほど。君も≪可哀想な者≫でしたか」


 幼くして親を亡くした子供、捨てられた子供、地位を失った名家の者等も其の括りに入り、可哀想な者達の中には特定の貴族から施しを受ける事で生かされている者も居る。此の場合に限り奴隷と同義に扱われ、奴隷が社会に貢献すればするほど所有者は国から謝恩を与えられ、没落貴族は再建のチャンスを与えられる事は一部の者しか知る由もなく。


 片倉は、ホッと安堵した。


「じゃあ苦労してきたんだな! で、歳は? どこに配属されるんだ?」

「17になりました。第零研究棟です」


 乱れた白髪を手櫛で直しながら、霧が言う。


「第零研究棟と言えば、遺伝子工学を主軸に研究、実験をおこなう部門ではないですか!」


 そう言った片倉の目はぎらつき、鼻息が荒い。


「ちょ、どうしたんすか、片倉さん。急に興奮して」

「おっと、失敬! 第零研究棟は研究者としての実績は勿論、血生臭い噂の絶えない久世の当主から推薦された優秀な人材が集まる部門です。帝国を支える主力。その入り口は狭く、遺伝子工学に携わる者なら、誰もが一度は憧れる場所……」


 片倉は恍惚を浮かべながら言うが、すぐに顔を曇らせて溜息を漏らす。


「羨ましい限りですね、君のような未成年が推薦されるだなんて。試験も難関だと聞いています。さぞかし君は優秀なのでしょう」

「じゃあ、お前はその、久世に推薦されるだけの実績があるんだ?」

「……推薦ではありません。親の後を継いだだけです」

「親御さんが第零研究棟に……?」


 片倉の口元が引き攣り、霧を見る目つきが鋭くなる。


「両親は配属される前に、実験中に起きた事故で亡くなりました。僕が誰よりも近くで研究を手伝っていたから、後釜に選ばれただけです。本、返していただけますか」

「ヴェルダンには色んな貴族が居るが、君は恵まれているようだ。親御さんの代わりに面倒を見てくれた方への恩義を忘れずに励むように」

「善処します。本、返してください。兄様から頂いた、大切な思い出なのです」

「これは失敬。本を返そう」


 差し出された黒い古書は、霧が受け取るよりも先に床へ落ちた。


「うっわ、片倉さん酷でぇ。可哀想な者には優しく、じゃねぇんすか?」

「すまない、歳をとるとタイミングを見失いがちでね」


 霧は小さく溜息を漏らして古書を拾う。そんな様子を高瀬は嗤い、片倉はティーカップを口へと運びながら見届ける。「くたびれたので、先に失礼します」と言い残して、霧はメインベッドルームへ姿を消した。


「……片倉さん。ベッドルームはどこ指定っすか?」

「サブAです。貴方は?」

「俺はサブB。……なんか、モヤモヤする……」

「同感です」


『この度はご乗船、誠にありがとうございます。ただいまより箱庭行き輸送船、出航いたします。到着予定は――』


 機械的な音声のアナウンスに続いて汽笛が鳴り響き、ゆっくりと、静かに船が動き出す。



   ◇◇◇◇◇◇◇


 割り振られたベッドルームに戻ったものの、高瀬は暇を持て余して大きいベッドの上を子供のように転げまわった。


 どれほどそうしていたのか分からなくなった頃、ふと我に返り、部屋を後にする。


 メイン照明が消えたリビングは橙色の補助灯がぼんやりと照らしていた。背凭れにスーツジャケットが引っ掛かったソファーの前に設置されたローテーブルの上に、使用済みと思われるグラスと、空になったウィスキーのボトルが一本、虚しく置かれている。


「ったく、脱ぎっぱなしで飲みっぱなしかよ……」


 ガシャン。


 ふと、硝子製の何かが割れる音が聞こえた。反射的に振り返ると、微かに開いた状態のメインベッドルームへ続くドアが視界に映る。


「……どんくさそうだもんな、あいつ」


 足早にドアへ近付き、ノックの返事を待たずにノブに手を掛けた。


「おい、物音が――」


 言いながらドアを開けた瞬間、予想外の光景に思考を奪われ語尾を濁らせる。


「ちょっ、何やってんすか! 片倉さん!」


 ベッドの上で蹲る片倉が、霧の細い首を鬼の形相で絞めていた。


「くそっ、くそぉ!! なんでお前のようなガキがっ! 実績も何もないくせに!」

「片倉さん落ち着いてくださいっ!」


 片倉の手を引き剥がそうとすれば抵抗を受け、霧は霧でぐったりしており動く気配がない。だからと言ってこの状況を放っておく事ができない高瀬は、苛立った。


「どうやって久世の当主に付け入った!? その身体で誑かしたのか!?」

「落ち着けって言ってんだろっ!!」


 高瀬はドスの効いた声を張り上げて言い、首を大きく後に反らして勢いよく前に振る。ゴッ! と鈍い衝突音が響き、うぐっ。と呻く片倉の手から力が抜けた瞬間に、首根っこを掴んで無理矢理引き剥がす。


「邪魔をするなぁ!」


 高瀬に襲い掛かる片倉。


「酔っぱらいは他人に迷惑掛けずにおとなしくしてやがれっ!!」


 綺麗な背負い投げを決めた高瀬の息は荒いが、誇らしげな表情を浮かべている。


 床でひっくり返った亀のような状態になった片倉は、キョトンとした顔で数秒間動きを止め、のっそりと姿勢を正して周囲を見渡した。


「わっ、私はいったい何を……? ここは……?」

「ったく、世話が焼けるっすね。片倉さん、飲んだくれて霧の首を絞めてたんすよ」

「なっ……!!」


 絶句を浮かべる片倉は、片手で喉元に触れながら咳き込んでいる霧に視線を向ける。沈黙が続く間に落ち着きを取り戻した霧は、光を宿さず感情のみえない眼差しで見返し、形の良い口を開く。


「自分より下だと思った者が、自分よりも優れている。そう感じた時の劣等感は、察するに値します。簡単に認められるモノではありませんよね。やり場のない感情から身を護る為に衝動的になるのは、人間として間違っていない反応だと思います」


 共感を示す言葉を紡ぐ声音は、夜の海よりも静かで冷たい。


「犯罪者と一般人の差は、行動を起こすか否か、です。其れは些細な差でしかなく、誰もが犯罪者となりうるのです。高瀬さんが来てくださって、良かったですね。貴方は人殺しにならずに済みました。罪を背負わずに済んだ感謝を忘れてはいけません」


 闇が溢れ出しそうな視線に射抜かれた片倉は、言葉を返すことなく小刻みに震えている。場の空気が重く張り詰めていくのを肌で感じいると、「おや。皆さんお揃いで」と聞きなれない若そうな男の声が空気を崩した。


 一同が視線を向ける。薄いフレームの眼鏡がいかにも頭脳派といった印象を与え、濃紺のスーツが似合う優男が入り口に立っている。


 男は一瞬にして怪訝を浮かべながらベッドに近付き、霧の顔を覗きこんだ。


「随分と、派手に痕をおつけになられましたね」


 細い首を赤く飾る手跡を、白い手袋に包まれた指先がなぞる。


「夜は物騒だから鍵を掛けなさいと、言ったでしょうに。銀狼に処理させますか」


 眼鏡越しの鋭い眼光が、小刻みに身を震わせている片倉を一瞥した。


「結構です。僕は死んでいません」

「そういう問題ではないのですが……」


 呆れを含んだ溜息が漏れる。


「仮に僕が死んだとしても、ヴェルダンにとって今以上の不利益を産む事にはなりません。僕の代わりは沢山居ますから。桐生さんも知っているでしょう?」

「国利など私には関係ありません。貴方が居ないと不都合なのはヴェルダンではなく、私なのです。到着が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。せめて此れが有れば、今回のような事は起こらなかったでしょうに……」


 そう言って桐生は首から下げるタイプのカードケースを手渡した。


「今度はシュレッダーに巻き込まないよう、気を付けてくださいよ?」

「はい。わざわざ追い掛けて持ってきてくださり、ありがとうございます」


 霧は受け取ったカードケースを首へと引っ掛ける。其れを見届けた片倉は、「無印」と呟き息を詰まらせた。


「無印? 何すか、それ」


 場違いなほどに軽い声で高瀬が尋ねるも、誰が答えるでもなく沈黙が続く。


「え、無視っすか?」

「あ。ほら、そろそろ箱庭に着きます。霧様、お支度を」

「わぁ、無視っすね? 酷でぇなおい」

「……途中で起こされたので、まだ眠いです」

「あ。おい霧てめぇ。今こっち見たべ。逸らすなよ……」

「屋敷に戻ったら幾らでも寝てくださって結構です。さぁ、早く身支度を」

「……はい」

「最後まで無視かよ!」


 高瀬はションボリ肩を落とした。


 小さく溜息を漏らしてクローゼットへ向かう霧は、扉を開けると人目を憚ることなくパジャマの上着を脱ぎ捨てる。色素の薄い乳輪と乳頭が浮かぶ、白く滑らかな皮膚に包まれた胸部は肋骨が浮いていた。肉付きは貧祖だが、細い腰と中性的な顔立ちも相まって女性と錯覚するのは時間の問題だろう。


「見世物ではありませんよ」


 にこやかな表情を浮かべた桐生が背で霧を隠すように立つ。


 ハッと我に返った高瀬は、片倉を支えながら逃げるように其の場を立ち去った。



 リビングの窓から見える外はまだ暗い。


「大丈夫っすか、片倉さん。顔色、すげぇ悪いっすよ……」

「ああ、私はなんて事を――」


 高瀬の声に反応することなくブツブツと独り言を漏らし、覚束ない足取りで指定されたベッドルームへ消える背を見送った。


   ◇◇◇◇◇◇◇


 結局寝付けなかった高瀬は、プロムナード・デッキに足を運ぶ。


 誰も居ない其処は、船が波を切り裂く音が静かに響いており、夜空には星々が身を潜めるほどにまぁるい白月が輝き、墨汁のような水面を煌めかせている。何気なく欄干越しに下を覗きこみ、目を凝らした。揺れ動く波間に、黒い影が泳ぐのを見た気がしたからだ。


「…………」


 不定形の影は見ようとすればするほどに、形が揺らぎ、よく見えない。


「何か居ましたか」


 直ぐ近くで聞こえた落ち着きのある声に一拍遅れて気付いた高瀬は、ビクッと肩を跳ねらせて隣を見る。いつの間にか間隣に霧が立っていた。黒曜の視線を覗かせる風に靡くシルクのような髪も、日焼け知らずの肌も、着崩されることなく纏ったスーツも、靴も、彼が纏う全ての白が月光を受けて蒼白く浮かび上がる様は、彼が持つ無機質な存在感と相まりこの世ならざる者を視たと錯覚するのに十分だ。


「何か居ましたか……!」


 やまびこポーズで紡がれた落ち着いた声音は、今にも消えてしまいそうなほどに儚い外見と不釣り合いなほどに大きく、高瀬は、ぶふっ! と噴き出し笑う。


「そんな大声を出さなくても聞こえるって……」

「…………?」


 高瀬に向けた耳に片手を添えて聞き取ろうとする仕草が、其の見た目から想像がつかない違和感に感じて、息を引き攣らせながら笑う高瀬は欄干に凭れ掛かった。


「ちょ、まっ……。お前がやると、お、おじぃ……おじいちゃん……ははっ、おじぃ、ちゃ……っ……」

「先ほどは、ありがとうございました」

「あー……? いや……、アンタも大変だな?」

「…………」


 霧は小さく笑うだけで、口を噤む。


「あんな事があったのに、一人で出歩いてて大丈夫なのか?」

「一人ではないので、大丈夫ですよ。桐生さんは今、気を遣って向こうのベンチで寛いでいます」


 肩越しに振り返る視線の先は丁度陰になっていて、ハッキリと其処に居る人物を認識することは出来なかった。


「此の船に乗るの、初めてではないのです。月に一度、本国へ定期報告に行かないといけなくて……。船の運航は夜しかないから、こうやって真っ黒な海を眺める度に、捜してしまいます」

「何を、捜すんだ?」

「黒い影」


 高瀬は身を強張らせながら、無機質な横顔を眺める。


「古来より水は死者の国と繋がっている。と、言われています。成仏する事を拒んだ死者達が生に執着し、生者を妬み引き摺りこもうとして船の回りに集まってくるのではないか……。そう、考えてしまいます」


 高瀬は視線を水面へ落とす。波間で揺れる、不定形の黒い影が徐々にヒトガタを形成していく。


「きっと、海の水はとても冷たくて、波に揺れる感覚は心地良いものなおのかもしれませんね」

「え?」

「もしも此の船が沈んだら、彼等は満足してくれるでしょうか」


 淡々と言葉を続ける霧から読み取れる感情は、何もない。ただ得体の知れない恐怖だけが芽生え、高瀬に蔦を絡ませていく。


「ダメだっ!」


 高瀬は霧の肩を突き飛ばして欄干から距離を取らせる。勢い余った霧は数歩よろめき、尻餅を着いた。ハッとした高瀬は、すぐに謝罪を! と考えるも、妙な高揚感から思うように声が出ず、鯉のように口をパクパクさせた。


「何事ですか!?」


 声を荒げながら駆け寄ってきた桐生が霧を支えながら立ち上がらせ、スーツに付着したであろう汚れを払う。鋭い眼光で高瀬を睨みつける桐生に、「興奮しないでください。土佐犬みたいな顔になっていますよ」と、霧が静かな声で宥めると、桐生は小さく「すみません」と言い高瀬に頭を下げる。


「いや……。俺の方こそ、悪かった。その、アンタが身を投げそうに思って、それで咄嗟に手を出しちまったんだ……」

「僕が、ですか。僕が自害を……?」


 霧は笑う。クスクスと鈴を転がすように、小さく笑う。


「何も無い筈の場所に何かを視ようとするのは、人間の心理だそうです。何も居ないと考えている方が、心は穏やかな筈なのにね。何故、自らを恐怖に突き落とすような想像をするのでしょうか。想像は時に妄想となり、現実を蝕む事だってあるのに」


 年不相応な落ち着きを取り戻した霧は、無機質な笑みを浮かべて言葉を続けた。


「此の世に存在する全ての中で、本当に恐ろしいのは人間の欲望です。其れさえも、自分自身が恐ろしくないと認識すれば、恐ろしくないのです。恐怖心は自分自身が作り出す幻覚と言えるでしょう。きっと、誰もが心に罪悪感を抱いているのかもしれません。よく言うでしょう? 良い子にしないと悪魔がやって来る。自分が良い子だと信じて疑わないなら、悪魔が来るかも、なんて不安に思いません。嵐の夜も、風が窓を叩く音に震えたりもしない」

「何が、言いたいんすか……?」

「死を恐れている内は、第零研究棟に配属されることはありません。……あ。箱庭が見えてきましたよ」


 高瀬から逸らされた視線を追い掛けると、月光に照らされた巨大な黒い影がぼんやり浮かび上がっているのが見えた。ゆったりとした間隔で点滅を繰り返すのは、灯台だろう。近付けば近付くほどに波間に揺れる灯浮標の赤や黄色、緑の光りが過ぎ去り、黒い影を見ることもなくなった。


「高瀬さん」


 静かな声音が呼ぶ。終始感情の読み取れない静寂は無機質で、ジッと覗きこんでくる黒曜の目は、まるで深い穴のよう。高瀬の背筋はゾクゾクと震え、強張った身体中を冷や汗が伝い落ちていく。


「お帰りなさい」


 言葉の意図を尋ねようと口を開いた瞬間、重低音が空気を震わせた。踵を返す背を呼び止める声は、汽笛に掻き消されて届かない。




――――――――――

補足

 桐生さんは水上バイクで霧が乗っている船を追い掛けてきました。ぱっと見は眼鏡執事っぽいですが、ヴェルダンで開催された舞踏大会で5年連続優勝を果たして殿堂入りする程度に運動が好きです。


 片倉さんは自分が高学歴で成績も優秀だったエリートなので、自分より上、或いは同等以外を見下す傾向が言葉や態度に出てしまうタイプです。家族仲も最初は良かったけれど、段々と価値観の違いや子供の教育方針などで奥さんと喧嘩が多くなり、世間体を気にして仲良し夫婦を演じているけれど実際は冷めきっていますが傍から見たら愛妻家に見えていたりするのが謎ですね。老後は仲良くやってほしいものです。


 高瀬は自分に必要な事しか覚えないことでストレスを軽減しています。のらりくらりゆるく生きてヤンチャして、たまに反省して……バンド仲間からは「お前マジでよく医大行けたよなwww!」と言われているそうです。


 霧は可愛いです。

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