彼女の瞳に映る筋肉に嫉妬する
黒木メイ
彼女の瞳に映る筋肉に嫉妬する
今、社交界ではある噂が話題になっている。
その噂とは『あの堅物騎士団長が運命の相手と出会い、幼馴染でもある婚約者に婚約破棄を申し出た』というものだ。
そして、残念なことにその噂はほぼ事実だった。
噂の渦中にある堅物騎士団長ことアレン・イエーガーは溜息を吐いた。
ここ最近頭を悩ませているのは己の婚約者についてだ。
ことの始まりは運命の相手と噂されている令嬢との出会いだった。
王都の見回り中、アレンはいかにも貴族令嬢といった装いの女性が暴漢に襲われそうになっているところを発見した。
もちろんすぐさま暴漢は捕縛し、令嬢は保護した。
被害(未遂)にあったのは伯爵家の令嬢。
怖かったのだろう。令嬢は震えながらアレンに縋りついてきた。
アレンのたくましい腕に令嬢のたわわなやわらかいものがあたる。
アレンの身体がカッと熱くなった。
アレンは堅物と呼ばれるほど仕事一筋だ。騎士団に入ってからのパーティー出席率はほぼ0。
故に、女性への免疫がなかった。
あの日からアレンの左腕には令嬢のぬくもりがこびりついて離れなくなった。
あのぬくもりを思い出すと何故か身体が……特に下半身が熱くなる。
今ならばそれがどういうことなのかわかるが、当時のアレンにとってはそれが『恋』なのだと思った。
令嬢のことを思い出すたびにリーナへの罪悪感が募る。
――――これはリーナへの裏切りだ。俺は最低だ。最低な俺ではリーナを幸せにはできない。
令嬢と距離を置けばきっとこんなにも自分を責めることはなかっただろう。
けれど、あれから件の令嬢はお礼と称して騎士団に差し入れを持ってくるようになった。
しかも、その際に令嬢はアレンにエスコートを求め、するりと自分の腕をアレンの腕へと絡ませるのだ。
もちろん、そのたびにたわわなやわらかいものはしっかりとアレンの腕に触れている。
これでは忘れたくても忘れられない。
――――もうリーナに合わせる顔がない。
アレンの脳内に婚約破棄という単語が頭に浮かんだ。
それからの行動は速かった。
アレンはリーナを呼び出した。
その時には噂も随分広がっていたのでリーナも予想はついていたのだろう。
アレンが婚約破棄を申し出た時もあっさりとリーナは頷いた。
自分で言ったくせにリーナが頷いた瞬間、アレンの胸は激しく痛んだ。
――――これでいいんだ。リーナのためだ。
アレンは伸ばしそうになる手を握り、奥歯を噛みしめた。
さっさと立ち去ろう。そう思って踵を返そうとした。
その時、リーナから呼び止められた。
あの日のことを思い出すだけで全身が熱くなる。
あの日……リーナは立ち去ろうとするアレンに婚約破棄を受け入れる替わりに一つ条件を出した。
『一時間ナニをされても動かず黙って受け入れること』
アレンは戸惑ったもののリーナの提示した条件を受け入れた。
「それでは……服を脱いでください」
そう言ってリーナは満面の笑みを浮かべた。
「は?」
思わずアレンの口から声が零れ落ちる。
アレンが知るリーナは『清廉で儚げな令嬢』だ。
社交界での評価も似たり寄ったりだろう。
そんな彼女の口から出てきた言葉はアレンの理解の範疇を超えていた。
固まったアレンを見てリーナは頬に片手を当て溜息を吐いた。
「仕方がありません。私がお手伝いしますわ」
そう言っていそいそとリーナはアレンのシャツに手をかけた。
動揺したアレンが慌ててリーナの手を握って止めようとする。
けれど、アレンの手はぱしんと叩き落とされた。
「もうお約束を反故するつもりなの?」
リーナに睨みつけられ、アレンは口を閉じる。黙って首を横に振った。
本能的に逆らってはいけないと感じた。
それからは苦行の時間だった。ある意味拷問に近いかもしれない。
あの時のことを鮮明に思い出し、アレンの口からは熱い吐息が漏れた。
リーナは一つ一つアレンのシャツのボタンを外していった。
シャツがはらりと横に広がりアレンの肌が晒される。
「まあ」
リーナはうっとりとした顔で吐息を漏らす。
アレンは羞恥心からリーナの顔を見られずに顔を背けた。
つつつ、とアレンの見事に割れた筋肉の境を華奢なリーナの指がなぞっていく。
最初こそビクリと身体を揺らしたアレンだが、後はひたすら耐え続けた。
腐っても騎士団長だ。情けない姿を見せられないという変なプライドがあった。
「素晴らしいわ」
リーナから漏れ出た感嘆の言葉に思わずアレンは顔を戻した。
けれど視線は合わない。リーナはひたすらアレンの筋肉を愛でていた。
さわりさわりと絶妙なタッチで触れるリーナの手はアレンの身体をどんどん熱くする。
しかも、アレンの筋肉を愛でているリーナはアレンが一度も見たことのない女の顔をしていた。
もう耐えるのも限界だった。
徐々に起き上がっていたアレンのアレンは完全に起き上がってしまった。
――――お願いだ。気づかないでくれ!
しかし、無情にもリーナはアレンのアレンに気づいてしまった。
「あら……」
この時のアレンの絶望感は形容しがたい。
リーナは生地を押し上げているモノをじっと見つめた。
そして、はっと気づく。
経験はなくとも教育の一環として聞いたことのあるソレ。
さすがのリーナも先程とは違う意味で頬を染め、視線を泳がせた。
リーナほ「こほん」とわざと咳払いをした後アレンから離れた。
「も、もういいのか?」
まだ一時間は経っていない。
「え、ええ。もう結構ですわ。今までありがとうございました」
そう頭を下げてリーナは、すすすと後ろに下がりながら部屋を出ていった。
残されたアレンはしばらくの間呆けていたが、我に返ると身体に残る熱を発散するためひたすら剣を振るった。
異例の速さで騎士団長まで上り詰めたアレンにとって今までは君主と剣が全てだった。
いつも頭を占めていたのはそれらに関することだ。
だから、この気持ちがなんなのか気づくまで時間がかかった。
そして、気づいた時には取り返しのつかないことになっていた。
アレンは手元に届いた婚約破棄の書類を見て頭を抱える。すでにリーナ側のサインは入っている。
本来、婚約破棄を申し出た側のアレンが用意しないといけないものだ。
それなのにここ数日アレンは書類どころか自分の親にもろくに話を通していなかった。
頭の中を占めていたのはリーナのことだけ。
婚約破棄どころか件の令嬢のことさえ忘れていた。
あれからも何度か騎士団に尋ねてきたような気もするが忙しいと言って部下に断ってもらった気がする。
唖然とした。
今の自分には件の令嬢への気持ちが欠片も残っていない。
あるのは今まで無意識下にあったリーナへの思いと身体が覚えている甘い熱。
そして、後悔。
しかし、今まで恋愛経験がないアレンにだってわかる。
自分がどれだけ酷いことを二人の令嬢にしたのか。
とりあえずアレンは家を通して件の令嬢に手紙を送った。
謝罪と決別の言葉を記して。
抗議の手紙がくるかと思ったが特に何もなかった。
どうやら父が裏で手を回したようだ。
母と二人の時間を大切にしたいが為に早々に隠居したとはいえ元騎士団長である父の影響力は未だ健在らしい。
改めて父にも謝罪したが、何故か憐れむような視線を向けられ、肩を叩かれた。
その理由がわかったのは国王主催のダンスパーティーでいつものように国王の護衛をしている時だった。
煌びやかなシャンデリアの下で複数の男女がペアになって踊っている。
アレンはその一組をじっと見つめた。
男は見覚えがある。確か騎士団に所属したばかりの新人だ。
新人の中でも飛び抜けた力量を持っていたのでアレンも覚えている。
女は最近アレンの脳内の八割を占めているリーナ。
男はダンスに慣れていないようでリーナにリードされている。
徐々に男も余裕が出てきたのかステップを踏みながら何やら会話も楽しんでいるようだ。
こうやって見るとお似合いなのかもしれない。確か家柄も合う。
ギリッと奥歯が鳴った。
――――いや、まて。リーナにも好みはあるはずだ。
アレンの目がしっかりとリーナの表情を捉える。
リーナはダンスや会話を卒なくこなしながら、ときおりちらちらと男の筋肉を映しては目を細めていた。
――――それは一体どちらなんだ! リーナの好みなのか、どうなんだ?!
ムカムカと胃がもたれたような感覚に陥る。
拳に力が入った。
「嫉妬か?」
主君からの言葉にハッと我に返った。
――――仕事中に一体何を考えているんだ俺は。
「すみません」
すぐさま謝ると主君はにやにやと目を細めた。
「普段仕事一筋のおまえが珍しいことだ。よっぽどのことなのだろう。さっさとその悩みを解決してこい」
クイッと顎で示す。
いつの間にか隣には副団長が控えていた。
――――そんなにも俺はわかりやすいだろうか。
気恥ずかしいが仕事に支障をきたすくらいならばさっさと片付けるに限る。
――――何より俺がこれ以上は我慢できない。
一礼するとアレンはリーナに向かって歩き始める。
アレンの気迫が周りにも伝わったのか人垣がわかれて道ができた。
その先にいたリーナは目を瞬かせ、新人はアレンを見ると慌ててリーナから離れて頭を下げた。
「リーナ」
「はい?」
「どうか俺と婚約……いや結婚してほしい!」
アレンの言葉に周囲がざわつく。
けれど、すでにリーナだけに集中しているアレンの耳には届いていない。
「どういうことでしょうか……。婚約破棄の書類がなかなか提出されていないようでしたので近いうちに確認する予定でしたが……何か心変わりでも?」
リーナは困ったように首を傾げた。
アレンは己の愚鈍さに苛まれながらも頷く。
「そうだ。おれは少し前まで勘違いをしていた」
「勘違い……」
「ああ、俺の運命の人は他でもない君だったんだリーナ」
きゃー!と令嬢達の声が聞こえる。その中に王妃や主君の声や騎士団員達の野太い声も混じっていた気がするが気のせいだろう。
戸惑ったままのリーナの手を取り、引き寄せる。
身体が傾いたリーナはアレンの胸の上へと手を置いた。
周りには聞こえないように耳元で囁く。
「俺の筋肉ならばいつでも見て……触れてもらってかまわない。だから、俺以外の筋肉を見ないでくれ」
アレンの気持ちが伝わったのかリーナの頬が真っ赤に染まった。アレンは嬉しくなってリーナを抱きしめる。
リーナはアレンの胸に頬をぴたりとくっつけながら何か呟いたが、アレンの耳には届かなかった。
彼女の瞳に映る筋肉に嫉妬する 黒木メイ @kurokimei
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