〈巡り来る春〉
1
昭和58年(1983年)二月。
季節は確実に過ぎていった。
あの時感じた確信の通りに、浩からの連絡はなかった。
いや、たとえ電話が来たとしてももう出ないと、良江は決めていた。
だがそんな決心は必要ないことだった。浩とはもう本格的に切れたと実感する。
このまま彼とは何もなかったことになって想い出の中の存在になる……そう思うと少し寂しくはあったけれど、それでも確実に時間は流れ、その想い出さえも風化していった。
昭和58年という新しい年の月日さえもが流れ去っていく。
そんな春の兆しを微かに感じ始めたころに良江は春物のコートに身を包み、いつもの203番のバスを降りて、道の真ん中を京阪大津線が路面電車のような形態で走る
良江が中学生の時に京都中を走っていた市電の路面電車は全廃されたけれど、まるでここだけそれが残っているような錯覚にも陥る。
バスを降りた交差点から東へ行くと、道の左にその赤い煉瓦の喫茶店はあった。
良江は二つのガラス窓に挟まれたドアを引いた。
店内はドアの左側の、通りに面した窓際にテーブル席があるだけで、奥の方までカウンターが続いている。
テーブルはテレビゲームの台にもなっていた。
ドアの右側は壁に沿って長いソファとなり、その前にテーブルが三基、そしてそれぞれのテーブルにはソファに向かい合う形でセパレーツの椅子があった。
その窓際のソファに、佐々木恵子は座っていた。良江が入ってきたのを見て、恵子は微笑んで軽く手を挙げた。
「ごめん、遅うなって」
「ううん、私も今来たとこ」
だが、恵子の目の前のテーブルには、半分ほど空になったココアがあった。
良江は恵子の向かいに席を降り、コートを脱いだ。
エプロン姿の若いウエイターが、グラスとおしぼりを持ってきた。
「ホット」
そう注文してウエイターが去ると、良江は少し身を乗り出して小声で言った。
「なあ、この喫茶店の名前、言うてたんとちゃうよ」
「え? うそ」
「ほんまや。『ミニハウス』やんか」
窓の外の看板を見ると、たしかに「ミニハウス」だ。
「あれえ。じゃあ、名前変えたのかなあ。前はたしかに『ミニハウス』じゃなかった」
しかし恵子の背後の壁のアンティックな大きい時計の下には、恵子が覚えていた店の名前と同じ、関東の某夢の国で有名なねずみの女の子のキャラの絵がかかっている。
「ああ、もしかして、著作権の関係でクレームでもついたのかな? だから名前変えたとか」
「そやな。あのプロダクション、著作権にはうるさいみたいやし」
「じゃあ、この絵はいいのかなあ」
恵子が背後のイラストを見た時、良江のホットコーヒーをウエイターが運んできたのでこの話題はやめた。
あからさまに店員に店名の件を聞くのは不躾だと思ったので、それもやめた。
「まあねえ、京都に来るの半年ぶりだから、来るたびにいろいろ変わっちゃててさあ、なんかなあって感じだけど」
恵子は良江より一つ年上で、神奈川の四年制私立大学に通っている。四月になったら三年生だ。
良江とは雑誌の文通希望欄で知り合った。
「京都の女の子希望」というコメントで雑誌の文通希望欄に掲載されていた恵子の住所に、良江が直接手紙を書いたのだ。
文通は二年目に入っていたけれど会うのはもう三回目で、京都が大好きな恵子は暇を見つけては京都に来るし、その時に良江と会うというパターンだった。
「恵子さん、今回はいつまでいはるん?」
「明日帰るの。三泊の予定だから」
「昨日は?」
「鴨川の河原で一日中ボーっとしてた。京阪電車見ながら」
良江はクスッと笑った。
「そんなわざわざ京都来て、そんな。普通はお寺とかいろいろ見て回るんちゃう?」
「やだ、そんなミーハーなアンノン族と一緒にしないでよ」
たしかに恵子の姿はおしゃれとは程遠い、ジーンズとあずき色のジャケットだ。
「そういえばうちのお婆ちゃんも言うてるわ。『なんでよその土地の人がようけ京都に来はって、お寺なんか見て回らはるんやろ』って。『お寺さんなんか、用があるときだけ行かはったらそれでよろしおすがな』ってね」
良江が自分の祖母の口真似をしているようなので、直接はそのお婆さんを知らない恵子にも受けて、恵子は声をあげて笑った。
「でもね、自分が住んでる街に観光客がどっと来て、カメラ下げて歩き回ってるの見ると、ねえ、ちょっとねえ」
「まあ、ええやん、別に」
「私の住んでる鎌倉にも、結構観光客来るからね」
「私だって人のことよう言わんわ。おととしに友達と長崎行ったときはしっかり『アンアン』持って行ったし、おまけに飛行機なんかで行ってしまったし」
「うわ、リッチ」
「でも、恵子さんみたいに、一人旅なんてようせん」
「まあ、度胸があればなんとかなるよ。でも私って、ほら、しょっちゅう京都に来てるから、初めて京都に来たんだなあって人の会話、バスの中とかで聞いてるとおもしろい。
「そういえばな、『
「とりまる、まるたちょう?」
「いやあ、『からす』は読めてたんよ」
「まあねえ。最近は烏丸せつこって女優さんがいるからね。で、なんて読んだの?」
「それがな、『からす・まるまるふとるまち』って読まはってん」
恵子が爆笑して、慌てて周囲を見て取り繕った。幸い店内にほかに客はいなかった。
窓の外の三条通の真ん中を、市バスよりは濃い草色の二両編成の京阪大津線が音をたてて走り去った。
「恵子さんはどこのホテルに泊まってはんの?」
「ホテルじゃなくてユースホステルだけど、すぐそこ。ここの斜め向かい」
「ユースホステスって何?」
「ホステスじゃなくってホステル。今、
「そうなん?」
「あ、もうそろそろ行かなくちゃ」
恵子が自分の腕時計を見て言った。
「友達と待ち合わせ、三時に三条大橋で」
「ほな、もう行かなあかんえ」
「あ、良江ちゃんも一緒に来る?」
「え? いいの? お友達って、どんな人?」
「去年、北海道行ったときに青函連絡船の中で知り合ったの」
「京都の人?」
「うん。大学生」
恵子からその友達という人の大学名を聞いた時、良江はうなずいた。
「じゃあ、四大だ。あそこ、短大はないから」
「ていうか、男の子よ」
「え、じゃあ、私、遠慮した方がええんちゃう? 邪魔したら悪いし」
「って、ただの友達だから、良江ちゃんが来たっていいのよ」
「そっか。でも、あの大学やったら友達いうより用心棒ちゃうの?」
「用心棒? なんで?」
聞きながらも陽子は笑っていた。良江も笑って言う。
「昔から決まってるんよ。恋人にするんやったら御所の近くのあの大学の学生、そんでそのお友達の大学の学生は用心棒やって」
「じゃあ、お嫁に行くなら?」
一瞬良江は目を伏せた。
「うーん、パス」
お嫁に行くならと言われている大学の名前は、今は口にしたくなかった。
二人が三条大橋に着いたときは、その友達はまだ来ていなかった。
橋の手前が京阪の三条駅で、大阪から来た本線はここが終点である。
改札のすぐ前に、御所の方に向かって土下座している幕末の志士の
三条通の路面を走る大津線の始発駅でもあり、改札の脇から発着する。
その銅像の下で待ち合わせだったのでしばらく待っていると、小柄で優しそうな表情の学生が、にこにこしながら近づいてきた。
眼鏡をかけている。
「ごめん、遅うなって」
その笑顔に、気さくそうな人柄が溢れていた。
恵子はさっそくその男に良江を紹介した。
「あ、どうも、藤村誠です。大学の三回生です。もうすぐ四回生」
「山本良江です。私は女子大短大部のもうすぐ二回生」
ごく簡単な挨拶から始まった。
「
良江が聞いてみた。
「いえ、生まれも育ちも京都。今も実家暮らし」
「私も」
それだけで、何か通じ合うものがあるように良江は感じた。
「お茶しようか」
藤村誠が言う。
「でも私たち、今お茶してきたばかり」
恵子が言うと、誠はにっこり笑った。
「ほな、ぶらぶら歩こう」
三人は三条大橋を西へと渡り始めた。
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