午後になるとグラウンドに流れ込む人の数がますます増えて溢れるばかりとなり、身動きすらできないくらいになった。

 五、六千人は入っているのではと思われる。

 もっともステージからいちばん遠いあたりにはかなりの空いている空間もあったけれど、やっぱり人々は少しでもステージに近づこうと押し合いへし合いになる。


「もうあかんな、店もここまでやな」


 友野が言う

 人が増えるにしたがって客も多くなったし、それまで良江たちも含めスタッフはてんてこ舞いで、互いに会話する余裕さえなくなっていた。

 だが仕込みも底をつき、それに模擬店の間際までコンサートを待つ人々がいる状態でおでんを売るどころではなかった。

 そんな状態だから、昼頃までは何となく見えていたグラウンドの向こうのステージも、今は全く見えなくなっていた。


「まあ、音くらいは聞こえるやろ。ここできょんきょんの歌声聞いて。そんで今日はしまいや」


 梶谷もそう言った。


 だが阿部が腕時計をのぞいて、しきりに首をかしげている。


「おかしいなあ。もうとっくに時間過ぎとるで。なんでまだ始まらへんねん」


「準備にてこずってるんちゃうか?」


 友野がそんな返事をした時である。信じられないようなアナウンスがグラウンドに響いた。


「ご来場の皆様にお知らせします。こちらはアイドル研究会です。本日予定していたきょんきょんのコンサートですが、あまりにも予想外に人が集まりすぎて、このまま続行すれば大変危険であると判断しましたので、コンサートは中止とさせていただきます」


 会場を埋め尽くしていた人々の間で、一斉にどよめきが起こった。その外にいた良江たちが恐怖を感じるほど、それは落胆と殺気に満ちていた。

 遠くからではあるけれど怒声も聞こえる。

 その発表に諦めてすぐにぞろぞろとグラウンドを後にしようとしている人々の群れもある一方で、なかなかステージのそばから離れようとしない人々も多かった。

 特にステージ近くの人びとは、その場所を確保するのに並みならぬ苦労をしてきた人たちでもある。


「そりゃあ中止やと言われても、『はい、そうですか』とは帰らんやろ」


 友野も言う。阿部も相槌を打つ。


「そうやな、昨日の夜から徹夜で場所取りしてた人も百人ぐらいはいてたそうやし」


「俺、ちょっと見て来るわ」


 浩がそのステージの近くの方へと向かい、その姿は人混みにかき消されてすぐに見えなくなった。

 広場の出口付近では、あきらめて帰る人たちとステージの方へ向かう人たちがぶつかり合っている。

 なにしろ何千人もの人がそれぞれの動きをしているのだ。大混乱が起こっても不思議ではない。


 浩が戻ってくるよりも前に、ステージの方からこのテントの有志の知り合いと思われる学生が来た。


「えいらいこっちゃ。大騒ぎやで。主催者がステージの上で土下座して謝ってるとこを、ステージに駆け上がったやつらがけったり殴ったりで、ステージセットとか機材とかもみんな壊されたで。石は投げるわ叫ぶわで、収まりがつかん」


 たしかにそのような感じの叫び声は聞こえる。

 帰りかけている人たちはそれに恐怖を感じたのか、立ち去る足をどんどん速めて、おまつり広場を埋め尽くしていた人々もだいぶ少なくはなってきた。

 だがこれだけの数の人だ。おいそれとスムーズに退場できるわけでもなく、出口のあたりはまだ人で渋滞していた。


「こらあかんわ」


 リーダー格の梶谷が良江らに言った。


「君たち、今日はおおきに。でもなんかやばいし、君たちはもう帰り」


「ほんまにおおきに。助かったで」


 みんなが口々に言う。

 浩はまだ戻ってこない。

 でも、あえて彼らの忠告を無視して残るのもはばかられたので、良江たちは顔を見合わせて彼らの言葉通りに帰ることにした。


「わかりました。ほなこれで」


「ほんまに済まんなあ。助かった。気ぃつけてな」


 良江たちは会場を出ようとする人々の群れに混ざって、なんとかその場を脱出した。



 翌朝の新聞の三面のトップに大見出で、この事件のことが載った。


 ――大学祭ショー大荒れ 舞台壊し投石、暴行 中高生ファン騒ぐ――


 記事を読んでいるうちに、良江にはどうも違和感があった。

 新聞記事には一万人が殺到とある。たしかにものすごい数の人出ではあった。なにしろあのグラウンドは、下手な野外ライブの会場よりも人は入りそうだ。

 でも一万人は大げさで、せいぜい五~六千人くらいだったんじゃないかと思う。

 それに、新聞ではその一万人の人びとがこぞって大乱闘を繰り広げたことをイメージさせるような書き方をしているけれど、いくらなんでも話を盛っている。

 グランドから退出しようとした人々で混乱はしていたけれど、そんな来場者全員で乱闘していたわけではない。


 そんな夜、浩から電話があった。


「昨日はほんまおおきに。ありがとうな」


「うん、それより、大丈夫やったん?」


「騒ぎはすぐに収まったし、特にけがした人とかもいてへんみたいやったな」


「そやろ。それなのに新聞はなんであんな大げさに書くん?」


「大げさに書いて読者の興味引いてなんぼやからな、あの業界は」


「でも、そんな危険な状態やったんやろか」


「うん、それが」


 少し間をおいてから、浩は少し声を落とした。

 おそらく公衆電話からかけているのだろうけど、もしかして周りの様子をうかがっているのかもしれない。


「いろいろと腑に落ちんこともあってな。そもそもあのコンサートの主催者はアイドル研究会いうけど、そんな大学の一サークルがいくら新人とはいうても今人気急上昇中のアイドルを学祭に呼べるか? しかもただでコンサートやで。まさかきょんきょんもボランティアで出てくれるわけもないし、少なくとも五十万から百万くらいはかかるはずや」


「うん」


「それなのに、大学の一サークルにそんな金あるかいな? しかも無料コンサートやし、なんかおかしいちゃうんかな」


「どういうこと?」


「そのアイドル研究会なんてサークルがあるの、俺は知らんで。いや、聞いたことない。はっきり言うて、この大学にそんなサークル、ないで」


「はあ」


「これ以上のことはようわからんし、憶測で物言わんほうがええかもやけど、ある噂では自治会からの圧力がかかったんちゃうかっていう」


「自治会?」


 学生運動の原動力の組織だ。


「あくまで噂やし、これ以上憶測でもの言うんはやめとこ」


「自治会って、そんなに強いん?」


「昔ほどやないけどな」


 昔……十年ひと昔とすればちょうど十年とちょっと前、良江がまだ小学校低学年だった頃が第二次安保闘争の学生運動がピークだった。


「まだ学生運動、残ってるん?」


「かなり減ってはいるけどな、それでも学祭や普段は校内に政治的スローガン掲げた立て看板も多いし、拡声器で延々と演説する声も響いてる。ちょうど一ヶ月くらい前やったかな、当局による学生寮廃止の決定を学生自治運動の抑圧やいうて、ヘルメットかぶった自治会がデモやって路上で機動隊とぶつかって、乱闘の挙句に逮捕者も出たそうや」


「え? そんなことがあったん?」


 自宅の至近距離でそんな事件があったことは、良江は初耳だった。

 ヘルメットにゲバ棒、火炎瓶なんていう学生運動の闘争はもう昔話だと思っていただけに良江には驚きだった。

 でもまだその残り火が存在する世界に、今も浩はいる。

 別に浩がその残滓ざんしの中にいるわけではないようだけれど、それでも浩がなんだか別の世界の人のように思えて、良江は彼との距離を感じてしまった。

 そんな会話をしているうちに、この事件が浩との将来を無気味に暗示しているような気がしてきて、良江は暗い気持ちになっていった。


 案の定、浩からの連絡は再び途絶えた。

 次に良江が浩と会ったのはクリスマスイブ、帰省する彼を京都駅まで見送った良江との間に隙間風を吹かして浩は去っていった。


 昭和57年も暮れた。

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