コンサートが終わったのは、夜の八時過ぎだった。

 あの土砂降りのスコールからはだいぶ収まったけれど、それでもまだ当分やみそうもなかった。

 これまではから梅雨だっただけに、そのつけがきたのかなと思うくらいだ。

 これまで会場を埋め尽くしていた人々も、三々五々に会場を後にした。

 そのまま洋館づくりの喫茶店の前から左に折れて坂を下りて行く群れも多いけれど、直進して公園に入っていく人たちも少なくはない。

 良江も本当だったら夜の公園でもう少し浩と一緒にいたいところだけど、なにしろこの雨である。

 それでも公園内に人は多い。多いけれど、雨の夜の公園というのもまた風情があるものだった。


「少し池の方行ってみよか」


 ちょうど良江が思っていたことを、浩の方から言ってくれた。

 今はもうレインコートは脱いで、互いに傘をさしていた。だが、良江の傘が折り畳みで小さいので、浩の大きな傘に入れてもらうことにした。

 自然と二人は腕を組む。

 夏だから半袖なので直接に腕の肌と肌が触れ合い、浩の体温がじかに伝わってくる。

 良江は思い切りしがみついて、その温かさに酔っていた。

 春には一大観光名所となる枝垂桜しだれざくらも今は雨の中ふさふさした緑の葉に覆われて立っており、それを横目に右の方の池に沿ってぐるっと回った。

 すぐに屋根のある休憩所があった。

 五メートル四方くらいのその休憩所は壁はなく四方は大きく入口が開いていて、四隅には腰の高さまでくらいの壁板はある。その内側にそれぞれL字型に木の腰掛が設けられている。

 中央には灰皿があり、浩はどうもここで一服したかったようだ。

 二人で傘をたたんで並んで座ると、すぐに浩はマイルドセブンに火をつけた。良江の父がいつも家で吸っているから、良江もたばこの煙には慣れている。

 さすがにもう、ここではほかに人はいなかった。


「どうやった? コンサート」


「うん、おもろかったな。ほんまにまるっきりあほやね。でもなかなかよかったよ。しんどかったけど」


「なにしろナターシャセブンはフォークの草分けやし、それが日本のフォークソング発祥の地で毎年やってる伝統あるコンサートや。心配もあったけど、何とか今年もでけた」


「心配?」


「うん、実は今年の二月にな、ナターシャセブンのプロデューサー兼マネージャーでもある会社の社長が亡くならはってん。あの火事で」


「火事って……」


「ほら、東京のホテル火災」


「ああ」


 良江も知っている。二月頃に東京の超有名ホテルで火災があり、多くの死傷者が出たことでテレビや新聞でもそのニュースでもちきりだったからだ。


「それで高石ともやも意気消沈して、一時はナターシャセブン解散説も飛び交ったけどな、何とか持ち直してくれたわ。フォークソング発祥の地の伝統行事は消したらあかん」


「フォークいうたらいちばん流行ってた頃って私まだ小学生やったし、よく知らんけど南こうせつとか、吉田拓郎とか、あとさだまさしとか中島みゆきとかそんなイメージやけど」


「ああ、そういった人たちよりも、ナターシャセブンの高石ともやや諸口あきら、杉田二郎とか関西フォークの方がほんの少し前や。だから京都がフォークソング発祥の地やねん」


 京都の人ではない浩から逆に京都のことを教わるというのが、良江にはどうにもむず痒かった。


「そうなんや」


 少し沈黙があった。そしてそれは突然だった。

 座っている間も二人は手を握り合い腕を絡ませていたけれど、その浩の腕は良江の方に回された。


「なあ、俺の顔の前で目つぶれるか?」


 それが何を意味しているのか、良江にはすぐにわかった。

 分かっていて、良江はうなずいた。

 そして目を閉じた。

 くちびるに熱い感触があった。浩の吐息を直接感じた。だがそれ以上に、良江の鼓動は激しいほどに早鐘を打っていた。

 そんな二人を、雨の音だけが包んでいた。


 帰りのバスは二人とも同じ206番循環系統だ。今度は良江の方が先に降りる。

 バスは混んでいて座れなかった。

 立ったまま、良江の降りるバス停が近づくと浩は良江の耳元でささやいた。


「なあ、今日俺の下宿来いひん?」


「何言うてん。もう遅いし」


 良江は笑っていた。


「なんでこんな時間に」


「泊まっていってもええで」


「冗談きついわ」


「せやな。かんにんやで」


 浩も笑っていた。良江の家の最寄りのバス停に着き、良江は軽く手を振って降りた。

 雨はだいぶ小降りになっていた。



 その夜、自室のベッドの上で良江は考えた。

 あのバスの中でのことは、やはり浩の冗談だったと思いたい。でも、せっかくの人生初の記念すべき夢のような出来事が、あのせいで台無しになってしまった感はぬぐえない。

 果たして浩は本当に冗談だったのか、どこまで本気だったのか……。

 やっぱ男の人って、結局目的はそこなのだろうか? 

 今日Aが終わったからってすぐにB、そしてCって、どうしてそんなに焦ってアルファベットを移行していかなければならないんだろう……と思う。

 そんなことを考えているうちに、夜も更けていった。


 翌日はいい天気だった。

 夕方部屋にいると、母の声が階下からした。


「良江。電話え」


 電話は浩からだった。


「昨日はごめんな」


「ごめんって?」


「バスん中で」


「ああ、あんなの気にしてへんし」


「あのなあ、来週の山鉾巡行見に行きたんやけど、良江と。会える?」


「うん」


 良江は少し間を置いてから返事した。こういうことでもない限り、あまり見に行くことのもない行事だ。


「天気どうやろ? コンサートと違って雨やったら中止かな」


「ううん、コンサートと一緒や。宵山も山鉾巡行も、どんな雨でも台風でも中止にはならんえ」


「ほな、その時」


 その約束をしてから五日後が山鉾巡行だったけれど、梅雨明け宣言の声はテレビからは一向に聞こえてこなかった。

 毎日雨というわけでもないけれど、やはりぱっとしない天気の日が多い。

 宵山は小雨が降ったりやんだりだった。だが、山鉾巡行の日は朝方こそかなりの雨が降っていたようだけれど、午前中には雨はすっかりやんでいた。

 それでも曇っていることには変わりはない。

 日差しがないだけ気温は上がらなかったけれど、それでもやはりかなり蒸し暑かった。


 二人は四条通で、人ごみにのまれながら大通りを練り歩く山鉾を見た。

 例年通りの長刀鉾を先頭に、今年は占出山、露天神山、蟷螂山、函谷鉾、保昌山と続く。

 どの山でもその下に白い顔の稚児が乗り、笛や小太鼓、小鐘の音が鳴り響き、またさっとちまきが投げられるたびに結婚式のブーケか外野席へ飛び込んだホームランボールのように人々が飛びつくのだ。


 そんな光景をひと通り見た後で二人は烏丸からすままで歩き、大丸百貨店の側面の一階にあるイノダ・コーヒー店に入った。


「冷コ」


 浩がそう注文するので、良江は笑った。


「ここ、普通の喫茶店ちゃうて格調高いコーヒー専門店なんから、銘柄で注文しおし」


「そっか」


 浩は笑って注文し終わってから、良江を見た。


「当分、会えへんな」


「え?」


「あさってから帰省するし、九月は試験や。十月にはまた休みで故郷くにに帰るし、戻ってきたら学祭の準備で忙しいんや」


「そっか。でも、電話してな」


「でも実家からやと長距離になるさかい、ようかけんやろな」


 なんか今日のどんより曇った空模様と同じような晴れない気分で、良江はコールドのモカをすすった。



 夏休み中、浩は一階だけ京都に戻って来たと電話があった。だが会えないという。

 ちょうどお盆の時分で、五山送り火、すなわち大文字焼の頃だ。

 浩がこのお盆の時期にわざわざ京都に戻ってきたのは、地元の高校時代の友人たちが大文字焼目当てに、さらには宿泊費を浮かすために浩の下宿に転がり込むため仕方なくとのことだった。

 みんなが浩の下宿を当てにしていて、大文字だというのに浩が帰省してうろうろしていたら友人たちからリンチに遭うと笑って言っていた。


 大文字山は良江の家からすぐそばだ。

 だが、ここ数年見てもいない。いつも良江がバスに乗るバス通りの向こうに大文字山が間近に見えて、火の灯されていない普段の山肌の「大」の字ならば毎日見ている。

 昔は送り火の大文字の火も良江の家の自分の部屋の窓から見えた。

 でも五年くらい前に隣に三階建てのアパートが建ってしまって良江の部屋の窓からの視界をふさぎ、大文字は見えなくなった。

 ちょっとバス通りまで出れば見えるのだけどわざわざ行く気もせず、自然と見なくなっていた。

 五山の送り火が終わると、浩はまたさっさと故郷くにに帰って行ってしまった。

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