それから約一カ月。


 どんよりと曇っており、風は微かに吹いているくらいだ。

 もうすぐ七月中旬に差し掛かるというのに、この年はまだ梅雨が明けていない。だから気温はまだそんなに高くはないけれど、この盆地の底の町はかなり蒸し暑かった。

 それより、天気が心配である。

 今は雨は降っていないけれど、予報では夕方ごろにひと雨来そうだとのこと。それでも日曜だけあって四条通しじょうどおりは相変わらずの人出だった。

 この日、車道は片側車線に交通規制が敷かれ、ところどころに巨大な台車の上に櫓を組み上げたいわゆる「山鉾」が組み上げられつつある。

 六日後には山鉾巡行を迎えるその準備だ。

 アーケードの下は、白地に黒で三つ巴や木瓜の紋の入った提灯がすでに並んで取り付けられていた。


 良江が乗った206番のバスは三条の方からさががってきて、そんな四条通へと右折したすぐのところで停まった。

 そこから戻る形で歩道を歩くとそこが四条通の終点で、突き当たった石段の上に赤い柱の小振りな二層の楼門がある。

 大学へ行くときはその楼門の石段下へと信号を渡ってから石段はのぼらずに右に折れて、四十メートルほど行ったところにある別のバス停でバスを乗り換える。

 実はそこも乗り場の違いだけで、降りたところと同じ名前のバス停である。

 そこからなら系統に関係なく、すべてのバスが良江の大学の最寄りのバス停を通ることになる。

 本当はもう一つ手前のバス停で降りて乗り換えれば、降りたところで歩かずに乗り換えられるのだけれど、そこだと良江の大学の方へは行かないバスも半分くらい来るのでいちいち系統表示を確認するのが面倒だった。


 だが今日は大学に行くわけではないので乗り換える必要もない。

 だからそのバス停の方へは行かず、突き当たった石段を楼門の方へと良江はのぼって行った。

 幅の広い短い石段は、のぼりもくだりも相変わらず観光客でごった返していた。

 外国人の観光客の姿も実に多い。

 その石段の上の方の、右側の狛犬こまいぬの石像の台の下に背もたれして立っていた浩が、良江を見て軽く右手を挙げた。


「暑いね」


 良江は浩のそばまで行くと、白いハンカチで汗を拭いた。


「うん。それより遅いやんか」


「かんにん。道混んでたんよ」


「それより天気、どうやろ」


「朝の天気予報とか、出かけ間際に電話177番で予報聞いてきたけどな、やっぱ夕方から降るみたいや」


 二人はあと数段の石段を上った。そして自然と互いに手を伸ばしてつないだ。


 初めて映画を見たあの日から、もう四回目のデートである。

 もう良江は、浩に敬語を使ったりはしない。


「チケット、ちゃんと買えたん?」


 石段の上について楼門に吸い込まれながら、良江が聞いた。


「もちろん。今さらになって買えんかったなんて言うたらどないすんねん」


「たしかに」


 良江は笑った。


「最初、藤井大丸のプレイガイド行ったら売り切れとってん。そんで、もうどこ行ってもない言われたんやけどな、京都会館行ったらしっかり買えたで」


「そうやろ。あそこなあ、穴場やねん」


「最悪の場合は当日券もあるけどな、それこそえらい行列やろ」


 楼門をくぐってやらやらやらの出店が並ぶ参道を右に折れると、有名な神社の境内が広がっている。

 拝殿はその境内の広場の左手にあるから、南を向いている。

 たいていの神社は南向きだ。

 せっかくなので拝殿で少しお参りをしてから、二人はさらに東に向かった。

 神社にとっては裏口ともなる東北門の赤い小さな鳥居をくぐると、神社の境内よりもはるかに広い広い公園へと続く。

 道の右手には巨大な倉庫がいくつも並んでいるが、それこそが今は四条通で組み立てられている山鉾が普段は格納されている倉庫なのだ。

 だから、今はどのくらからのはずだ。


 公園の奥の方は池のある日本庭園となり、そのまま向こうに横たわる東山まで続いている。

 だが、二人はそんな広い公園を散策しているわけではなく、明らかに目的地に向かって歩いていた。

 二人は池の手前で右、すなわち南の方へ向かった。

 このあたりから観光客とは明らかに異質な人々が、長い行列を作っていた。

 彼らは若者が中心だけれど、昭和20年代生まれだと思われる明らかに学生ではない人たちも少なからずいた。

 右手に巨大な洋館を改造した庭付きの喫茶店を見るあたりで公園は終わり舗装というよりも石畳となって道は続くが、長蛇の列はどこが最後尾かわからないくらい長く伸びている。


「わあ、開場までまだ一時間半もあるのに、もうえらい人やなあ」


 良江がつぶやくように言った。


「そりゃもう昨日の前昼祭の後から一晩公園にテント張って、キャンプしながら並んでる人もいてる言うし。いい席とろう思うたら、今日の朝になってから来てたらあかんわ」


 二人は最後尾に並んで、列が動きだすのを待った。だが、たちまちそこは最後尾ではなくなり、さらにさらに列は伸びていった。

 もちろん、あと一時間半しないと、列は動きだすはずはない。


「曇りでよかったなあ。これで炎天下やったらかなわんえ」


「そうやな。でも、去年は晴れてたし倒れた人もいてはったみたいやな」


 浩が怖いことを言う。

 それでも二人でああでもないこうでもないといろんな話をしているうちに、一時間半はすぐに過ぎた。

 ようやくゆっくりと列は動きだす。列が進む方向は南だ。

 左はこんもりと木々が茂っているけれど、道の右にはいかにも由緒ありそうな寺があり、その先には観光客に喜ばれそうな、彼らが京都らしいと思うような古い町並みが見えたりする。

 春や秋ならば修学旅行の制服で埋まる道だ。

 だが、今はそこを異質な若者の集団が行列を作っている。観光客たちはそれを異様なものを見るような眼で見て通り過ぎていく。

 その列はうごきだしてからずいぶんたって、やっと左手の木々の間にどんどんと吸い込まれていった。


 浩はチケットを一枚良江に渡し、木々の間の建物の脇のゲートでスタッフにチケットの半券をもぎ取られてから入ると、ぱっと視界が開けた。

 木々のこっち側は広々とした観客席が円形に並ぶ野外音楽堂で、その傾斜のあるスタンド席に囲まれた低いところに、そこだけ屋根のあるステージが見えた。

 ここは外とは異空間だった。

 客席は背もたれのない長椅子だ。

 全席自由席なので前の方は、すでに埋まっていた。まだ入場者はあとからあとから入ってきているから、そのうちスタンドは満員となるだろう。


 二人はなんとか席を取った。だいぶ後ろで、ステージは小さくしか見えない。

 すでにステージ上にはドラムやマイクスタンドなどの機材が準備され、アコースティックギターも並べられていた。

 そして中央には「宵々山」と書かれた大きな赤い提灯ちょうちんがぶら下げられ、その隣ののぼりにも「宵々山コンサート」の文字が縦に入っていた。

 ステージの左右の袖には、篝火かがりび用の燭台もある。


「なあ、宵々山は来週の木曜やんね。なんで宵々山コンサートは今日なん?」


「ああ、第一回目はほんまの宵々山にやったさかいそういう名前付いたみたいやけど、二回目以降はその近くに日曜にずらしたみたいや。ほんまの宵々山やったら平日になることも多いしな」


「もう夏休みなんやから平日でもええやん」


「あのなあ、お客さん全部が学生とちゃうで」


 良江は笑ってぺろりと舌を出した。

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