古都物語

John B. Rabitan

 

〈冬〉

 昭和57年(1982年)・京都。


 大きなお寺の白い塀と、その隣の別の大きなお寺の築地塀ついじべいに挟まれた東へ向かうなだらかな上りの坂道は「女坂」とも呼ばれ、その名の通り今朝も若い女性であふれている。

 制服の女子中・高校生と赤や緑のタウンジャケットやコートに身を包んだ女子大生たちは皆、白い息を吐きながら柔らかな朝の光の中を坂の上へと一斉にのぼる。


 坂の上に女子大と、その付属の女子中学・高校があるのだ。

 坂をだいぶ上ったあたりに石の鳥居があって、道はその鳥居の左を通るが、ちょうどそのあたりで中学生と高校生は左手の校門に吸い込まれていく。


 その鳥居の脇で、良江は後ろから名前を呼ばれた。振り向くと良江と同じ「短国」、つまり短期大学部国文学専攻の淳子の笑顔があった。


「おはよ」


「あ、おはよ。寒うなったな」


 良江も歩きながら笑った。セミロングの良江と違って見事なロングヘアの淳子は、良江と並んで歩く形となった。


「いつからおったん?」


「今追いついた。良江ちゃん、なんかとろとろ歩いてるし」


「眠いしな」


「そうそう、今日、午後、暇?」


 淳子が良江の顔を覗き込む。


「なんで?」


「藤井大丸においしいチーズケーキ売ってる店、見つけたんよ。買いにいかへん?」


「モロゾフやろ。そんなん高校んときから知っとるよ」


「そうなん?」


「それに、藤井大丸ちゃうよ。大丸百貨店やよ」


「え? 知らん。四条烏丸からすまのデパートって藤井大丸ちゃうん?」


「ああ、それやったら大丸やん。でも、モロゾフやったらそんな遠くに行かんでも、河原町かわらまちの髙島屋の地下にもあるえ。チーズケーキだけやなくて、プリンも有名やね」


「ほな、授業終わったら行こ」


「あ、あかん。今日水曜日やん。夜に彼から電話来るし、遅くなれない」


「ああ、例の彼ね。これだからもう」


 淳子は冷やかし気味に言ったけれど、良江は浮かない顔だった。


「今日、電話来るん?」


「毎週水曜日の八時に電話の定期便」


「ええなあ」


「いや、それなぁ実は昔の話でな」


「え?」


「今は中途半端なまま、音信不通」


 二人は道の左手の短期大学部の門を入った。


「詳しくは夕方ね」



 草色に抹茶色のラインの入った九条車庫方面循環系統207番の市バスで四条河原町まで向かった二人は髙島屋の地下1階のモロゾフで、お目当てのチーズケーキとガラス容器に入ったプリンを買った。

 そのあと、まだ時間があるからお茶しようということになったのだが提案したのは淳子の方で、その目的は朝の話の続きを聞きたいという魂胆まる見えだった。

 もう日はとっぷりと暮れているけれど、もし夏だったらまだ十分に明るい時間だ。

 二人は髙島屋を出てから、河原町の交差点の信号を四条通しじょうどおりの北側へと渡った。そのまま西に、アーケードの下の歩道を人混みをかき分けて歩く。

 このあたりが京都で一番の繁華街なのだ。

 四条通の両脇には背の低いビルが続き、まるで壁の間をまっすぐに四条通は伸びているようだ。

 その四条通は車が詰まっていて、ほとんど流れていないように感じた。

 そして二分ほど歩いた寺町京極の入り口の角にリプトン・ティーハウスがある。

 お茶しようと決まったときに、良江はすぐにこの店にと決めていた。

 そんな大きな店ではないけれど、二階もある。席はほぼ満員で、やっと空いている席があったという感じだ。

 二人は窓側の、二人掛けのテーブルに着いた。


「私、ロイヤルミルクティー」


「ほな、私も」


 良江の注文に淳子も便乗する形だ。

 ここは紅茶専門店ということになっているけれど食事のメニューもかなり多く、この時間になると喫茶店というよりもレストランとして利用する人の方が多い。だから混んでいるのだ。


「なあなあ、朝言うてた話、早よ聞かし。あの彼とその後どうなったか」


 淳子は長い髪をかき上げ、身を乗り出してくる。


「だから、音信不通やて」


「なんで? 電話きいひんの?」


「うん」


「こっちからかけたら?」


「いや、彼アパートで独り暮らしでな、電話ないねん」


「呼び出しも?」


「ない」


 二人の間に一瞬の沈黙があった。


「だからいつもは毎週水曜日に彼の方から、公衆電話でかけてきてくれてたんよ。時間決めとったら親がとる前に私が出るし」


「それが来なくなったってこと?」


「うん。歩いて十分もかからんところに住んどることは知ってるんやけど、彼の下宿になんてよう行かんし」


「手紙は?」


「何度も書いたけど返事来いひん」


 良江は苦笑いをひとつ浮かべた。


「今までも惰性で連絡とり合うて、惰性で会ういう感じやってん。お互い冷めきってるいうことは、わかってるんやけどな」


「いつから連絡来いひんの?」


「十一月の終わりころから」


「ああ、確かにそれまではさんざんのろけ話聞かされたしな」


 良江の目は虚ろに空中を見つめた。


「でもな、最初から燃え上がったことなんか、なかったんちゃうかな」


「なんやねん、あんなさんざんのろけとって?」


 そこへ注文していたロイヤルミルクティーが来た。

 ウエイトレスが去ってから良江は大きくため息をつき、カップを口に運んだ。


「とにかく今はぷっつり。中途半端な状態やし、このままほっといていいんか、早急になんとかしたほうがいいんか」


「んん」


 淳子も少し考えていた。


「彼のこと、まだ好きなん?」


「それもわからん。好きちゃうって認めとうのうて、今まで悩んでたのかもしれんし」


 良江は視線を、テーブルの上に落とした。


「最後に会うたんは?」


「それも十一月祭」


「ああ、あん時が最後やったん? あの時は乱闘事件で私ら先に返されたしな」


「ま、事件自体は新聞に出てたほど大げさなものやなかったけどな」


「そやね」


 淳子の方がむしろため息をひとつついた。そして顔を挙げた。


「良江ちゃん、元気出しぃ」


「元気なんやけど、ほんま中途半端はつらいえ。新しい好きな人ができひんいうだけのことで、彼と続いてるつもりでおるのかもしれんし」


「ほな、振られそうなんやったら、こっちから先に振ってしまったら?」


「あのなあ、振られるよか振る方がつらいもんよ」


「そうなん? でも、やっぱり好きなんやな、今も」


 良江は目を伏せた。そして少し黙った。

 紅茶を一口飲んだ。

 そして目を伏せたまま言った。


「会うてるときは楽しかったし、会えないと寂しいし、会いたいと思うし、でも……ううん、自分でもようわからん」


 良江は一気に言い放った。


 外に出ると、路上を行きかう人混みはますます増えていた。

 二人が乗る17番の錦林車庫行きのバスはすぐに来た。調整路線系統なので整理券車だから、二人は後部扉から乗り込んだ。

 淳子が先に出町柳駅前で降りる。

 降り際に淳子はもう一度、良江に言った。


「良江ちゃん、元気出しぃ」


 良江が帰宅すると、さっき良江に電話があったと母が言った。

 しまった……と思う。

 彼からだ。


「でもまた、あとで電話する言うてはったえ」


 母のその言葉通り、夕食が済んだ頃に電話のベルが鳴った。良江が慌てて親よりも先に電話を取った。


 電話は彼からだった。

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