深夜タクシー
うめの りこ
第1話
タクシーの後部座席の窓に、絶え間なく雫が流れる。雫には、街灯の白色、マンションから漏れるオレンジ色が無数に輝き、下へ下へと流れ落ちていく。深夜のタクシーはいつも記憶があやふやで、隣にはいつかの優しい人たちがいたのだろうか。アルコールが体内で分解されると、アセトアルデヒドという物質になるらしい。人間にとって、アセトアルデヒドは毒だ。私は、いつも何かから逃げるようにアルコールを摂取し、自分という人間に毒を残す。それなのに、いつかの優しい人たちは、私を安全な場所に送り届けるまで一緒に居てくれたのだろうか。なんで? こんなどうしようもない私なのに。そしてタクシーの運転手さんは、いつも深夜の迷える小娘に優しい。今近くにいてくれる人間の暖かさと、遠く離れてしまったものや人への絶望感に包まれながら、タクシーの後部座席の窓に映る夜道はまるで宇宙のようだ。
今は一人。いつかの優しい人たちは、もう私の近くにはいない。学生生活という限られた時間を、ただ同じ場所で過ごしただけだ。そして、散り散りになった。それは悲しいことではなく、それぞれ人生の次のステージへ進んだのだ。いつかの優しい人たちは、いつまでも私の近くにいてくれるわけではないのだ。
やつからの返事は来ない。どうでもいい。あんな男。なのに、大海に放り出された淡水魚のように、途方もなく心細い。明日から、どうやって生きていこう。何をコンパスに?何を食糧に?ただ数週間前にアプリで知り合った男。知り合ったその日に、やつの部屋に行った。また会いたいとも思わなかった。ただ、1週間が経つころ、やつから連絡が来た。「また来ない?」
ーー必要とされたい。私の心の隙間にうまく埋まってしまった。何度かやつの部屋に行った。楽しくも嬉しくもなかった。だからこそ、なのか、なのに、なのかはわかない。
「この関係を続けたくない、これからどうするかはっきりしたい」
などと伝えた。
「少し考えて明日中に連絡する」
と返事があった。
その日、仲良し4人グループになりつつある会社の同期のうちの一人から、グループLINEに連絡が来た。
「明日俺誕生日なんだ。祝ってくれない?」
4月に入社してから半年、やっと同期といて楽しいと思えるようになった。やっと見つけた友達だと思った。嬉しかった。好きだと言っていた赤ワインで有名なお店にサプライズケーキの予約をした。だが、男2人、女2人。2人の男の眼中には、もう1人の女だけがいた。
自分で予約したお店のおいしいらしい赤ワインを口から体内へと流し込む。怒りや理性が体内からふっと抜けていき、現実は現実ではなくなる。視界には、楽しそうに笑っている同期たち3人が映っている。やつからの返事は来ない。もう日付は変わったのだろうか。目を閉じると、心地よさに包まれる。魂は居心地のよい場所へといざなわれ、自由になる。現実はここにはない。
「大丈夫?終電は?」
遠くから同期の明るい声が聞こえたが、ほどなくしてその声はすぐ隣から聞こえたことに気づいた。
「大丈夫!帰れるよ!」
明るく答えて、まだ盛り上がる彼らをおいて店を出た。
***
雨に冷やされた空気が身体をすり抜ける。私が住む郊外への終電はもうない。途方に暮れた私は、よりによってやつに連絡をした。やつが言っていた『終電がなくなったらいつでもおいでね』という言葉を、文字通り受け取ったからだ。都心に住むやつの家なら、まだ電車がある。だが、やつからの返事は10分経っても30分経っても来なかった。おそらく何分待っても来ないやつからの返事を待つため、駅のベンチに座った。ここは、どこの駅なんだろう。みんな、どこに行ってしまったんだろう。わたしは、これからどこに行くのだろう。やつとの関係が切れても、たった数週間前の自分に戻るだけだ。それなのに、そこには果てしない闇が広がっている。光を求めてもがき、改札の蛍光灯に張った蜘蛛の巣に、羽虫がごろついている。まるで自分だ。
***
気づけば、タクシーの中だった。いつの間にかタクシーの手配も宿の手配も済まして、タクシーに揺られて宿に向かっている。いざとなれば、冷静な判断もできるものだ。明るく照らされた大きな道を大きく曲がり、路地に入るとタクシーは止まった。目の前にある古びたビジネスホテルが今日の宿だ。
タクシーを降りると、金木犀の香りがした。コロナ禍であっても、いつかの優しい人たちがいなくなっても、同じように巡ってくれる季節が愛おしい。明日は、いつかの優しい人の誕生日だ。明日からも、日常は進む。これからどこへ行くのかもわからないまま、生き続ける。明日大きい魚に食われるかもしれないし、岩場に挟まって動けなくなるかもしれない。いつかの愛した季節だけが、私のコンパスだ。
深夜タクシー うめの りこ @kitsunezaru
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