「申し訳ありませんでした」


 不意に聞こえてきた謝罪が何に対するものなのか、とっさに理解することができなかった。


 戸惑いに視線を投げると、隣を歩いていたはずである蒼鈴そうりんの姿がない。慌てて振り返れば、数歩後ろで足を止めていた蒼鈴が浚明しゅんめいに向かって深々と頭を下げていた。


貴方あなた様の身命の危機に直結することであるはずなのに。わたくしの考えが至らぬばかりに、大変な方に貴方様の身の上を知られてしまいました」

「蒼鈴殿」

「少し考えれば、分かることでした。貴方様は、こんなにも……」


 蒼鈴の声は、わずかに震えていた。深々と頭が下げられているから、蒼鈴が今どんな表情を浮かべているのかは分からない。だが中途半端に途切れた言葉の響きで、蒼鈴がキュッと唇を噛み締めたことは分かる。


 そんな蒼鈴らしくない態度に、浚明は面布の下でそっと苦笑をこぼした。


「顔を上げてくれ、蒼鈴殿。元はと言えばこれは、俺が望んだことだ」


 後宮への潜入を浚明が望み、蒼鈴はその望みに力を貸してくれた。胡吊祇うつりぎの権力を行使して後宮へ乗り込んだ以上、後宮で一番権力を持つ『胡吊祇』である皇太后への挨拶は必須。後々のことを考えれば、蒼鈴と玲伯れいはくが供を連れていたことは周知されていた方がいい。蒼鈴の判断は最善かつ最適だったと、浚明も思っている。


「むしろ、今この時に色々と分かって良かったと思っている」


 浚明が言葉を続けると、蒼鈴はようやくソロリと顔を上げた。その顔はいつも通りの無表情だが、よく見れば唇はキュッと引き結ばれ、浚明に据えられた瞳はユラユラと揺れている。


 ──さて。今の蒼鈴殿には、面布の下の俺の表情が読めているのだろうか。


 そんないつになく内面をさらしている蒼鈴に、どうかいつものように内面まで読み取ってもらえますようにと願いながら、浚明は素直な心の内を口にした。


「これが俺の単独任務であったら。俺は誰にもかばってもらえることなく、騒ぎを起こして調査どころじゃなくなっていたはずだ」

「庇う?」

「庇ってくれただろう、全力で」


 浚明の言葉に蒼鈴はパシ、パシパシと盛んに目をしばたたかせる。


 そんな風に純粋に驚きを表す蒼鈴の反応が面白くて、浚明は思わずククッと声を上げて笑ってしまった。


「俺の仕事では、本来、致命的な失態を演じた場合、その穴は己の命であがなわなければならない。命があるまま、失態を補填して業務を完遂できることなど、滅多にないんだ」


 立ち尽くす蒼鈴の後ろには玲伯が控えている。玲伯も玲伯で浚明の素性や官職についてはある程度予測ができているのだろうが、せっかく蒼鈴があそこまで浚明を庇ってくれたのだ。なるべく伏せたままの方がいいだろうと、浚明はあえて言葉をぼかした。それでも蒼鈴にはきちんと意味が通じているはずだという確信が浚明にはある。


 その証拠に、蒼鈴はわずかに目を丸くした。


「俺の顔がに瓜二つなのだということが確信できた。俺が素顔をさらして後宮関係者に接触するとマズいのだということを知れた。声も聞かれると大変だと分かった。……命があるままそれらを知れた。それは俺にとって、何より大きな収穫なんだ」


 御史台ぎょしだい隠密監査官。


『宮廷の影』と呼ばれる御史台の、さらに影とされる存在。


 闇の中に葬られようとしている真実を追う隠密監査官は、同時に闇そのものに命を狙われている。真実を明るみにするまでにこちらの存在を掴まれてしまえば、身を潜めた闇にそのまま押し潰されて食い殺されるのが常だ。


 基本的に単独行動をしている隠密監査官は、ヘマを踏んでも助けてくれる仲間は身近にいない。むしろヘマを踏んだ身内は、他の面々に類が及ばないように積極的に手を切られる。


 己の命のみで贖えれば御の字。最悪の場合、己の失態から何人かを道連れにすることになる。


 それが浚明が身を置く世界だ。


 身内であっても、弱みを見せてはならない。誰が相手であっても、心の内を覚らせてはならない。利害関係は成立させても、信頼関係を成立させてはならない。


 あの日、書庫室で蒼鈴と出会うまで、浚明はそうやって生きてきたはずだった。


 ──それがどうして、こんなことになっちまったんだか。


「だから、……この機会に、問うてもいいか?」


 はたして自分が蒼鈴との縁を得たことは、幸と出たのか不幸と出たのか。


 そんなことを頭の片隅で考えながら、浚明はかねてから疑問に思っていた問いを口にした、


「いつから、俺の出自に気付いていた?」


 その問いに、蒼鈴の瞳からスッと揺らぎが消えた。代わりにその揺らぎを受け止めたかのように、フワリと一陣の風が二人の間を抜けていく。


 周囲の気配に耳を澄ませるかのようにわずかに視線を伏せた蒼鈴は、風に巻き上げられた髪が落ち着くと同時に浚明に視線を据え直した。


 吸い込まれてしまいそうな深い漆黒の瞳は、もう揺れていない。


「ひと目、見た時から」


 予想できていた言葉にしばらく蒼鈴を見つめた浚明は、次いで蒼鈴の後ろにいる玲伯へ視線を投げる。


 その視線に神妙に頷いた玲伯は、蒼鈴に代わって口を開いた。


華鈴かりんは、君の素性に関して一切僕に口を割っていないんだ。だけど、そんな僕にでも、君が生まれた時に与えられた名前には、心当たりがある」


 そこで一度言葉を切った玲伯は、音に出さないまま唇だけを動かした。読唇術を心得ている浚明は、玲伯の唇が刻んだ名を正確に読み取り、静かにまぶたを閉じる。


幇暁ほうぎょう殿下』


 その名は、鬼籍に刻まれた不遇の皇子のもの。


 だが同時に、確かに浚明の真名でもあるのだ。


「……そこまで、似ているのか」

「まさに『瓜二つ』という言葉は、貴方様達のためにあると思えるほどに」


 静かに響いた蒼鈴の声に瞼を押し上げれば、蒼鈴の顔には常の鋭さが戻ってきていた。スッとすがめられた瞳には、抜き身の刃に通じる冷たさが宿っている。


「だからこそ、なぜ貴方様の上司が、この案件に貴方様をあてたのかが分かりません」


『幇暁』という名の皇子は、当代皇帝がまだ東宮であった時代、初めて娶った后との間に生まれた子供だ。しかし不義密通を疑われた后は正后の座から追われ、皇子も皇太孫の座からは廃嫡された。そして最後には素性不明の賊に親族諸共皆殺しにされ、存在ごと『禁忌』として闇に葬られている。


 そんな浚明の出自について、蒼鈴は過去を掘り返したりはしなかった。あらゆる情報を掌握する『未榻みとう』としていくらでも問いたいことはあっただろうに、蒼鈴はそこに一切興味を示すことなく『今』の問題だけを浚明に問いかける。


「貴方様の上司は、貴方様と彼の御方の関係も、容姿も、ともに承知していたはずです」


 ──俺の素性が割れるような任務……俺の身をあえて危険にさらすような任務を、なぜ俺に命じてきたのか分からない、という話か。


 確かに、疑問ではある。


 御史台大夫は、浚明の育ての親だ。襲撃から唯一生き残った浚明をいち早く保護し、『めい浚明』という名を与えて援助してくれた。保護した当初からゆくゆくは御史台で使おうと考えていたのか、縁故を辿られないように養子縁組こそしていないが、浚明にとっては確かに大夫は養父であり師父である。


 御史台に所属している者同士、情で繋がった関係性は排すべきだとは心得ている。だが互いに義親子として過ごした関係性を完璧になかったことにできているのかと問われれば、答えはやはり否だろう。


 何だかんだと厄介で喰わせ者な上司だとは思っているが、やはり浚明にとって大夫は命の恩人であり、庇護者だ。慈しむ、という関係まではなかったかもしれないが、大夫が情をもって自分を育て、鍛えてくれたと浚明は感じている。


 ──少なくとも『幇暁』を将来的に何らかの駒として利用したいだけだった、という感じではない……とは思う。


 仮にそうであったならば、わざわざ『茗浚明』を御史台に引き入れる必要性はない。適度な環境と人員を与え、世間を知らせず適当に飼い馴らせば良かったはずだ。浚明が独りでも生きていけるように、……それも隠密監査官として生きていけるように仕込むには、それなり以上の手間がかかっているはずなのだから。


 ──それに、今の時点で『幇暁』の生存を皇帝筋に知られてしまうことは、利益以上に不利益しか御史台に生まないはずなんだが。


 大夫は浚明がこの一件に蒼鈴を巻き込むことを望んでいるようだった。蒼鈴が『未榻』であり『胡吊祇』であることを大夫が知らないはずがない。浚明が蒼鈴を巻き込めば、自ずと浚明の存在が皇太后に伝わることになると、大夫は予測できていたはずだ。


 浚明のを承知していながらそれでも浚明をこの任にあてたかった理由があるならば、一言その点に関して忠告をしておけば良かったはずだ。だが浚明は今まで、大夫からも御史台の仲間内からも、己の容姿に関して特に忠告を受けた覚えがない。浚明が迂闊であったという点を差し引いても、周囲があえて口をつぐんできたとしか思えない状況だ。


 ──つまり、大夫は『幇暁』の生存を後宮でにおわせることで、何かをしたかったのか?


 もしくはそれによって起こる波を利用して、浚明に何かを探らせたかったのか。


 いくつか仮説は思いつくが、今はそれを論じている場合ではない。こうしている間にも、貴重な潜入時間は刻々と過ぎているのだから。


「俺の上司への疑問は、今は脇にどけておこう。それよりも『淡夢たんむ双妃伝そうひでん』だ」


 浚明が仕切り直すように声を張ると、蒼鈴と玲伯が揃って目を瞬かせた。てっきり蒼鈴も玲伯もすんなり意識を切り替えてくると思っていた浚明は、予想と違った反応に『ん?』と内心だけで首を傾げる。


「……僕達が言うのも何だけども」


 その疑問を玲伯は敏感に察したようだった。蒼鈴ほどではないにしろ、宮廷の中枢を生きる玲伯も並より観察眼は鋭いらしい。


「そんなに簡単に割り切っても良いことなのかい? 華鈴も口にしていたけれども、灰煙はいえん殿の身命に直結する秘密だろう?」

「まぁ、そうなのですが」


 浚明は唇を動かしながら、もう一度己の心に意識を向けた。この存外落ち着いている心境を、どう言葉で表せば正確に伝わるだろうかと考えながら。


「蒼鈴殿も、玲伯様も、皇太后陛下も。この秘密を知ったからと言って、無闇に私を陥れようとする方ではないとお見受けしましたので」


『これでも職業柄、観察眼は鋭いつもりです』と言い添えると、玲伯は呆気あっけに取られたかのように目を丸くした。


 対する蒼鈴は玲伯とは逆に目を細める。そこに宿っているのは、ともすると見落としてしまいそうなほどに淡い微笑みだ。


「だから『今知れたのは僥倖ぎょうこう』という結論に行き着いたのです。そして現状考えを巡らせても正解が分からない事柄よりも、我々が動くことで変えられる可能性があるべきことに意識をく方が有意義であるはず」


 浚明は二人にきちんと相対するように体を置き直すと、面布の下からひたと二人を見据えた。直接顔が見えていなくても浚明の顔色を読み取ることができる二人は、浚明が纏う空気を変えたことに気付いてスッと背筋を正す。


「俺は、宮廷に渦巻く闇に巻かれて、己の命以外のものを、全て失った」


 今でも、夢に見る。


 己を『太子』と呼ぶ声と、力なくうなれて泣いていた細い背中を。


『母上。私はあとどれだけ、この血煙の中で足掻けば良いとおっしゃるのですか』

『この幇暁に、どうか答えをください』


 きっと浚明は、あの悪夢にずっと縛られて生きていく。


 解放を望んでいるわけではない。いずれこの悪夢を忘れられるとも思っていない。


 それでも浚明が足掻くように、あらがうように、御史台の任務に身を投じているのは。


「俺のような思いをする人間は、なるべくならば少ない方がいい」


 そんな悪夢にうなされる自分だからこそ、見つけ出せる真実があると思っているから。救える人間がいると、信じているから。


 だから浚明には、足を止めていられるいとまなどないのだ。


「愚直すぎますね」


 不意に、蒼鈴が呆れたように呟いた。さらにやれやれと息をついた玲伯が続ける。


「性善説を信じていると、いつか痛い目に遭うよ。……でも」

「ええ、だからこそ」


 まるで互いの所感をすり合わせるかのように囁きあった二人は、同時に前へ足を踏み出した。


 浚明との間に開いていた距離が、呼吸ひとつの間に埋まる。


「力を貸してやってもいいと、思わせてくれる」


 そう呟いたのは、一体どちらの声だったのか。ピタリと混ざりあった声は、どちらの声であるようにも、どちらの声でないようにも聞こえた。


「参りましょう、薔薇そうび殿でんはこちらです」


 その不思議な声に浚明が目を瞬かせている間に、二人は浚明の横をすり抜けて先へ進んでいた。慌てて振り返れば、二人は浚明を待つことなくさっさと足を進め続けている。


「貴方様の覚悟、しかと受け止めました」


 チラリと浚明を振り返った蒼鈴の瞳は、常と変わらず凪いでいる。


 だがその漆黒の瞳の中に、出会った当初に見た光とはまた違う光が宿っているような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。


「決して無駄にはいたしません」


 淡々と、深々と。だが凛と、玲瓏に。


 玉鈴のごとく響くその声に、浚明は強く頷いた。


「信頼している」


 隠密監査官が口にするには相応ふさわしくない言葉に、蒼鈴は口元に淡く浮かべた笑みで応えるとさらに足を早める。


 それが『どれだけ足を急がせても、貴方様ならば必ず追いついてくるでしょう?』という信頼の表れであることを察した浚明は、むずがゆく跳ねる心を抑えながら二人の後を追った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る