はっきりと聞き取れない男の怒鳴り声は、嫌でも浚明しゅんめいにあの日のことを思い出させる。


『太子、貴方あなた様だけでもお逃げなさい』


 浚明が廃嫡されても、母は浚明を『太子』と呼ぶことをやめなかった。


 玉殿を追われてボロ屋同然の殿舎へ追いやられても。数多の宝物や絹や従者を奪われようとも。


 母は決して己の矜持きょうじを捨てなかった。無実の罪を着せられ、無罪を訴える声を誰に聞いてもらえずとも、常に凛と顔を上げている人だった。


 そんな母がうつむいて泣く姿を、浚明は最期の最後の瞬間に初めて見た。


『貴方様の命に罪などないことを、わたくしは明かして差し上げられなかった』


 伸ばした手は届かない。


 小さな手はどれだけ必死に伸ばしても母を捉えることはできず、やがて血煙の中に全てがかき消されていく。


『不甲斐ないこの母を、どうか許してくださいませ』


 鼻先をかすめる濃厚な血の臭いが、浚明の意識をあやふやにしていく。


 ──……あと、あとどれだけ。


 御史台ぎょしだい隠密監査官としてあとどれだけの事件を解決に導けば、己はこの悪夢から解放されるのだろうか。


 問うた所で、答えなど見えやしない。それでも問わずにはいられない。


 ──母上。


 私はあとどれだけ、この血煙の中で足掻けば良いとおっしゃるのですか。


 この■■に、どうか答えをください。




  ※  ※  ※




「はっ、話が違うではないですかっ!」


 今度耳を叩いた怒声はうつつのものであるとすぐに判別することができた。


 だが浚明はすぐにはまぶたを押し開けず、己が置かれた状況を把握すべく周囲の音と気配へ気を凝らす。


「私がここで知っていることを素直に話せば、外の人間には手を出さないと……っ!!」

陳蘭ちんらん、こいつは事情がチゲぇよ。勝手に向こうから飛び込んで来たのさ」


 初めて耳にした年嵩としかさな男の声と、聞き覚えがある若い男の声。やり取りから推測するに前者が扶桑ふそう陳蘭、後者が相談窓口にいた神官だ。


「話ぶりからしてどこぞの三姓の家の人間かと思って後をつけてみたら、まさか御史台の監査官だったとはな」


 すっかり騙されちまった、と話しながらも、神官の口調にはどこか笑みがにじんでいる。


「だがむしろ三姓家の人間が引っかかるよりも、監査官の方が良かったのかもな。何せ王宮の悪事はみーんなこいつらが把握してんだから、こいつを上手く使やぁしばらくはネタ元に困らねぇ」


 どうやら神官は浚明の正体を見破ったから後をつけたわけではなく、むしろきちんと騙されていたからこそ浚明の後をつけてきたらしい。


 ──でっち上げの相談内容を怪しむよりも、自分達が把握していない新たなネタ元がやってきたと受け取ったってことか。


 相談事を持ち込むために訪れた、という体で潜入した手前、浚明もそれっぽい話は神官相手に口にしていた。具体的にどこの家の者かと突っ込まれないように適当にあやふやな話を作って話していたのだが、どうやらそれが裏目に出たらしい。


 ──でも、こんな事を繰り返していたら。


「こ、こんな風に相談にいらした方を拉致するような真似を繰り返していたら、いずれ神祇部じんぎぶは怪しまれます!」


 不意にジャラリと重い金属音が響いた。太い鎖を擦り合わせるような音は、浚明の傍らから陳蘭の発言に被せるようにして聞こえてくる。


「そもそも、こちらの方をここへ拉致してきた時点で終わりだ! こちらの方が解放されれば我らの悪行は世に知らしめられる!」

「バァーカ、陳蘭。無事に解放なんて最初からしねぇよ」

「なっ……!」

「お前が情報を抜き出すだけ抜き出したら殺しちまえばいい。死人に語る口なしって言うだろ?」

「そっ……! お、王宮から不自然に官吏が消えれば問題に……っ!!」

「なってねぇじゃん? お前が表から姿を消してひと月になるってのにさ」


 グッ、と陳蘭がうめく。そんな陳蘭を神官はせせら笑ったようだった。


「尚書もお人が悪い。人が神祇部から消えていくのは尚書の部下いびりのせいだと、もはや王宮中の誰もが信じて疑っていないのだから」


 ──なるほど。人目をはばからないあの怒鳴り方は、一種の演技だったと。


 ついでに不穏な雰囲気を醸すことで、外部の人間が必要以上に神祇部へ立ち入らないようにしていたのかもしれない。あるいはそんな空気の中でも相談せざるを得ない背景を持つ者を選別したかったのか。


「……っ、三姓家の争いに、なぜ神祇部が巻き込まれなければならなかったのですか……っ!」


 大体分かってきたな、と浚明は気絶した振りを続けたまま頭の中を整理する。


 そんな浚明の隣からジャラリとまた鎖が擦れる音が響いた。


御寿頭みすずが他の三姓家を出し抜きたいと言うならば、神祇部を巻き込まずに御寿頭の力だけを使ってやればいいでしょう! それなのにこんな……っ!!」

「お前本当に馬鹿だなぁ、陳蘭。その神祇部は御寿頭の家のモンなんだよ」


 コツリ、コツリと音を響かせた足が不意に鋭く空を切る。ドカッという荒々しい音がすぐ傍らから響いた瞬間、声にならない呻き声とともに一際高く鎖が鳴った。


「そもそもなぁ! テメェが悪ぃんだよ陳蘭、テメェがなぁっ!」


 どうやら神官は陳蘭を蹴りつけたらしい。さらに倒れ伏した陳蘭を踏みつけているのか、ドカッ、ドカッという重い足音が何度も響く。


「テメェが『心を読む』なんて怪しい力を使えなけりゃあ俺達がこんな悪巧みを考えつくことだってなかったんだからよぉっ!」

「っ、私はっ! この力を人々のために使おうと決めたから……っ!!」

「『だから神祇部の神官になったんだ』って? 残念! その神祇部は三姓家が一角、御寿頭のモノなんだよっ!!」


 ──なるほど?


 他の三姓家を出し抜く好機をうかがっていた御寿頭家は、陳蘭の『心を読む』という神通力に目をつけた。陳蘭の能力によって引き出した三姓家の後ろ暗いネタを元に告発文をしたため、世に広く流布させれば告発された家の名誉は地に落ちる。最悪の場合は姓を削られることもあるだろう。


 神祇部相談窓口の人間は『秘密厳守』を旨としてるが、官吏である以上業務日報くらいは書くはずだ。陳蘭は人が良さそうだから、神祇部の人間が相手ならば秘密は守られるだろうと信じて、寄せられた相談事の内容を口にしてしまったのかもしれない。


 とにかく尚書一派は上流貴族達の相談役に積極的に陳蘭を当て、その陳蘭を介して王宮の後ろ暗いネタを集め、利用していた。


 ──そのことにどこかで陳蘭が気付き、御寿頭尚書を問い詰めでもして、逆に捕らえられたって所だな。


 ここから先は推測になってしまうが、恐らく陳蘭は最初の告発文の内容を知った時、自分が情報源にされたと気付いたのだろう。『神祇部の中に秘密を漏らした者がいる』と尚書に訴えたのか、あるいは『あの告発文を書いたのは尚書ではないか』と直接糾弾したのかは分からない。


 とにかく陳蘭は御寿頭に噛み付き、結果御寿頭は自分達の所業を認めた。それに陳蘭は反発したが、力技で拉致され、ここに幽閉されて今なお利用され続けている。


 ──陳蘭が今現在も殺されていないのは、まだ陳蘭に利用価値があるから。


『御寿頭が他の三姓家を出し抜きたいと言うならば』と陳蘭は先程口にしていた。ならば御寿頭はまだこの一連の事件を止めはしない。他の三姓家の栄誉を地に落とし、相対的に御寿頭の名をいただきに載せるまで、神祇部による告発文作製は止まらない。


 ──さて。情報収集はこれくらいで十分か?


 音の反響具合から自分達がどこか小部屋に閉じ込められていることも、場にいるのは浚明と陳蘭、神官の三人だけであることも把握できた。


 浚明は両手を後ろに回され、手首を縛られた状態で石床に直接転がされているらしい。神官に気付かれないようにソロリと足を動かしてみたが、特に拘束されている感覚はなかった。背中に隠した指先をそっと帯の下へ潜り込ませれば、仕込んでいた暗器も取り上げられずにそのままそっくり残っている。


 ──悪ぶってる割に、荒事には慣れてないな。


 手首の拘束もまるでなっていない。これならば道具を使わずとも簡単に抜け出せそうだ。響く音から神官が悪ぶっている割に武術の心得も喧嘩の心得もないことは分かっている。目の前の神官だけならば浚明でも十分に制圧可能だ。


「おら、陳蘭! 分かったらさっさとこいつの心を読め! 役に立ちそうな情報を抜き取るんだよっ!!」


 ──後は縄から腕を抜く瞬間を見計らうだけ。


 心を決めた浚明は神官に気付かれないように薄っすらとまぶたを開く。石床の上を這う鎖を辿るように視線を動かすと、その鎖と繋がった枷で四肢を戒められた壮年の男と、その男の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた神官の姿があった。


「い、意識が落ちている人間からは、心を読み取ることはできない……!」


 神官の意識は完全に陳蘭へ向いている。


 動くならば今かと、浚明は腕に力を込める。だがそんな浚明を制するかのように、苦痛に顔を歪めた陳蘭が浚明に視線を落とした。


 その瞳の中に顔に浮かんだ表情とは異なる冷静な光が宿っていることに気付いた浚明は、とっさに腕をピタリと止める。


「彼の目が覚めるまで待たなくては……!」


『まだ動くな』


 その目は、確かに浚明へそう指示していた。


 ──俺が目覚めていたことに気付いて……?


 陳蘭が何を意図してそんな指示を寄越してきたのかは分からない。だが浚明は直感的に陳蘭は敵ではないと判じる。


 ──気付いていたのにコイツに言わないなら、少なくとも敵ではないだろ。


 浚明がそう考えた瞬間。


 不意に、部屋の外……いや、壁を挟んだ向こう側とでも言うべき距離感の空気が不穏に揺らめいたのが分かった。反射的に意識をそちらへ向けた瞬間、今度は尚書のものと思わしき怒声が響き渡る。


「な、何だっ!?」


 悪ぶっているだけの神官でもその怒号がいつもの『演技』とは違うと分かったのだろう。陳蘭の髪を掴んでいた手を離した神官は不安そうにオロオロと周囲を見回す。


 その瞬間、壁を挟んでいてもはっきりと聞き取れる怒号が誰かの名前を叫んだ。


沙潤さじゅん! 沙潤はどこだっ!! 来いっ、沙潤っ!!」

「はっ、はいっ!!」


 神官は飛び上がりながら引っくり返った声を上げる。ここで返事をしても相手に聞こえるはずはないが、今の神官にはそのことさえ理解できていないらしい。


「ち、父上、ただ今参ります!!」


 慌ただしく叫んだ神官は、陳蘭にも浚明にも構わずバタバタと部屋を飛び出していく。


 ──父上……それに沙潤って名前……。あいつ、尚書の嫡男の御寿頭みすず沙潤だったのか。


「ええ、そうです」


 心の内だけで呟いたはずである言葉に、はっきりと肉声でいらえがあった。


 心の内を勝手にさらわれていくことには今日一日で慣れてしまった。今までと違う点をあえて上げるならば、仙女が並外れた観察眼と推察力で浚明の内心を読んでいたことに対し、今目の前にいる男はサトリよろしく神通力で直接浚明の心を読んでいるという点だろう。


「監査官殿、隣の部屋に応援が来ております」


 陳蘭の声にパッと体を起こした浚明は、縄から腕を抜きながら背後を振り返る。


 沙潤が飛び出していった扉は開け放たれたままになっていた。代わりの見張りが派遣されてくる気配もない。今なら楽に逃げられる。


「助力に礼を言う、扶桑ふそう陳蘭殿」

「私は何も」

「俺に事の真相を理解させるために、全部あいつが喋るように誘導してくれてただろ」


 浚明が指摘すると、陳蘭は驚いたように目を丸くした。どうやら浚明の推測は当たっていたらしい。


 ──じゃなきゃあそこまで分かりやすく言質が取れるわけねぇもんな。


 浚明は石床にくずおれた陳蘭まで膝でにじりながら腰の後ろの帯下に指を入れた。反対側の手で陳蘭の腕を取った時には、帯下を漁っていた手の中に細い針が握られている。


「一連の事件に関わっていた人間は今、全員隣の部屋に詰めております。取り逃さなければ一網打尽にできる」


 浚明が手にした針の先を枷の鍵穴に差し込むと、枷は面白いくらい簡単に陳蘭を解放した。陳蘭が言葉を終えた時には陳蘭に掛けられていた枷が全て外れている。


「悪いが俺は職務を遂行しに行かねばならない。自力でここを脱出できるか?」


 浚明の心を読んで何が起きるか分かっていても、実際に光よりも早い錠破りの手腕を見せつけられれば驚かずにはいられないらしい。


 己の両腕を信じられないといった顔で見つめていた陳蘭は、浚明の言葉にハッと我に返るとほろ苦い笑みを浮かべた。


「私も、共犯者です。捕らえられるべきだ」

「しかし」

「どの道、ここにひと月繋がれておりましたせいで、足腰が言うことを聞きません。ここで貴方様のお帰りをお待ちしております」


 陳蘭の言葉には、誰にも折れない芯があった。どのみち今ここで議論を重ねていられるいとまはない。


 浚明は針を帯の下に戻すと素早く立ち上がった。陳蘭に一礼し、音を立てない素早い足さばきで廊下へ飛び出す。


「誰の許可を得てこんな真似をしているっ!!」


 外へ出るとより一層尚書の怒号が鮮明に聞こえた。隣は大部屋……神祇部の主室であるのか、複数備えつけられているはずである通用口までの距離がやけに遠い。


「ましてやここは王宮だぞっ!? 仕官することさえ許されない小娘が私の城で無礼を働いてただで済むと思っているのかっ!?」

「許すも許さないもございません」


 それでも、静かなのに凛と空を裂くその声は、怒声よりも余程鮮明に浚明の耳に響く。


「わたくしにが必要だとでも?」


 浚明は一番手前にあった小さな通用口の前までようやく辿たどり着くと、扉の向こうの気配を探る暇さえ惜しんで中へ飛び込んだ。


 その瞬間、鮮やかな色彩が浚明の目を、苛烈な声が浚明の耳を叩く。


「御寿頭李潤りじゅん神祇部尚書。立場をわきまえねばならないのは貴殿の方では?」


 澄み渡る、青。


 真昼の空を思わせる青い衣に身を包んだ仙女は、背後に呪官と武官を従え、天狼てんろうの星のように苛烈な光を宿した瞳で神祇部の人間達を睥睨へいげいしていた。


「『智の番人』たる『未榻みとう』を前にして頭が高いですよ。形式的に神を祀ることしか脳がない御寿頭風情が」


 この国で『青』は、とある貴族家を象徴する酷く重要な色だ。


 歴代の皇帝さえもがその一族に遠慮して青を纏うことを避けてきた。その青をこんなにも堂々と出仕着として纏うことが許される人間など、この国で片手の指で足りる数しか存在していない。


「『未榻』の名にこうべを垂れ、『胡吊祇うつりぎ』の青にひれ伏しなさい」


 玻麗はれい筆頭貴族、胡吊祇。


 国と歴史を共にするとまで言われる三姓の筆頭、貴族の中の貴族。


 皇帝一族と並ぶとまで言われる家の象徴色を纏った仙女は、なぜか『胡吊祇』よりも前に書庫室の主たる『未榻』の名を掲げ、傲慢なほど強い瞳で世界を上から見降ろしていた。

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