御史台ぎょしだい、という部署は、官吏の行いを監督し、必要ならば不正を正すために置かれた部署だ。三省六部から独立した機関でありながら、その権力は三省六部に匹敵する強さを持っている。


 その職務上、表に顔が出やすい上役を除き、御史台の監査官は己の身分を周囲に伏せている。『絶対に伏せなければならない』という掟があるわけではないが、周囲に身分を知られていない方が職務が遂行しやすいため、自然とそうなるものであるらしい。不正の証拠を押さえるために潜入捜査を行おうとしても、そもそも相手に顔が割れていたらその時点で『潜入捜査』にはならないのだから、それも自然な流れなのだろう。


 その中でも特に、一際重要な案件や危険をはらむ現場への潜入捜査を専門とする者達のことを『隠密監査官』と呼ぶ。


『御史台の影』とも呼ばれる隠密監査官の実態は御史台の上層部しか把握しておらず、彼らは完璧な『影』として監察業務完遂のために不正の疑いがある現場に潜る。


 忍び込まれれば、何も隠せない。存在に気付くこともできない。影の存在に気付くのは、己がまばゆい光の下に引きずり出されて、闇の中に葬ったつもりでいた不正を目の前に積まれた時。


 この王宮の最も暗がりに潜む、もっとも秘された官吏。


 それが御史台の切り札、隠密監査官。


 ──……のはずなんだが……っ!!


 浚明しゅんめいは卓に両肘をついた態勢のままうなれていた。そんな浚明の前には書庫室で少女に渡された歌集が置かれている。


 ──なぜあいつには俺が御史台の人間だと分かったんだ!? 身の上が覚られるような格好もしていなければ、不用意な言動もしていなかったはずなのに……っ!!


 書庫室の仙女に遭遇した翌日のことだった。官舎近くの食堂の片隅に陣取った浚明は、そろそろ知恵熱が出そうな頭を抱えながら昨日のことを反芻している。


 ちなみに昨日の邂逅かいこうからすでに同じことを何百回も繰り返していた。それでも何も分からない。つまりこの思考は無駄以外の何物でもないと分かっているのだが、考えをそこから逸らそうとしてもまたいつの間にか頭が勝手に同じことを考え始めているのだから始末に負えない。


 ──そもそも、だ。この一件は俺の未来に関わる……!!


 身の上を決して周囲に覚られてはならない。


 ただの監査官ならばそれは『職務を円滑に遂行するため』という努力義務だが、隠密監査官になると同じことが『己の命を守るため』という絶対遵守義務に化ける。何しろ隠密監査官が潜る現場は『どこかから差し向けられた密偵である』と疑いが掛けられた時点で背後から刺されかねないような案件ばかりなのだから。


 浚明がただ一目見られただけで御史台の人間であると分かるような言動をしているならば、即急に原因を正さなければ今後確実に命に関わる。今手掛けている案件を外部に知られたということもマズい。何せ浚明に今回降された命は、即急に、かつ確実に処理しなければ、最悪の場合玻麗はれいまつりごとが根っこからひっくり返りかねない案件なのだから。


 ──だというのに……! だというのに……っ!!


 隠密監査官を任されている以上、浚明も決して愚鈍な人間ではない。むしろ学問においても武芸においても並の人間以上に己は優れているという自負がある。今まで任をしくじったこともない。実績だってそこそこにある。


 だが昨日の一件は、そんな浚明をしても『原因不明』だった。


「ぬ……ぬ……ぬん……っ!!」


 周囲に人がいないのをいいことにうなり声まで上げてみたが、やはり分からないものは分からない。


 結局何百回も繰り返した問いに今回も結論が得られなかった浚明はさらに深く項垂れた。


「……仕方がない」


 そしてようやく、腹をくくる。


 分からないことは、訊ねるしかない。学問だって武芸だってそうだ。自分で限界まで考えて分からなければ、分かる相手に教えてもらうしかない。


 ──女に教えを請うなんて……


 胸をじ切られるような悔しさと、一抹の恐怖で胸中をグチャグチャに乱されながらも、浚明は歌集を懐に押し込み、渋々椅子から腰を上げたのだった。




  ※  ※  ※




 宮廷書庫室には、いつだって静寂のとばりが降りている。


「じゃ、邪魔をする……」


 その中にソロリと足を踏み入れた浚明しゅんめいは、静寂を乱さない程度に声を上げた。だがモソリと紡がれた声は大して広がることもなく、モヤリとしたまま書庫の薄闇の中に消えていく。


「その……司書殿? 留守居役殿? は、おられるだろうか……?」


 呼びかける声が控えめになってしまうのは、本来宮廷書庫室は大声を上げるべき場所ではないとわきまえているからというよりも、『会いたいが会いたくない』という複雑な心境の表れだ。


 ──普段ならば、同じ空間の中に人がいるかいないかくらい、気配を読めば分かるはずなんだが……


 浚明はソロリ、ソロリと足を進めながら感覚を研ぎ澄ます。だがやはり浚明の感覚に人の気配は引っ掛からない。


 ──そもそも昨日だって、気を抜いていたわけでは……


「何か御用でしたか?」

「っ!?」


 そう思った瞬間、背後から……本当にピタリと真後ろから、玲瓏れいろうな声が聞こえた。


 ビクリと肩を跳ね上げた浚明は反射的に体を反転させながら声と距離を取るように飛び退る。とっさに右手が左の腰を探るように動くのを止められなかったが、悲鳴を上げなかっただけ上等だと思いたい。


「い、いいいいきなり背後に立つなっ!!」


 だが結局、口から飛び出してきた声はみっともなく裏返っていたので、悲鳴を上げるのとあまり状況は変わらなかったのかもしれないが。


「呼ばれたからうかがっただけですが」

「登場の仕方というものを考えろっ!!」

「さて。書庫室では静かにしている方が正しいはずですが」


 感情が見えない澄んだ声で受け答えをしてくるのは、間違いなくあの仙女だった。今日もつややかな黒髪を後ろで高く結い上げ、質素な襦裙じゅくんに身を包んだ仙女は、その麗しいかんばせに一切感情を見せないまま、淡々と浚明に口をきく。


「本日はどういった御用件でしたでしょうか? 返却本の棚が分からない……といった風情ではないようですが」


 チラリと浚明の懐に視線を流した仙女は、浚明の瞳に視線を戻すと変わることがない口調で問いかける。たったそれだけで己の心の奥底までをものぞかれたような気がして、一瞬浚明の胸がザワリと嫌な感じにざわめいた。


「き、今日は……」


 一瞬、本気で『こいつ、実は魑魅魍魎のたぐいじゃないだろうな?』と疑いながらも、浚明は何とか口を開く。いまだに躊躇ためらいが消えたわけではないし、警戒心はここの敷居を越えた時以上につのっているが、わざわざ腹をくくってここまで来たことを徒労にはしたくはない。


「お前に、訊ねたいことがあって、来た」


 グッと一瞬口ごもってから何とか言葉を吐き出す。


 その言葉に、一瞬だけ仙女の瞳の奥がユラリと揺れたような気がした。


「なぜ昨日、俺を見ただけで、俺が御史台ぎょしだいの人間であると分かった? 探している書が、この『華玉かぎょく問答集もんどうしゅう』であると、なぜあれだけで分かったんだ?」


 意を決して口にした問いに、仙女は一度ゆっくりとまばたきをした。


 その意味を浚明が推し量るよりも早く、仙女は変わることなく感情が見えない声で言葉を紡ぐ。


「意外でした」

「は?」

「『女に教えを請うくらいならば、分からないまま放置した方がまだマシ』とでも言うかと思っておりましたので」

「ぬっぐ……!」


 ──こいつ、実は仙女とかじゃなくてサトリとかいう妖怪なのでは……!?


 あるいは自分がそこまで分かりやすい人間であるのか。そうであるならばやはり即急に己の行動を改めなければならない。


「この一件は、今後の俺の身の安全に関わる。考えても分からないならば、直接訊ねにくるより仕方がないだろう」


 己の葛藤までをも見透かされていたことにさらなる恐慌を覚えながらも、浚明はそれを理性で押さえつけて答えた。その言葉にもう一度、仙女がパシリと目を瞬かせる。


「だから、教えてもらえないだろうか。お前がそう判断した理由を」

「……その部分は、真っ直ぐなのですね」

「は?」

「まず気になったのは、装束です」


 その呟きはどういう意味なのか、という疑問が浮かんだが、それを直に問ういとまは与えられなかった。


 浚明からフイッと視線を逸らした仙女は、傍らの書架に指を伸ばしながら淡々と語る。


「貴方様が纏っている漆黒の袍は、部署にかかわらず内朝の中級官吏が纏う物です。内朝、外朝を問わず、王宮内のどこを歩いていても疑問には思われない装束ですね」


 仙女は書架に納められていた巻物を手に取ると傍らに抱えた。どうやら何かの作業中であったらしい。よくよく見れば仙女の腕の中には似たような巻物が何本か抱えられている。


「装束の色や形で部署や階級を表さない下級から中級の官吏達は、佩玉によって己の所属を表すものです。しかし貴方様の腰にはその佩玉がない」


 その言葉に浚明は反射的に右腰の帯を押さえていた。


 確かに浚明の腰に佩玉は吊るされていない。だが王宮に数多詰める官吏の中には佩玉を下賜されていない身分の者もいれば、普段の業務に邪魔になるという理由で儀礼的な場面でしか佩玉を帯びないという手抜きをしている人間も一定数存在している。そういう人間がいるからこそ、浚明の無佩玉姿も今まで誰にも注目されてこなかった。


「そうでありながら、貴方様の帯には何かを日常的に吊るしていることから生じる擦れ跡があります。擦れ跡は右と左に一箇所ずつ。左側は帯以外に太腿周辺の衣にも擦れ跡が見えることから推察するに、剣の類でしょう」


『先程わたくしに驚いて飛び退った時も、無意識のうちに剣を抜くような仕草をしていましたよ』という言葉に、浚明はハッとした。意識してみれば、今も右手が何かを求めるように左腰へ伸びかけているのが分かる。


「左肩が上がる形で腰周りから体の中心線が歪むのは、剣を腰に帯びることが多い武官の方の特徴です。すなわち貴方様は、日常的に剣を携帯しているということになります。文官の装束を纏っているにもかかわらず」


 浚明が警戒心を露わにしていることにも気付いているだろうに、仙女は流れるような説明を止めようとはしない。玲瓏とした声は変わることなく、書庫室の静寂と調和するかのようにスッと空気に溶けていく。


「剣や刀以外で腰に吊るす物で言えば、佩玉が一般的でしょう。ならば右側の擦れ跡は佩玉を吊るしていることでできた物であると考えられます。今のわたくしの発言で、左右を指摘する前に右腰を押さえたことからもこの事実は明白です」


 ──これだけのことが、昨日俺を一目見た時点で分かったというのか?


 静寂の帳を揺らさないくせに浚明の耳には凜と響く声に、徐々に浚明の意識も冷静さを取り戻していく。


 そうなると際立ってくるのは、目の前の仙女の並外れた観察眼だった。


 ──『擦れ跡があった』と簡単に言うが、そんなに目立つわけでもないだろうに。


 おまけに書庫の中は、目の前の仙女が纏った衣の正確な色さえ分からない薄闇に覆われている。そんな中、一瞬で衣の擦れ跡に気付いたと言われるよりも、正体が覚で心が読めたと言われた方がよほどまだ納得ができるような気がした。


「あえて右側に佩玉を吊るしているのは、剣を抜く時に邪魔にならないようにでしょう。そう考えると、貴方様は儀礼的に剣を佩いているわけではなく、いつでも剣を抜けるように気を配っているということになります。全身の骨格と筋肉の付き方から見るに、剣使いとして相当な腕をお持ちのご様子。今も全身、暗器で武装されていらっしゃいますよね?」


 ──! そこまで見抜いて……!


 今度は驚きを顔に出さずに済んだはずだ。代わりに顔から表情が抜けたから、問いを肯定してしまったことに代わりはないが。


 チラリと一度浚明を牽制するかのように視線を流した仙女は、表情を変えることなく視線を再び書架に置く。目の前に武装状態の男がいて、人気がない書庫に二人きりという状況であるにもかかわらず、仙女に緊張感や警戒心といったものは一切見えなかった。


「帯に擦れ跡が残るくらいに佩玉と剣を日常的に帯びているのに、ここへ来る時はその両方を外している。その理由を『己の身分を伏せたいから』と考えるのは自然なことでございましょう。下級文官の装束で剣を帯びる官吏はそう多くはありません。ましてや昼日中の王宮で全身を暗器で固めなければならない文官などそうそういない」


 つまり貴方様は、文官の中でも武芸の腕が必要とされる役職の方で、常に周囲から命を狙われる立場で、かつ己の身分を伏せていたい方。


「そんな官吏は、御史台隠密監査官くらいしかないのでは?」


 仙女の言葉に、浚明はすぐには反応しなかった。


 淡々と重ねられる理論的な言葉を聞いている間に、浚明を脅かしていた得体のしれない恐怖は鳴りを潜めている。冷静に回り始めた頭で仙女の言葉を精査した浚明は、肯定も否定も返さずに問いを投げ返した。


「俺の探し物が『華玉問答集』であると分かった理由は?」

「いずれ御史台の方が探しに来るだろうと思って、あらかじめ用意しておりました」


 浚明が纏う空気を変えても、感情が見えない仙女の雰囲気は変わらなかった。


 ただ書架に向き合っていた体が再び浚明の方へ向けられ、玲瓏な視線と声が真っ直ぐに浚明と相対する。


「ここ最近、王宮を大きく騒がせた事件は三件ありました。いずれも既存の詩歌をもじった告発文が出回り、それが原因で起こった騒ぎだそうですね」

「その話、どこで聞いた?」

「ここは宮廷書庫室ですよ。耳を澄ませていれば、王宮の噂は巡り巡って必ずこの場所に届きます」


 仙女の言葉に、浚明はグッと言葉を押し殺した。


 ──不用意な発言をすれば、意図せず相手に情報を渡してしまいかねない。


 何をどこまで口に出し、何をどこまで口にすべきでないかと浚明は考えを巡らせる。だがその思考自体が無意味だとでも言うかのように仙女は歌うように言葉を続けた。


「戸部尚書加夏彌かかみ家の横領、吏部次郎氷師季ひしき家の科挙不正、門下省朱己迺すきの家の公文書偽造。それぞれに使われた詩歌は『東見とうけん金海きんう』『緑柳りょくりゅう笑花しょうか』『白紙はくし墨客ぼっかく』」

「……」

「……間違いはないようですね」


 表情も姿勢も何ひとつ変えたつもりはなかったのに、それでも仙女は浚明の中から答えをさらっていく。


 ──ここまで来ると、いっそ清々しいくらいだな。


 思わず浚明は恐怖を越えて感動してしまった。もしかしたら落ち着いたと思っていただけで、実際には恐怖が振り切れただけだったのかもしれないが。


「それぞれの詩歌は、無名とまでは言いませんが、そこまで名が知れたうたであるとも言えません。それらが纏めて収められた歌集は、現存する書では十三年前に編纂へんさんされた『華玉問答集』のみになります」


 ですから、御史台がそれを知れば、新たな手掛かりを求めてここへ探しに来るだろうということは予測がつきました、と仙女は実に簡単そうに口にした。


 ──しかしそれは、『華玉問答集』の中身を完璧に記憶していなければできない所業なのでは?


『華玉問答集』は、色を題に取った詩歌を集めた詩歌集だ。雅やかな内容ではあるが、とある高級官僚が半ば趣味で編纂した物であるらしく、あまり有名な詩歌集ではない。収録されている歌も有名な物とは言いがたく、唯一原本の編纂にあたって高名な書家が筆を取ったという部分が知られているだけだ。


 御史台でも王宮を騒がせた一連の事件の共通点がこの『華玉問答集』にあると気付くまでには時間がかかったし、浚明に至っては上役から指示を降されるまで歌集の存在さえ知らなかった。


 ──まさかこいつ、この書庫にある全ての本の内容を記憶しているんじゃ……


「さすがに全ては存じておりません。読んだことがある範囲の書物は記憶しているだけで。詩歌集は個人的な好みで詳しいというだけです」


 ──まぁ、さすがにこれだけ書物があれば、全て目を通すなど土台無理な話……


「書庫長は七割型、書庫大師はほぼ全て読破されて、全て内容を記憶していらっしゃいます」


 ──この量を!?


「それができる者でなければここのおさは務まりませんし、大師より『未榻みとう』の名乗りを許されることもありません」

「というか待て。今お前、俺と念話で会話が成立していなかったかっ!?」

「御冗談を。わたくしは、ただのヒトです。そんな所業はできません」


 大師とは違って、と仙女は事もなく言いのけた。


 ──いやいやいやいや……未榻書庫大師がヒトをやめてたという噂は耳にしたことがあるが……


 そこまで考えてからハタと浚明は我に返った。話題が本筋から外れつつある。


「とりあえず、お前が俺を御史台の人間であると判断した理由と、俺が切り出すよりも早く『華玉問答集』を差し出してきた理由は分かった」


 浚明は話を本筋に引き戻すと、仙女に向かって両手を重ねて軽く頭を下げた。


忌憚きたんのない見解、礼を言う」


 素っ気なく、だがきちんと届くように声を張って伝えてから顔を上げる。


 その瞬間、浚明は思わずキョトンと仙女を見つめてしまった。


「どうした、そんな顔して」

「え?」

「驚いただろ、今」


 変わることなく背筋を伸ばして立った仙女は、相変わらず感情が読めないおもてを浚明に向けている。だがその瞳がわずかに見開かれていたことを浚明は見逃さなかった。


「俺だって職務上、観察は得意だ」


 誤魔化されてやらないぞ、という意図を込めて瞳をすがめると、仙女はまたパシリと目をしばたたかせる。その一瞬で、仙女の顔に浮いていた微かな困惑は姿を消してしまった。


「……いえ。『女』である私に対して、そんなに素直に礼を述べるような性格をしていらっしゃるとは、思っておりませんでしたので」

「……お前、最初から思っていたが、愛想やら遠慮といったものは装備していないのか?」


 さらに続いた可愛げも何もない率直な言葉に、浚明は思わず苦虫を噛み締めたような表情を浮かべる。


 だが仙女が指摘した言葉は確かに正鵠を射ていた。浚明が目の前の仙女を『女』という理由で見下していたのは確かだし、今でも女がまつりごとの場である王宮にいることには納得していない。


 だが。


「教えてもらったら、『ありがとう』だろう。その部分には男であるか、女であるかは関係ない。俺の男女の区分は政に関して言っているのであって、礼儀作法に関してまでそれを適用すべきだとは考えていない」


 仙女は己の理屈で導き出した答えを忌憚なく浚明に教えてくれた。ならば己も同じだけの誠意で返すべきだろうと判断した浚明は、真っ直ぐに己の考えを口に出す。


 そんな浚明に、仙女はもう一度瞳を見開いた。だが今度は先程よりも早く、その驚きは漆黒の瞳の中に溶けて消える。


「……左様で」


 返ってきたのは酷く短い言葉だった。隠密監査官という職業柄、人の内心を見透かすことは得意である浚明だが、不思議なくらい目の前の仙女は感情が読み解けない。逆に隠すことにも長けているはずである浚明から、仙女は驚くくらい内心を掻っ攫っていってしまう。


 ──実は本当に覚なんじゃないだろうか。


「そうだ。忌憚なく、のついでに、参考までに聞かせてもらいたい」


 一瞬だけ蘇った恐怖にフルリと背筋を震わせながら、浚明はもう一度仙女に呼びかけた。


「この一連の事件、まだ続くと思うか?」


 浚明のその問いに、仙女はもう一度パシリと目をしばたたかせる。もしかしたらこれは、彼女が何か面食らった時の反応なのかもしれない。


 ひとつ、癖を見抜けたと、一瞬浚明の胸が躍る。


 だが返された言葉に、浮かれた気分はすぐに吹き飛ばされた。


「わたくしには関係のないことです」

「は?」

「わたくし達の役目は、この書庫と、書と、書に乗せられる思いを守ること。そこに王宮内の不正が暴かれることは、関係がございません」


 ゆえに、お答え致しません。


「……は? 分からないと、言いたくないだけ……」


 ではない、と浚明は仙女の瞳を見た瞬間に直感した。


 この薄闇の中でも深い漆黒だと分かる仙女の瞳には、どこまでも冷徹な光が宿っていた。恐らく未来を見透かす女神というのはこういう瞳をしているのだろうなと思わせるような瞳だった。


 こんな目をしている人間が、何も分かっていないはずがない。


 ──あるいは、こいつには……


 浚明が追っている事件の末の末……それこそ、犯人から動機から、事件が解決された後の処遇に至るまで、未来がえているのかもしれない。


「我が師たる未榻甜珪てんけい書庫大師は、我らにこうおっしゃりました。『己はただの司書であると心得よ』と。我らの知識も頭脳も、ただ司書としての勤めを果たすためだけに使えと」


 その瞳を真っ直ぐに浚明に据え、仙女は初めて口をきいた時から一切変わることがない淡々とした口調で言葉を続けた。


「故に、わたくしは貴方様の問いにはお答えすることができません」


 ──少なくとも嘘ではない、な。


 仙女の内心は相変わらず一切読むことはできない。だが紡がれる言葉には芯がある。一切を拒絶するその芯は、偽りの言の葉からは生まれないものだ。


 ──まぁ、宮廷書庫室の根底にその教えがあるというならば、日頃からの業務の在り方にも納得がいくしな。


「悪かった、気にしないでくれ。ちょっと試しに訊ねたくなっただけだ」


 特段、絶対に答えが欲しかった問いではない。むしろ御史台隠密監査官として、任務に関わることに気軽に助言を求めた浚明の方に否があるとも取れる発言だった。


 浚明は気を取り直すと、本命の問いを口にする。


「『華玉問答集』の編纂に関わった者達が今どこで何をしているかは知らないか? あと、この歌集が市政にどれだけ出回ったかは? これなら司書の領域だろう。承知なら教えてもらえないか?」

「それを知って、如何いかがなさいます」

「この歌集の関係者に話を聞いてみたい。あと、市政にまだ広くこの書が流通しているならば回収せよと、御史台から命を受けている」

「は?」


 一瞬、吹雪が吹き荒んだかと思った。


 ついでに、幻聴も聞いたような気がした。


「なぜ、歌集の回収など? 回収してどうなさると言うのです? まさか、禁書に指定なさるおつもりですか?」

「は? え?」


 終始感情を見せず、視線をらした端から空に溶けて消えていきそうなくらい存在が希薄であった仙女が、今は分かりやすいほどに存在を主張していた。というよりも、瞬時に展開された怒気のせいで輪郭がクッキリと周囲から浮いている。玲瓏な響きのまま殺意を纏って低くなった声は、今や剣の切っ先のような鋭さを帯びていた。


 ──できればこのドスが効いた声は幻聴であってほしかった……!


「答えなさい。市政から『華玉問答集』を回収して、御史台はどうするつもりなのですか?」


 先程までの静けさは幻覚か何かだったのかと訊ねたくなるような声で、仙女は真っ向から浚明を問い質す。どうやら浚明は『龍の逆鱗』ならぬ『仙女の逆鱗』に知らず知らずの間に触れていたらしい。


 ──にしても変貌が一瞬過ぎたんだが!? 一体何が何なんだっ!!


「ぎょ、御史台は、一連の件の模倣犯が現れることを懸念していて……」

「だからと言って、罪もない優れた書を狩ると? 馬鹿らしいにも程がある」


 この殺意を前にして守秘義務だ何だと言っていられる余裕はなかった。獣の爪が喉元に添えられた状態で理屈をこねくり回せる人間など、世の中には存在しない。


 ──答えることを拒否しても、適当な言葉でお茶を濁しても、俺はここで殺される……!


 数々の修羅場をくぐり抜けてきた浚明が、どこからどう見てもか弱い少女でしかない仙女を目の前にして、心底本気でそう思った。


「いつの世だって、お前達石頭の役立たずどもが貴重な書を駆逐していく。その書にどれだけの価値と思いが乗せられているかも理解できないくせに……っ!」


 ギッと浚明を睨み付けた仙女は、ツカツカツカと浚明との間合いを詰める。反射的に浚明の足が後ろへ下がるが、その程度で仙女の接近を交わせるはずもなかった。


「よろしい。ならばわたくしが、お前に協力してやりましょう」


 スルリと浚明の懐に滑り込んだ少女は、グイッと問答無用で浚明の襟を引き寄せた。どこからどう見ても少女の細腕であるはずなのに、浚明の体は面白いくらい簡単に仙女の方へ引き寄せられる。


「勘違いしないでくださいませ。わたくし達『未榻』は、世事の徒然つれづれになんぞ興味はございません。不正を働くことも自業自得。そんなやからをのさばらせた連中も自業自得。どう暴かれようが、それで世の中がどう乱れようが、全て自業自得でございましょう」


 距離が近くなった分、漆黒の瞳がすぐ目の前に見えた。つい先程まで感情の一切を見せなかった瞳には今、目を奪われるほど苛烈な光がきらめいている。


 ──まるで、天狼てんろうの星のような。


「しかしそこに巻き込まれる書に罪はございません。百、二百と時を渡る可能性を秘めた草舟にこそ、我ら『未榻』が動く意味はある」


 その輝きに浚明が目を奪われている間に、仙女の指は浚明の懐に突っ込まれていた。


 一切の躊躇いも遠慮もなく、まさしく『ズポッ』という擬音が似合う勢いの良さで突っ込まれた手は、容赦なく浚明の懐から『華玉問答集』を回収していく。浚明が我に返った時にはトトトッと軽やかに間合いが取られ、歌集は仙女に回収された後だった。


 ──毎度毎度、何であいつが懐に入り込むのを回避できないんだ……っ!?


「馬鹿げた事件の責任がこの書にないことを、わたくしが犯人を吊るし上げることで証明して御覧に入れましょう」


 苛烈に輝く天狼の星を前にして否を口にすることなど許されない。


 ──俺はもしかして、とんでもない人物を巻き込んで……いや、とんでもない人物に巻き込まれて? しまったのか……?


 どう反応すれば良いのか分からない事態を前に、浚明は顔を引きらせたまま硬直することしかできなかった。

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