宮廷書庫室の仙女司書-彼女は書庫で謎を読む-

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!

【華玉問答集】

 玻麗国はれいこく、宮廷書庫室。


 王宮内朝奥深く、とある棟を丸々ひとつ占拠したその書庫には、古今東西奇書凡書を問わず、あらゆる書物が収められているという。


 その『叡智の宝庫』と呼ばれる書庫には、ある頃からまことしやかにささやかれる噂があった。


 曰く、宮廷書庫室には、仙女が住むと。




  ※  ※  ※




 馬鹿馬鹿しい噂だと、めい浚明しゅんめいは書庫室の敷居をまたぐまで一笑にしていた。


『宮廷書庫室は王宮内朝の一角。宮廷書庫室司書は閑職の代名詞とはいえ立派な官吏。そんな場所に女も妖異のたぐいもいるはずがない』と、くだんの噂を耳にするたびに周囲に冷めた視線を向けてきた。


 しかし今、浚明は馬鹿にしてきた人々に内心で深々と土下座をしている。


「当書庫へ、何用でございましたか?」


 ……仙女が、いた。


 その事実に浚明は硬直したまま目の前の光景を凝視している。


 とある書を求めてウロウロと書架の間を彷徨さまよっていた浚明の前にどこからともなく現れた少女は、まさに『仙女』と呼ぶに相応しい存在だった。容姿を差しても、声を差しても、『玲瓏れいろう』という言葉はまさしく彼女のためにあると思わせるような少女だ。


 冷たさと鋭さを美しく同居させたかんばせ。書庫室の中が薄暗いせいでまとっている衣の色はよく分からないが、肌が雪のように白く、髪と瞳が新月の夜のように深く艶やかな漆黒であることは分かる。長く伸ばされた髪は頭の後ろでひとつに結わえ上げられていて、質素な襦裙じゅくんの上をなめらかに滑り落ちていた。


 そう、質素。


 彼女はそれこそ『仙女』という言葉に酷く似つかわしい容姿をしていながら、その言葉とは程遠い質素な身なりに身を包んでいる。


 その事実に行き着いた瞬間、浚明は我に返って声を上げていた。


「お、女がこんな場所で何をしているっ!!」


 思わず身構えて大きく後ろに下がる。その瞬間、少女の漆黒の瞳が軽くすがめられたのを浚明は見逃さなかった。


「ここは王宮だぞっ!? お前のような女がいて良い場所では……っ!!」

「わたくしは、当代書庫長未榻みとう瑶珪ようけいより留守居を任された者です。官位は得ておりませんが、先代書庫長未榻甜珪てんけいより、王宮内朝、および当書庫室への出入りを許されております」

「しっ、しかし……!!」


 未榻瑶珪は間違いなくこの書庫室の主の名で、浚明も何度か話をしたことがある。その実父で先代にあたる未榻甜珪と直接あいまみえたことはないが、ただの書類倉庫であった宮廷書庫室を『叡智の宝庫』と呼ばれる地位にまで押し上げたその辣腕らつわんと『宮廷書庫室中興の祖』の名声は浚明も知っていた。


 ──宮廷書庫室に関する処遇は、今でも未榻甜珪の治外法権。未榻瑶珪書庫長と未榻甜珪書庫大師だいしが決めたことなら、俺が口を出せることじゃない。


 というよりも、誰であっても宮廷書庫室のやり方に口を出せばただでは済まされない。宮廷の機密事項を全面的に把握している宮廷書庫室、そのおさ大長おおおさを敵に回すということは、すなわちだ。


 あの二人が目の前の少女へ書庫室への出入りを許し、留守を預けているというならば、浚明が口を出せることではない。


 ……ということは、頭の片隅では理解できているのだが。


「だ、だからと言って……!」


 それでも浚明には、後宮以外の王宮に女が仕官し、仕事をしているという事実が受け入れられなかった。


 科挙を受けられるのは男だけ。貴族の子女だって、いくら学問に秀でていても女は仕官できない。学問でも武芸でも、それを技となし武器となし戦うことができるのは男だけであるはずだ。


 だからまつりごとは男の手によって回される。そしていつだって世を乱すのは女だ。


 その『常識』の下に浚明は少女を糾弾する。だが少女から返されたのは嘆息たんそくと冷めた言葉だった。


がそんな偏見にまみれた言葉を発するとは、この国の未来も随分と暗い」


 頑是ない子供に我が儘をぶつけられた姉のような雰囲気で浚明の言葉を受け流した少女は、不意にフワリと浚明の間合いに踏み込んできた。


「書庫長と大師より、留守を預かる間、わたくしの気に入らない人間は容赦なく叩き出して良いと許可を得ています」


 その姿が見えていたはずなのに、浚明はなぜかその動きに反応することができなかった。固く身構えていたくせに動けなかった浚明の懐にソヨリと春風がそよぐように踏み込んだ少女は、浚明の上衣の合わせ目に何かを差し入れるとそのままスルリとすれ違うように間合いを外す。


貴方あなたがここへ来た理由は、その歌集でございましょう」


 その声が聞こえてから、浚明はようやくハッと我に返った。


 振り返りながら手の感触で襟元を探れば、いつの間にか懐に帳面が差し込まれている。どうやら先程、少女がすれ違いざまに衣の合わせ目に差し入れてきたのは、この帳面であるらしい。


「それを手土産に、さっさと御史台ぎょしだいへお戻りなさい。さもなくば、叩き出しますよ」


 浚明の視線の先で顔だけで浚明を振り返っていた少女は、最後にヒラリと手を翻すと書架の森の中に姿を消した。


 視界から少女の姿が消えてしまうと、書庫室は静寂のとばりに包まれる。先程まで確かにあの少女が傍にいたはずなのに、今はどれだけ探っても人の気配がない。


 その事実に恐怖に近い寒気を覚えながら、浚明は無意識の内にスルリと懐から帳面を取り出していた。


 そしてそのまま、呼吸も忘れて固まる。


「ど、どうして……」


 浚明の手の中にあったのは、まさに浚明が欲していた歌集だった。任された隠密調査のために必要としていた物だ。


 ──口に出していなかったはずなのに、なぜ俺がこれを探していると……


 思わず呆然と心の内で呟く。


 その瞬間、浚明はもっと根本的な事実に気付き、今度こそ全身からザッと血の気が引くのを感じた。


「何であいつには、俺がということが分かったんだ……!?」


 御史台隠密監査官、茗浚明。


 その身の上は、誰にも覚られてはならない。帯びた任務の内容を他人に知られるなんてもってのほかだ。


 浚明は秘匿せねばならない身の上を言い当てられただけではなく、決して口にしていないはずである目的を先回りされたことに、冷水の中に突き落とされたような寒気を抱えたまま薄暗い書庫に立ちつくした。

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