06.モーゼのごとく

 開かれた廊下の真ん中を、和絃は颯爽と歩く。そのまっすぐ延びた道は、彼にだけ与えられた特権だ。その自覚はあるのだろうか。


「ほら、あいつだよ。綿貫の小魚」

「釣り合わないよね、ああ見えて傲慢なやつなんじゃ」


 教室から屋上へと辿り着くまでの短い距離、すれ違う生徒たちの囁きとガラの悪い声が大輝の耳朶を打つ。明らかに太輝にだけぶつけた非難、攻撃、冷たい視線、それらから今日も逃げられないでいた。


「弁当なんか持たせてるよ、あいつ何様だよ」


 和絃がわざとらしく咳をした。と、不意に静寂が訪れる。

 生徒たちの態度、和絃の影響力、それらがより大輝を落ち込ませる。自分はこの開かれた道に足を踏み入れてはいけない。そう僻んでしまう。太輝は平坦な顔立ちでこれといった取り柄がない。話だってうまくないし、誰かの興味を誘うような個性は持ち合わせていない。そんな自分に和絃が懐いている光景はさぞ不気味なことだろう。和絃に好かれて嬉しいのに、どうしても心の底から喜べない。

 和絃の凜とした横顔に見とれる生徒たちが揃いもそろって、後ろを付いて歩く大輝の存在に眉をひそめる。何もそこまで忌み嫌わなくてもいいだろうに。和絃と知り合った中学時代からの日常茶飯事であったから、自分への攻撃を遮断する行為にも慣れていたはずだ。彼らの抱く侮辱行為が嫉妬からだけではなく、大輝に対しての嫌悪が潜んでいる。だからこそ周囲からの声を消すよう、大輝は心にふたをして感情を鈍化させた。それでも人の目は怖い。


 息が詰まりそうで、大輝は第一ボタンまで留めた襟元を掴んであおぐ。


「この天気だと屋上は暑いんだろうね、飲み物ある?」


 頭上から和絃の声が振ってくる。

 和絃は大輝への不平不満を聞こえていないかのように振る舞う。そんな親友の姿が頼もしいと共に、どこか一抹の不安があった。和絃は周囲の声を選別していた。その強さが時折、大輝には精神の見えざるゆがみを自覚させる。


「うん」


 太輝は手元の水筒を振る。顔を上げなかった。そんな勇気はなかった。だから和絃がどんな顔をしていたか知らない。どうせ楽しそうに笑っているのだろう。


「大丈夫? ダイちゃん」

「う、うん、暑いだけ」


 人に敵意を向けられることに慣れているなんて嘘だ。皆の視線がじりじりと刺さり、呼吸をして良いのかすら不安になる。まさに針のむしろ状態だ。


「そうだね暑いね」


 太輝のの手のひらに汗が滲んだ。それでも和絃は手を握り返してくる。極度に不安を抱くときの太輝は、季節問わず汗をかく。その癖を和絃は知っていた。直接打ち明けたわけでもない。それなのに和絃は大輝のことをよく観察していた。


「ふふ、顔が火照ってるよ、かわいい」


 額に滲む汗のせいだ。と、大輝は震える右手で顔を覆った。自分はどこもかわいくなんかない。


「からかうなよっ」


 つい顔を上げてしまう。


「ダイちゃんはかわいいよ」


 今にも泣き出しそうな和絃と視線が重なる。彼はもう一度ささやく。


「どうなっても、かわいいよ」


 頭上から和絃の声が落ちてくる。和絃の頭の中で大輝がどうなろうとも、褒めて貰えるのなら嬉しかった。ならば素直に喜べば良い。


「ダイちゃんは偉いよ」


 低い声がそこで途切れた。

 大輝はぱちぱちと目を瞬かせ、下唇をかみしめる。和絃の呟きが昨夜の夢と重なった。熱く火照る頬から熱が失せる。ただ切なかった。


 自分は和絃に恋をしている。


 肉欲が渦巻く愛の深みにはまっているわけではない。どこかで大輝は冷静でいられた。彼の親友でいられるだけで、それだけで幸運だったからだ。

 高校に上がれば、和絃の噂を知らない生徒が大半だ。親友の噂話をわざわざ吹聴する必要もない、そう大輝は胸を張る。その実、彼に嫌われないよう優等生を演じているに過ぎなかった。

 放課後は決まって大輝の家で遊ぶ。同じ時間を共有し、二人で顔を合わせて笑う。大輝にはそれだけで十分だった。たわいもない会話でも、和絃は穏やかに歩み寄ってくれる。和絃は変わらず大輝と仲良くしてくれている。

 それ以上、一体何を望めというのだ。彼が微笑んでくれるのなら、自分は何だって出来る。今はその気持ちだけを大切に育てたかった。和絃は必要以上に媚びを売らない。だから、頬を引きつらせた笑顔なんて、毎夜見る夢の中だけでもう見飽きていた。

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