第一章
03.オレンジの制汗剤
オレンジを蒸したような匂いが鼻の先に漂い、あっという間に蒸発していく。朝に噴いた制汗剤の香りがまだ残っていたのだ。妹の雪子からお兄ちゃんも使いなよと勧められたものだ。そんなに自分の体臭は酷いのか、と身だしなみに気をつけ始めたわけだ。
そんなうだるような高校二年の学期末、テストも終えてあと数日で夏休みが始まろうとしていた。クラスメイト全員の顔と名前も一致するようになった。それで友人が増えるかは別の話だ。
午前の授業が終わると同時に、沢村大輝は教科書を鞄にしまった。入れ替わって紺の弁当袋を取り出す。廊下で女子の媚びた声があがる。
今日もか、と太輝は教室の入り口を見た。
「ダイちゃん」
綿貫和絃が手を振ってくる。昼休憩が始まったばかりなのに早速のお出ましだ。
「はああ」
中学からの親友の登場に、太輝はわざとげんなりとした顔を作った。
「うわっ暑い」
クラスの皆が会話を中断する。どうやら和絃の挙動に全神経を集中しているのだろう。大体の男子は見劣らないように少し身構えていた。女子は目線を合わせないよう警戒の針を向ける子もいるし、デレッと媚を売る子もいて二極化している。
足を止めて惚けていた女子は我に返り、大輝に目配せする。その視線の強さの原因は和絃だった。
大輝の美意識の範疇から見ても、男の和絃は美しかった。美人と騒がれている女子や教師、果ては芸能人よりも、和絃の方がずっと魅力的だった。
「かわいそうに、このクラスだけ冷房をつけていないんだ」
今の時代これはアウトでしょう、と言いながら和絃は大股で教室に入ってきた。
そもそもの話、上位成績者のAクラスの和絃と、太輝のDクラスとでは扱われ方が違うのだ。僕たちは勉強が出来ません、という公開処刑から目を背けてきたのに、余計な劣等感を煽るその口を縫い付けたくなる。毎日Dクラスに来ている和絃は、絶対にわざと言っている。
それでも、クラスメイトたちは嫌な顔をしないで、和絃に見とれている。和絃も含みのある視線を一身に浴びて意に介さない。巧妙に人と机を除けながら、窓側の太輝の席にまで駆け寄ってくる。視界に入れないようにするも、背が百八十センチもある和絃を排除するのは到底無理な話だ。
「ダイちゃん」
和絃が舌っ足らずに言う。彼のサラサラとした髪が揺れる。窓越しから日が射し込み、その金色のヴェールに彼だけが覆われる。和絃は学校の外、大輝からも見ても悪目立ちしていた。同世代の男とは毛色の違う和絃は、妖艶な孔雀を思わせる。耳に掛かる長さの髪は色素が薄く、細い絹糸のようで触ると柔らかい。柔和な表情、彫りの深い切れ長の双眸は太輝を捉えるときにだけ鋭く光る。今だって太輝を見る目は頂点捕食者のようだ。
「俺の顔に何か付いてる? まだ昼飯食べてないよ、どうしたの」
和絃は、形の良い鼻梁の先に掛かる長い前髪を横に流す。と、ほっそりとした瓜実顔に中性的な色気を醸す。和絃に対してどれほどの美辞麗句で語っても、言葉の方が陳腐に思える。
和絃はクラスメイトとの遊びや、部活動の勧誘も断り続けていた。学内外でも目立つ存在の和絃に、生徒会が直々に誘いをかけるも、彼は興味が無いと一蹴していた。大輝以外の友人を作ろうとはしない。中学時代、和絃も大輝の旧友たちと一緒に騒いでいた。あの頃がマシに思えてくる。今の和絃はそれは殻にこもった蝶のように気高い存在に思えた。そんな和絃は大輝にだけ変わらない笑顔を見せる。
太輝はそれが好きだった。ただただ、神々しい。そんな和絃に、大輝は途方もないエロティシズムを抱いていた。和絃のその少年とは思えない、些か頭を悩ませる部類の色気を、太輝は間近で浴びていた。
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