とある魔女の訪れ
全知のバケモノが住まうかつての都は、滅ぼされる以前のままの美しさを保っていた。
全知のバケモノはこうして住処の時間を止めておくことで、自分が人間には触れ得ぬ者だと示しているのだ。
その都を上空から見下ろす女性がいた。箒に腰掛けて全身を覆う外套を纏い、そのフードは降ろされて長い黒髪が風に靡いている。
「さて、じゃあ行きましょうか」
するりと彼女の乗る箒が降下を始めて緩やかに滅びた都の真ん中へと移動する。
当時の最高の技術で造られた煉瓦と石材の街並みを彼女は見回して、大して興味もなさそうな顔で鼻を鳴らした。
彼女の視線は直ぐに街の最奥に聳え立つ壮大な城に固定される。
そして彼女が城へ向けて足を踏み出そうとしたその瞬間に。
ぶわりと風を引き千切って巨体が躍り出て、彼女の目の前に立ち塞がった。
「立ち去れ」
そのバケモノは低く濁った声で彼女を威す。
けれど彼女は猫のようににんまりと笑いを返すだけだ。
そんな態度はバケモノにとって酷く気に入らないもので、バケモノは身を屈めて恐ろしい牙を見せつけるように彼女の鼻先に三つの目を持つ顔を近付けた。
バケモノの生温い息が彼女の顔に当たる。
「オマエもオレを手に入れようと言うのか」
「ん、そうね。そういうことになるのかしらね」
バケモノは予想通りに答えた彼女に目を怒らせて歯を噛みしめた。
次の瞬間、バケモノの牙が甲高い音を立てた。
一口で彼女の胴体を二つに食い千切る。そのつもりだった。
けれどバケモノの口の中に馴染みある鉄の味は広がらず、牙に柔らかい肉の感触もない。
彼女は箒に乗って空へと逃れて、全知のバケモノを悠々と見下ろしていた。
「魔女か」
「ええ、そうよ」
バケモノの額の眼が彼女を見上げる。
それの何が楽しいのか、魔女はくすくすと喉を鳴らす。
バケモノの周囲に炎の槍が十二本現れた。詠唱も動作も無しで発動された魔術の槍が魔女に向かって放たれる。
魔女の処刑法と言えば火炙りだ。炎は魔女に対して強力な攻撃手段であり。
「真似していいかしら?」
魔女にとっても炎は扱い勝手のいい現象だ。
魔女もまた自分の周りに二十四本の炎の矢を浮かべ、バケモノの放つ槍を迎撃する。
爆炎と煙で二人の視界は埋もれるが、全知のバケモノは背中の翼を広げてたった一度の羽ばたきだけで吹き消した。
力強く飛翔するバケモノが繰り出した爪を、魔女はするりと箒を滑らせて避ける。
バケモノが咆哮する。一流の戦士であっても身が竦む衝撃を心身にぶつける咆哮だ。
けれど魔女は涼しい顔でそれを聞き流し風を編んで鎖と成し、バケモノを縛り上げようとする。
バケモノは自分に向けられた魔術を睨むだけで解いた。
その仕返しにバケモノは空を灼けた雲で覆った。
火の雨が降り注ぎ魔女を襲う。
魔女は箒にしがみ付いて急降下して都の建物の陰へと避難した。
通り抜けたすぐ後ろに降った火に背中を炙られながら、魔女は時間が止まって焼かれることも崩れることもない屋根や壁を盾にして火の雨の直撃を避ける。
火の雨が止み、魔女が路地を抜ける。その寸前に。
バケモノが路地の出口に躍り出て袈裟懸けに爪を振るった。
しかし全知のバケモノの腕には中身のない外套が絡みつくだけだった。
バケモノは流れるように背後に振り返り、自分の影から抜け出る魔女に向けて拳を振るう。
イブニングドレス姿の魔女は箒を盾にするも呆気なくバケモノの膂力で吹き飛ばされて、建物にぶつかり壁を三枚もぶち抜いた。
「オレに視えないものもなければ、知らないこともない。何をしても無駄だ」
バケモノの本気の力を受けて生きている者はいない。
全知のバケモノはそう考えてその場を動かず、冥途の土産代わりに自分に挑んだことが間違いだと死んだであろう魔女に告げた。
「そうでもないと思うけど」
そしてバケモノは有り得ない者の声を聞いて、空気を切る音を立てて首を巡らせた。
瓦礫を振り払って落としながら小柄な女性が全知のバケモノに向かって優雅に歩いて来る。
「貴方が知らない『言葉』もあったりするのよ」
魔女は乱れた髪を手櫛で梳いて赤い唇をにんまりと持ち上げる。
バケモノの額の目がこれ以上ないくらいに見開かれる。
二人の間に雲の切れ目から黄金の光が差し込めた。魔女は誇らしく石畳に足音を響かせてその光の中に立つ。
「例えば、この光をなんて言うのか知っている?」
バケモノは眉を顰めた。そして憮然として答える。
「光は光だ」
「光にだって様々な名前があるものよ。雨をそれぞれの名前で呼ぶように」
魔女は歌うようにバケモノの素気無い言葉を窘める。
魔女は雲の切れ目を指差し、その光を辿るように自分の胸元に指し示した。
「これは、
雲の隙間を通る光は金色に色づいている。その色に魔女の白い肌も
「どう? この言葉を知っていたかしら」
魔女の問い掛けに全知のバケモノは押し黙る。
全てを知ると言われた彼が知らないとは素直に認められなかった。
この現象は知っている。けれど『差し影』という言葉で言い表すとは知らなかった。
魔女はそんな全知のバケモノの態度に満足そうに微笑んだ。
「わたしは貴方の知らない言葉を知っている。世界に確かに存在しながら
魔女はそういって髪を掻き上げて形の美しい耳をバケモノに魅せた。
全知のバケモノの三つの目は揃って魔女の魅せた耳を注視する。
「良ければ、貴方の知らないこと、教えてあげましょうか。誰かに教わるなんて、今まで知らなかったでしょう?」
そう言って、未だ誰も知らない言葉を繰る未知の魔女は、全知のバケモノに手を差し伸べた。
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