溺死

ヒソ男

第1話


「俺を探して。」

「それから、ずっと選び続けて。色の中から。お願い、お願い、お願い。」


氾濫する。

彼が何を言っているのか理解できない。余りにも広がりすぎているから。

変声を迎えてそこまで経っていない声が、青緑の色を持って広がってゆく。

熱心に話しかけてくる彼に対して、私は、あー、うん。と上の空で返事を返す。

澄むような青緑が心地よかったので、深い思考を捨ててしまいたかった。ライトの激しい黒白でなく、穏やかな寒色だけに意識を集中させたかった。

独特の柔らかさを持ったそれが、浅い海に波打つような波紋を描いて私の世界を新しくする。

気がつけば唇が合わさっていた。私は青年の肩を食い込むほどに強く掴み、顔を傾けた。

白が飛ぶような陽だまりの中、森林の美しい湖畔で、彼と海水浴をする想像をする。人も生物も居ない切り取られた静寂と、風呂の栓を抜いた時のような台風の渦を巻く轟音との間に水音が弾けて、2人は幸せそうに笑っていた。

快感を分かちあった。

「泳いで。」

言わされたように口が動く。


ピカリと視界が明るくなる。


たぶん、青緑の目が私を見ていた。



私が初めて、ドラッグを使用したのは、五月病。若葉から逃げるようにして、小さく、汚い音楽の箱にいったときのこと。10つ年下の青年がきっかけであった。


私は、御歳で26になるさしたる特徴のない会社員であった。昔に美容部員をしていた時期もあり見てくれは小綺麗であるが、だからといって大衆の中に投じられた際に目立つかと言ったらそんな事は無い。

自身が人の群れに埋もれていく感覚を抱きつつも、大人になった。


唯一付記するのではれば元より私はレズビアンである。

男女共に交際経験があり、時代の流れのお陰かジェンダーについて悩んだことはさほど無い。可愛らしい子が好きで、抱かれるよりかは抱きたい。所謂タチ寄りの思想であった。しかし男性になりたいという願望を持っている訳では無く、外見も一般的な女性と何ら変わりは無い。

独特のコミュニティに属するなどということも経験に在らず。


当時二つ下の彼女が居た。大学生時代に居酒屋のアルバイト先で知り合い、かれこれ6年間付き合っている。

身長は小柄。ミルクティーに染めた髪色が柔らかな毛質に似合っており、あざとくも、優しげな印象が可愛らしかった。

リビングのソファーで配信されている映画を2人で見る時、必ず私の肩に首を預けてくるところが好きだった。

彼女はレズビアンではなかったが、物珍しさを抱いたのか好奇心を持ったのか思いを告げた私に、返事としてキスをした。交際はその日から始まる。

彼女の事を心の底より愛していたが、結婚願望は無かった。そのような手続きをしなくとも共にいれればそれでいいと思っていた。

けれど、彼女は私の真意を理解はしなかった。


6周年が過ぎた1週間ほど後の夜のこと。

いつも通り私は仕事を定時に終え、同居しているマンションに帰宅した。

いつもと違うところと言えば片手にパンフレットを持っている。

彼女が湖畔に行きたいといったので、美しいスポットを業務の間に見繕ってはそのパンフレットを会社の備え付けのコピー機で印刷して持ってきたのだ。

予定は今週末に立った。日にちとしては2日後である。こんな直近に立ってもノリよくイベントを楽しめる性格が、お互い合っていた。

だから久しぶりの遠出を楽しみに、何てプログラムを説明してやろうかと玄関の扉を開けた。

「ただいまー、ねえ、場所決まったよ」

返事がなかった。不思議に思いつつも荷物を置こうとする。

玄関に男物の靴を見た。

「友達呼ぶんなら連絡してよ、酒買ってきたのに~」

私は呑気にも男友達を上げているのだと考えて、初対面かもしれないその男に良い印象を与えるためにおちゃらけた口調で声をかけた。

「ああ。」

履いていたスニーカーの紐を解いていると、返事の代わりに短い感嘆のような音が聞こえた。

彼女の声だ。

「ああ。ああ。ああ。ああ。ああ。ああ。ああ。あああ。」

カバンをその場に落として、顔元に手をやる。

なぜか目頭が熱くなった。これは、彼女の情事の声だ。


顔を熱くしたままにリビングと廊下を仕切るドアを勢いよく開けた。

5年前、私たちが二人暮しを初めて最初に売店で選んだ革張りのソファの上で、男と女がまぐわっている。


涙が止まらない。

男は焦ったようにこちらを振り向いたが、彼女は私の存在を認識できていないかのように、艶やかな唇を震わせ続けていた。


「あっ、ああ。ああ。あああ。ああ。」

一生蝸牛にこびりついて離れない。

愛していたのだ。

私はこの連続音を、現在も毎日の眠り落ちる前に聞く。

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