帰国子女の澪子さんは中国語がお上手

まひるね

第1話 澪子との出会い

 遠藤澪子と同じ中学に入ったのは、偶然ではなかった。小学校も同じなのだからそのまま持ち上がるに決まっている。中学ん頃は一度も、同じクラスになることはなく、三年間が過ぎた。そして、迎えた高校の入学式。

 

 なんと澪子は、入学式に来ていた。

 うちは中国語学科のある珍しい高校で、中国からの留学生もたくさんいる国際色のある高校だった。

 入学と同時に、IDという専用の端末を受け取り中国語の勉強に勤しむ。


 早速授業が始まって、まず先生は澪子を当てた。

「中国王朝の支配下から自立し、11世紀初めベトナム北部に建てられた最初の王朝は何か?」

「李朝です」

「よくわかったな。相当勉強してるね」


 山中先生は彼女を褒めた。

 彼女は頬を染めて「そうですね」とボソッと呟いた。

 多分、この学科で最も中国語に詳しいのが澪子で、成績もダントツでいい。なぜなら帰国子女だからだ。

「ところで、先生、中国語についても教えて欲しいのですがいいですか?」

「何言ってるんだ。君は中国国籍だろう?」

「そうですがもう何年も中国に帰っていません。そろそろ先生の方が詳しいかもしれません」

 やや険しい表情だ。

「そんなことはないと思うぞ。私なんて中国に行ったことがない。一度上海に行ってみたいよ」

「それは奇遇ですね。私は上海出身です。小籠包がおすすめですよ。ほっぺたが蕩け落ちます」

「検討しておくよ。では着席してくれ」

 言われると、彼女は椅子に座った。

 しかしなぜか浮かない顔である。理由は聞いてみないことにはわから

 ないけれど、多分あれだ。あれといえば……。


「澪子、それ取ってくれ」

「いやだ」

「なんで?別にいいでしょ、そこにあるんだから」

「わかったわよ、はい」


 俺が言うと渋々それを手に取って渡してくれた。なにを渡してくれたかといえば中日辞典である。

 当然ながら、俺たちの高校には図書館があり、会員は自然とそこに集まるようになっている。

 これまたなんの会員かと言うと、図書委員のである。


 今日も澪子、そして谷口奈緒が来ていた。

 他にもまだ委員がいるのだが、今来ているのはこの三人だけで、最近は他に委員のメンバーが来ていることは少ない。

 なんの委員かといえばそれは図書委員なのだが、はっきり言ってあまり機能していない。


 なぜなら、澪子の独裁がまかり通っているからだ

 早速俺はページを開いて目当ての語句を探す。

 指でなぞって……見つけた。


「ねえ、澪子さん、『螃蟹』の意味ってわかる?」

「そんなの簡単よ。ピンインって要するにカニでしょ?」

「へっへっへ。実は他にも意味があるんだ。なんだと思う?」


 そこで澪子は押し黙った。

 少し間があって、口を開く。


「そんなのあるわけないでしょ。ピンインよね?」

「たしカニね。それが答えだよ」

「は?何言ってんの?気持ち悪い」

「おいおい、それは言い過ぎだろ。ちょっと上手いこと言い過ぎたかな……」


 澪子はそっぽを向いて読書に戻った。


 とはいえ、次の日の朝はやってくる。


 澪子は別のクラスだったが、中国語の勉強に役立つIDという端末は共通で持っていたからいつでも連絡を取ることはできた。

 けれど、下手な文章を打つとお怒りのメールが返ってくる。その辺りは気をつけなくてはいけない。

 とはいえ中国語は詳しくないので、今度は


「今日の午後空いていますか?」


 送信と。

 すると秒で返信が返ってきた。


「空いてません」


 それはそうだな。特に用もなかったことだし、このまま切り上げようかと思った矢先。


「我明天可以去俱樂部房間」


と返ってきた。

 なんと翻訳したものかとIDを起動する。IDは「明日も部室に行ける」と返してきた。


「なんだそれだったらそう言えばいいのに」


と日本語で返す。

 それっきり返信は途絶えた。


 別にそれでも全然構わないのだが、なんとなく気になる一件ではあった。

 俺はそれ以上メールを送るのをやめて、布団に入った。

 再びメール欄をチェックするも特に異常はない。

 IDという端末、時々誤作動を起こすことがあり、いつもそれに悩まされている。

『你今天怎麼樣?』

 なにやら澪子から再びメールが送られてきた。

 翻訳するのも面倒なので明日にしよう。

 次の日俺は普通に図書館に行った。

 するといつもいるはずの澪子はどこにもおらず、谷口真昼が一人で本を読んでいた。

 なんとなく声がかけづらかったので、前の席に黙って座る。


「昨日、澪子先輩のメール無視したでしょ?」

「無視と言っていいのかわからないけれど、とりあえず返信は保留した」

「そういうのがダメなんだ、同志よ。今朝から何やら怒っていたぞ。澪子さん」

「お前澪子に詳しいな。なんか気持ち悪いぞ」

「そこまでいうか?お前だって澪子目当てでここ来てるくせに」

「そんなわけあるかよ、幼馴染だぞ?幼馴染は絶対にヒロインにはなれないと相場が決まっているんだ」


 そこで一旦会話は途切れて、会員室から出た。 

 なぜ図書館とは別に会員室が設けられているかと言えば、中国語専用のコーナーがあるからだ。

 別に俺たちは中国語を学びに図書館に来ているわけではないので、大体は会員室に閉じこもる。

 澪子は例外でむしろ中国語を教える側に回っているため、他の生徒からは親しまれている。なんとなくIDを見てみる。

 澪子から何かしらの連絡が入るのは午後なので午前中は放置していたが、そういうわけにもいかなくなった。


「最近マスクつけてないけどどうしたの?」

「いや、別にIDに話させればいいからという理由でつけているわけではないよ」

「なんだそういうことだったのね。あなたがマスクをつけていない理由がわかった」

「いや絶対わかってないでしょ……」


 一旦ここで会話は途切れたが、中国語を挟まなかったのでよかった。

『我知道』

 おっとここで中国語来ました。俺は少し勉強したからわかるのだが、これは簡体だ。

 というか、澪子の打ってってくる中国はみな簡体なのでまだ文字化けとかが起こらない。

 大体普通の携帯で簡体を打ってくるなど、ほとんど暴力に近く、文字化けを解読しようものならそれはもはや拷問だ。

 というわけで、俺も極力中国語で返すように努力する。

『傻子傻子!』

 意味は「バーカバーカ」である。

 たまには一矢報いてやりたいのだ。それっきり返事は来なくなった。

 流石に心配になったので、再び何か送ろうとする。だが肝心の中国語が浮かんでこないので、まずは授業で習った文章を書いてみた。

『你吃没?』

 すると早速何返ってきて、ページを開いてみる。

「その文章間違ってるわよ。了が抜けてる」


 なるほど確かに間違えているかもしれない。

 けれど、授業に対して不真面目な僕は訂正しようとせず立て続けに送ってみる。と言いたいところだが、それほどボキャブラリーがあるわけではないので、言い淀んだ。

 中国語の翻訳機能があるIDは掌サイズなので持ち運びには不自由しないが、うちの学校だけが使っている端末なので外で開くと奇異の目で見られる。

 ところが、澪子は違ってむしろアイデンティティとして押し出していくべきだとさえ言っている。

 そうこうしているうちに再びメールが届いた。

『我想吃螃蟹』

 カニというワードが入っているので、内容はきっとカニが食べたいといったところだろうが、やっぱり無視を決める。

 それでいいのかという自問は多分意味がない。

 なぜなら続けて澪子は送ってくるからだ。

『不要忽視』

 内容はわざわざ考えなくともわかる。無視しないでだ。

 中国語だからわかりにくいだけで澪子自身はわかりやすい性格をしている。

「中国語の勉強がしたいわけではないので、日本語でお願いします」

 そう返事をすると、パタリとメールは止まった。

 中国語学科では澪子は頂点に君臨しており、それは俺にとって大きな障壁だ。

 けれど、幼馴染であるが故になぜか話すことは多い。

 嫉妬されることはないにしろ、多少の優越感がないと言えば嘘だ。

 なぜなら澪子のIDは少しポンコツなのだ。

 

 

 IDには個体差があり、俺のIDはそれほど誤動作を起こすことはない。幸か不幸か、澪子から送られてくるメールには嘘が混じっていることがある。

 本人は気が付いてはいないけれど。おそらく、さっき送られてきたメールには間違いはない。

 けれどあえて突っ込まないでおこうと思う。俺は菩薩ではないけれど人のミスにつっこんだりしない。

 それもIDのミスであるならば尚更……。

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