老いてなお

牧瀬実那

病院へ行こう!

 如何なる偉人でも寄る年波には勝てない。

 どんなものでもいずれ老いさらばえる。

 それが自然の摂理だと頭では理解していても、自分だけは違う、と根拠もなく漠然と考えてしまうものだ。

 自分はまだ若い。

 病院の待合室で順番を待ちながら、心の中でそんな虚勢を張っていた。


 きっかけはこうである。

 今朝、いつも通りに朝食を食べているとき、ちょっと水を飲みそこなって噎せた。

 ただそれだけで何ともない、と自分は気にも留めなかったが、同居人で愛弟子の凜々子は違った。

「ねぇ師匠さ。最近ちょっと噎せること多くない?」

 いつも明るくお調子者な彼女が眉根をひそめ、真っすぐこちらを見ながら深刻な声音で言うので、面食らってしまった。

 ただ心配しすぎである。

「そんなこたぁ無いだろ。気のせいだ気のせい」

 雑に首を振り、否定した。


 自分でもはっきりと覚えていないくらい長く生きているが、これまで病院にかかるほどの大病を患ったことはない。

 自分の体は自分が一番よくわかってるし、現に今もこれまでと変わりなくピンピンしている。

 凜々子はマイペースなイマドキの女子高生だが、意外とゲームやらマンガやらをよく見ているし、影響も受けている。

 つい最近も、この医療マンガが面白いのだと目を輝かせながら報告してきたばかりだ。

 大方、それに影響されたのだろう。

「いくらリアリティがあってもマンガはマンガだ。俺が心配ないって言ったら大丈夫なんだよ」

 食い下がる凜々子を更に言いくるめる。

 これで大丈夫だろう。と、高を括って居たら「いえ、一度病院に行った方がいいですよ」と鈴のような声が飛んできた。

 家内である。

「文太さん、ここ最近健康診断とか、さぼっているでしょう?」

 流石は長年生活を共にしているだけあって、痛い所を的確に突いてくる。思わず、ぐう、と唸ってしまった。

「え、師匠ってば病院さぼってるの?」

「そうなのよ。いくら健康に自信がある、って言っても私達ももうかなりの歳なんだから、行った方がいいのにねぇ。困ったわ」

「ちょっと師匠! 玉ちゃん困らせるのはあたし許さないからね! 決めた、今日これから行こう」

「はぁ!?」

「いいわね! 今日は生徒も少ない日ですし、私ひとりでもなんとかなりますから、りりちゃん、連れて行って頂戴?」

「合点しょうち! 任せて~!」

 女ふたりは盛り上がり、自分の行かなくていいという主張をまるきり無視して勝手に決めてしまった。

 悪あがきも虚しく、今に至る。

 

 大体病院というものは好かない。

 ヘンな臭いはするし、患者は揃いも揃って怯えた顔をしていて辛気臭い。

 それに気心の知れないヤツに自分の体を預けるなどまっぴらご免だ。


 憮然としていたら顔に出ていたのだろう。

 凜々子が呆れたとため息をつく。

「いい、師匠? たかが誤嚥、されど誤嚥なんだよ? 下手したらそこから肺炎に……なんてこともあるんだから!」

「余計なお世話だって言ってるだろ」

「だーめ! 私も玉ちゃんも師匠にはまだまだ元気で長生きしてほしいんだから! ちゃんと受けるの」

 お玉のことを出されると何も言えなくなる。

 自分に子を作る能力が無いことを理解した上でなお傍に居てくれる女である。

 家内であることは勿論、既に他の家族を失った彼女にとって、自分の居場所が唯一なのだ。そんな娘を、またひとりにしてはいけない。

 唇を嚙みしめながら黙り込むと、凜々子はやれやれと一瞥してスマホに目を移した。


 そのうち名前が呼ばれたので診察室に入った。

 凜々子が今朝あったことを説明すると、あっという間にやれ触診だのやれX線検査だの連れまわされる。

 大人しくしていたが、やはり気分が良いモノでもない。

「今のところ問題はなさそうですね。やはり歳が歳なので全体的に筋肉が衰えているようです。特に喉の筋肉は弱まると飲み込む力が弱くなってしまいますからね」

「なにぃ? 自分はまだまだ現役だが!?」

 抗議したものの医者はあっさりとスルーして続ける。

「柔らかくて少しとろみがある食べ物だと負担が減るので検討してください。あとはそうですね、昔に比べると運動量も減っていることでしょう。あまり無理をさせてはいけませんが、まだ体力があるようならしっかりと運動していきましょう」

 こういう器具やトレーニングがオススメですよ、と医者が出してきたものに、凜々子は興味津々になっている。

「さすがにそういうのはいらんだろ」

 と、文句をつけると、「そうだね」と意外にあっさり切り上げた。

 こちらの主張をまるきり無視するわけでもないのが何とも居心地が悪い。まるで自分がワガママを言っているようではないか。


 診察室を出た後、ぶつぶつと流した文句は華麗にスルーし、凜々子は晴れやかな顔になった。

「なんでもなくて良かった~~~!」

「だから大丈夫だって言っただろ」

「んでも師匠、全体的に筋肉落ちてるって言われてたじゃん。最近ライターの仕事で座りっぱなしなことも多いし」

「それは……まあそうだが……」

「道場もあるけどさ、お散歩もしようよ! もう春だから桜の開花も近いし、あったかいからきっと気持ちいいよ」

 言われてみれば確かに、久しく散歩はしていない。

 仕事で根を詰めすぎただろうか。

 家内もきっとそろそろ共に出歩きたいに違いない。

「玉ちゃんとデート、いいねぇ~ふふふ!」

 見透かしたように笑う凜々子はものすごく上機嫌である。

 全く、心配したりお節介を焼いたり、忙しい弟子だ。

「なら、さっそく家まで競争でもするかね?」

 そう尋ねると、凜々子は目を輝かせた。

「いいよ~! たまにはそういう遊びも楽しいもんっ」

 でも今更師匠に負けるなんてありえないもんね~と余裕ぶってる凜々子に、ニヤリと笑いかける。

「これでも、か?」

 どろんと巨大な猫に姿を変えると、面白いくらい凜々子は慌てた。

「ちょっと師匠! 巨大化は卑怯だって!」

「さぁてねぇ! さ、追い付いてみな!」

 言うや否や、だっと駆けだす。も~!という凜々子の文句はあっという間に後ろになり、風が心地よい。


 ああ、確かにこの姿で駆けるのは久しぶりだ!

 全身の筋肉がバネのように躍動しているのがわかる。目を細め、歓喜に震えた。

 猫又になってから幾百年。

 衰えはあっても、何しろあやかしであれば自分はまだまだ元気であることを実感する。

 更に鍛えればきっとより長く生きられるだろう。そうすれば凜々子のこの先も拝めるかもしれない。

 「まだまだこれからよ!」

 街を、屋根の上を飛び跳ねながら、叫ぶ。

 元気であることの証明に、たまには医者にもかかろう。

 そうしてこの先もずっと楽しく愉快に過ごすのだ!

 ひとまずは美しい家内の笑顔から、と私はご機嫌な足取りで家へと駆けるのだった。

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老いてなお 牧瀬実那 @sorazono

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