恐るべき未来

阿々 亜

恐るべき未来

 2023年、全ての癌細胞に発現するACC-23受容体が発見された。

 このACC-23受容体は癌細胞の増殖過程に深くかかわっており、ACC-23受容体を阻害することで、癌細胞の増殖を抑制し、最終的に死滅させることができるとわかった。

 その10年後、抗ACC-23受容体阻害薬(略称:ACCR阻害薬)が実用化された。

 ACC-23受容体はあらゆる癌細胞に発現しているにも関わらず、健常細胞には発現していないため、ACCR阻害薬は全ての癌に使用でき、なおかつ副作用がほとんどなかった。

 ACCR阻害薬の効果は目覚ましく、人類は癌を克服した。

 だが、その数十年後、人類は癌よりも恐ろしい問題を抱えていた............




 2049年、東亜医科大学医学部校舎。

 時刻は13時過ぎ、医学部長の松重裕次まつしげ ゆうじは午前の業務を終え自室に戻ってきた。

 部屋の壁に設置された極薄の液晶テレビのスイッチを入れ、ニュース番組にチャンネルを合わせ、持参の弁当を食べ始める。

 ニュースでは中国の僻地で流行しているウイルスについて報じていた。


(なんか、数十年前を思い出すなー........)


 2020年、中国武漢市から発生したcovid-19が急速に全世界に波及した。

 当時、若手の呼吸器内科医だった松重も最前線で大変な思いをした。


(もう、あんな目には遭いたくないなー........)


 松重がそんなことを考えていると、出入り口からノックの音がして、秘書が入ってきた。


「医学部長、失礼します。アポイントのお客様がいらっしゃっています」

「あれ、今日、なんか入ってた?」

「医学部の5年生が研究発表のために医学部長にインタビューを行いたいと」

「あー、あれかー。わかった、ちょっと待ってもらって」


 松重は弁当の残りを急ぎ気味にかきこんだあと、来客の医学部生を招き入れた。


「失礼します。医学科5年の岡田健一おかだ けんいちと申します。本日は、お忙しいところをお時間を頂き本当にありがとうございます」


 岡田はそう言って、深く頭を下げた。


「あー、そんなに堅苦しくしなくていいいよ」


 松重はそう言いながら来客用のソファの方を示し、二人はソファに座った。


「えーと、たしか.......ACCR阻害薬の研究過程のことを聞きたいんだっけ?」

「はい、自分は今、臨床腫瘍学の自主研究発表の準備をしておりまして、本学の学生としてはやはりACCR阻害薬のことについて発表したいと考えたのです」


 ACC-23受容体は数十年前、この東亜医科大学のある研究室で発見されたものであり、本学の出身者は皆この功績を誇りに思っていた。


「となれば、ACCR阻害薬開発の立役者である松重医学部長にお話を伺わないわけにはいきません」


 松重は臨床を数年間やったあと研究分野に移っており、その最初にかかわったのがACCR阻害薬の研究であった。

 様々な運やめぐり合わせがあり、実用間近の頃には松重はその中心的人物になっていた。

 松重は研究者肌で出世には無欲な男だったが、ACCR阻害薬の開発は世界の医療を劇的に変化させてしまうほどの巨大な功績であり、本人が望まないにも関わらずあれよあれよ医学部長まで祭り上げられてしまったのだ。


「いつもいろんなところで言っているけれど、そういうめぐり合わせだったというだけのことで、私自身はそれほど大したことをしていない。なにより、立役者というのであれば、それは東先生だ.......」


 松重はそう言って、窓の方に目をやった。

 その窓からは、医学部校舎の隣に立つ附属病院が見えた。


「まあ、聞きたいのはそういうことじゃないよな........失礼、そろそろ本題に入ろう。なんでも聞いてくれ」


 その後、数十分にわたって、ACCR阻害薬の研究開発過程について質疑応答が続いた。


 一通りのことを聞き終わったあと、岡田は満足げに記録を取っていたノートを閉じた。


「ありがとうございます。これで素晴らしい発表ができます」

「お役に立てたのであれば良かったよ」

「最後にもう一つだけよろしいですか?」

「何かな?」

「その...........東先生のことです.......」


 岡田は少し言いづらそうにその名を口にした。


「ベッドサイド・ラーニング(病棟実習)で噂を耳にしたんですが、東先生、うちの病院のVIPルームに入院しておられるんですよね?」


 その内容を聞いて、松重の表情は一気に険しくなった。


「いくらお互い本学の関係者同士とはいえ、患者の情報だ。そうだろうとそうでなかろうと言えるわけがないだろう。それに、そんなことを聞いてどうする?」

「会わせて頂きたいのです。東先生に..........」

「私の話では情報不足だったかな?」


 松重は怒りを目ににじませながら岡田を睨みつけた。


「医学部長がご自身で最初におしゃったじゃないですか? “私自身はそれほど大したことをしていない。なにより、立役者というのであれば、それは東先生だ”と」


 岡田は松重に負けず、強い意志のこもった目で睨み返した。


「若いのに口が立つね。私なんかよりよほど医学部長に向いているよ」


 松重はそんな皮肉を言ったあと、席を立って出入り口のところまで行き、扉を開けた。


「君のことは記憶しないでおくよ。年度末にうっかり君の進級に口を出さないように.................さ、お引き取りを。私の気が変わらないうちにね」


「医学部長、お願いします!!どうしても東先生にお会いしたいんです!!」


 岡田は立ち上がり、深く頭を下げた。


「せめて、東先生に面会の御伺いを立てて頂けませんでしょうか!? もし、東先生が駄目だとおっしゃるのであれば、私も引き下がります!!」


 そう言ったあと、岡田は微動だにしなかった。

 松重はため息をついたあと携帯を取り出した。


「東先生が駄目だと言ったら諦めるんだよ」


 松重は携帯の画面を操作し、どこかしらに電話をかけた。


「医学部長の松重です。お忙しいところ申し訳ないんですけど、この電話を東先生のところへ。えー、そうです。すみません」


 数分後、二言三言話したあと、松重は電話切った。


「お会いになるそうだ。ただし、君が何か失礼を働かないよう私も同伴させてもらうよ」

「はい、ありがとうございます!!」


 二人は、医学部長室を出て、隣の附属病院に向かった。




 東豊あずま ゆたか、元東亜医科大学分子生物学教室の教授であり、ACC-23受容体の存在を提唱・証明した人物である。

 松重はかつて東の指揮するACCR阻害薬の研究チームの一員であり、いわば弟子の一人と言っていい立場である。


 東の病室がある階に向かうエレベーターの中で、岡田は松重に東のことを聞いた。


「東先生って、どんな方なんですか?」

「事前に十分調べているだろう」

「いえ、文献にあるようなことじゃなくて、人柄とか.........」


 そこで目的の階に着き、二人はエレベーターを降りた。


「素晴らしい方だ。医学研究で人類を幸せにできると固く信じておられた。結局、東先生の研究は実を結ばなかったがね........」

「え、だって、ACCR阻害薬は実用化されたじゃないですか?」

「あー、言葉足らずだったな。確かにACCR阻害薬は実用化されたが、実は東先生は........」


 そこで、目的の東豊の病室の入り口が見えてきたので、松重はそこで言葉を止めた。


「まあ、もし君の聞きたいことに含まれていれば、東先生御自身で語られるだろう」


 そこは病院最上階の最奥にある、病院一のVIPルームだった。

 とはいえ、東豊は元はマイナーだった東亜医科大学の名を世界に轟かせた人物であり、医学部長の松重からしたらこれでも足りないくらいだと思っていた。


 松重は扉をノックした。


「失礼します。松重です。お電話でお伝えした学生を連れてまいりました」


 中からか細い「どうぞ......」という声がするのを確認し、二人は中に入った。

 部屋は普通の病室の4個分はあった。

 壁紙や床材などは少し高そうな素材で、大きめのソファやテーブルなども備えられており、そこまでの病院の雰囲気と全く違っていた。

 だが、一番奥にあるベッドは、実用性のためか他の病室と同じ医療用ベッドであった。

 そのベッドの上にはやせ細った老人が寝ていた。

 ベッドの上部分が30度ほど立てられており、顔が辛うじて前に向いていた。


「すまない......この角度が限界なんだ......これ以上上げると上半身がずり落ちしまうんだ.........」


 ベッド上の老人、東豊は今にも消えてしまいそうな声でそう言った。


 東がACC受容体を発見したとき、すでに退官間際の60台だった。

 そして、今現在の東の年齢は89歳である。


「君が........岡田君かね.........私に聞きたいことがあるんだって.........」


 岡田は一歩前にでて、恭しく頭を下げた。


「東亜医科大学医学科5年、岡田健一と申します。今日は突然のお願いにも関わらずお会い頂きありがとうございます」

「私が答えられることだったら...........なんでも答えるよ.............」

「ありがとうございます。せっかくの機会ですので遠慮なく...........」


 岡田は数秒間を置いたあと、本題を切り出した。


「ACCR阻害薬が実用化され、癌を完全に克服した現在の世界を、先生はどのようにお考えですか?」


 その質問で、松重は岡田の言わんとすることを悟った。


「おい、君、そんな話を東先生にするためにここに来たのかね!?」


 松重は怒りをあらわに岡田の後ろから怒鳴ったが、岡田は気にせず、東に問い続けた。


「答えて下さい!!東先生!!」


 東は驚いている様子はなく、ゆっくりと答えた。


「かつて.........悪性新生物(癌)は先進国の死亡原因の1位だった..........それが.........ACCR阻害薬の登場によって劇的に変わった.........人間は癌で死ななくなった............世界の平均寿命は劇的に伸びた.........」


 東のその答えに、岡田は震える声で反論した。


「伸びたのは寿命だけじゃないですか.........その結果、世界はどうなりました...........特にこの日本は!?」


 癌を克服した人類を待っていたのはより残酷な現実だった。

 人間の寿命は劇的に伸びた。

 だが、人間の老化は止められなかったのだ。

 特にの衰えは現在の医学でもどうにもならなかった。

 その結果どうなったか?

 ベッドから一歩も動けない寝たきりの高齢者が世界中にあふれかえってしまったのだ。

 ちょうど、今の東のような.........


「日本中の病院や施設は寝たきりの高齢者でパンクしてます!!俺の祖父や祖母は、父方も母方もぎゅうぎゅうの施設に押し込められ、十分な介護も受けられない!!こんなことになったのは、いったい誰のせいですか!?」


 岡田はそう叫びながら、持っていた鞄の中から、抜き身の包丁を取り出した。


「おい、君!! 何を考えてるんだ!?」


 岡田の行動に驚愕し、松重が叫ぶ。


「あなたが、ACC-23受容体なんて発見しなければ、こんなことにはならなかったんだ!! なのに.........世界中ひどいことになってるのに..........その原因のあなたが、なんでこんな広い豪華な病室で、大学病院の最高の治療を優雅に受けてるんですか!?」


 岡田の叫びに、東はじっと耳を傾けていた。

 そして、東はゆっくりと口を開いた。


「全て........君の言う通りだ.........君の思う通りにしたらいい........だが.........本当にそれでいいのかね?」

「なんですって...........」

「君の御祖父様や御祖母様は.............君の言葉を借りれば、ぎゅうぎゅうの施設に押し込められたまま...........これからもまだ何年も生きることになるだろう...............なのに...........私だけ、まだ頭もはっきりしたような状態で死んで楽になっていいのかね?」

「あなたは............どこまで非道なんだ!?」


 岡田は包丁を握る力をさらに強めた。


「待て!!岡田君!!」


 後ろから松重が再び叫んだ。


「頼む、私の話を聞いてくれ!!」

「東先生の次はあなただ!!この悪魔たちめ!!」

「そうだ!!私を始めACCR阻害薬に携わった人間は、君の理屈で言えば悪魔だ!!だが、東先生だけは違う!!」

「何が違うというんだ!?全てこの人が始めたことだ!!」

「東先生はACCR阻害薬の開発を中止しようとしたんだ!!」


 松重のその言葉に、岡田の表情が変わる。


「なんだって...........」

「東先生は癌が撲滅されたあとの世界がどうなるか、わかっていたんだ!!そして、ACCR阻害薬の開発を中止し、全く別の薬の研究をしようとした!!だが、当時の大学幹部がそれを許さなかった!!ACCR阻害薬の成功はもう目に見えていて、一方で東先生が始めようとした研究は全くの0からだった!!大学幹部は東先生の名前だけを残して締め出し、研究は私達若手に引き継がせたんだ!!程なく東先生は退官になった!!だが、そのあとも東先生は私財を投じて研究を続けたんだ!!」

「いったい.............いったい何の研究をしていたっていうんだ!?」


 松重はそこでいったん息を整え、ゆっくりとこう言った。


「高齢者に安全に使用できる筋肉増強薬だよ...........」


 岡田はその内容の意味を理解し、呆然とした。


「東先生は当時からこう考えておられた。ACCR阻害薬以外にも、あらゆる病態の解明と治療技術が進み、いずれ世界は寝たきり高齢者であふれかえる。だから、伸びていく寿命に合わせて、身体能力を強化する技術が必要だと考えたんだ。もっとも、今の世界の状況を見ればわかるだろうが、東先生の研究は成功しなかった........」


 岡田はそこで、来る途中の松重との会話を思い出した。


『素晴らしい方だ。医学研究で人類を幸せにできると固く信じておられた。結局、東先生の研究は実を結ばなかったがね........』


「岡田君............」


 そこで、ずっと黙っていた東が口を開いた。


「医学に絶望しないでほしい..........医学は人を不幸にするものじゃない..........だが、まだ今は不完全なんだ...........これから医学が人を幸せにできるかどうかは...............君のような若者の手にかかっているんだよ..............だから、その貴重な手を............こんな老い先短い年寄りの血で汚さないでほしい................」


 東の言葉で岡田は包丁を床に落とした。

 そして、全身の筋肉の力が抜けたかのようにその場に座り込んだ。


「松重君...........」


 東は、岡田から松重の方に視線を移した。


「すまないが................今日のことはなかったことにしてくれないか?」

「何をおっしゃるんですか!?そんなわけには!!」


 岡田はいわば殺人未遂を犯したのだ。

 医学部長としてそんな人間を本学の学生として見過ごすわけにいかない。


「彼の行動は...........今世界で苦しんでいる人々を思ってのことだ.............彼の純粋さはともすれば危ういが.........いずれ人を救う力になるはずだ」

「ですが..........」


 そこで、松重の携帯が鳴った。


「もしもし、松重だ。すまないが、今、取り込み中で........え、ニュース...........いったい何があったって........なんだと........」


 松重は病室内を見回し、テーブルの上にあったテレビのリモコンを見つけた。


「すみません!!ちょっと失礼します!!」


 松重はそう言ってリモコンを操作し、病室内にあったテレビをつけた。


『繰り返します!!WHOは各国に注意勧告を発しました!!ここで改めて、このウイルスについてご説明します!!中国北部で流行していたウイルスが新型コロナウイルスであることが判明しました!!ウイルスは2020年にパンデミックを起こしたcovid-19に酷似していますが、感染力、致死率ともcovid-19より強いのではないかと推測されており、既存の抗covid-19薬が無効ではないかとの見方が強まっています!!また、潜伏期間はcovid-19よりも長いとみられ、すでに、北米、南米、欧州、アフリカの各地で同一ウイルスが同時多発的に確認されています!!WHOは本ウイルスをcovid-49と命名し、各国に注意喚起を発しています............」


「なんてことだ............また、あのときと同じことが起こるのか.............」


 松重はテレビ画面を見ながら呆然とした。


「いつか............こんな日が来るんじゃないかと思っていたが..............こんなに早く訪れるとは.............」


 東は目を閉じながらそう呟いた。


「人間が一つの病を克服したと思ったら、また次の病が現れる...........人間と病との戦いに終わりはない..............だから、若い力が少しでも多く必要なのだよ」


 東そう言って、岡田の方を見た。

 その様子をみて、松重は岡田の方に歩み寄り、屈んで岡田に話かけた。


「東先生の今の言葉に応える意志はあるか?」


 岡田は、数秒考えたあと、意を決して答えた。


「もし.......もう一度チャンスを頂けるのであれば.........」

「ああ、今回だけだ。二度と道を外れるな」


 松重が岡田の肩を叩いたあと、二人は立ち上がった。


「東先生、本当に申し訳ありませんでした!!」


 岡田は東に向かって深く頭を下げた。


 そんな岡田に対して、東は今にも消えそうな声でこう言った。


「未来を.........頼む..........」




 恐るべき未来 完



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