さがしもの

泉葵

さがしもの

あと一回。

体を起こすと汗が額を伝い、目に入った。

痛い。

体は軋む。血液が全身を巡り、沸々と汗を湧き出させる。視界がチカチカとした。

体を起こすと深く息を吐いた。汗はウェアをひどく濡らし、まるで水浴びした後のようだった。

だらんと脱力したい。今すぐにでも湯船に浸かりたい。

幸いジムに人は少なく、すぐにアブドミナルを使う人はいないようだった。紘はマシンを拭くと、綺麗な白のタオルで顔を拭いた。

今日はこれで終わり。広背筋に大胸筋、最後は腹直筋。

半月前はフォームが悪いままに適切な負荷も分からずに筋トレしてた。恥ずかしさよりも迷惑だと思われているという思い込みが紘の調子を狂わせた。次第にジムに通ううちに、夕方前は人が少ないことを知った。大学生であった紘にとって空きコマにジムに通うのは別に難しいことではなかったのでそれからはずっと同じ時間にジムへと足を運ぶようになった。

更衣室にはロッカーとシャワー完備されている。ロッカーの鍵を開け、カバンをシャワーを浴びようとバッグを漁っていた。

「ない」

財布が消えている。

銅鑼を叩くような音を出しながらバッグを漁った。確かに鍵をかけた。それでも綺麗に財布だけが抜き取られたようで、どこにもなかった。財布にはクレカやキャッシュカードが入っていて、何よりも今月使う予定のお金が入っていた。なくなれば面倒では済まない。

ひやりとした汗が首筋を伝っていった。

慌てても犯人が見つかるわけでもない。幸いバッグのポケットには小銭が入っていた。バタバタとシャワーを浴び、着替えると小走りでジムの受付へと向かった。

「すみません、財布盗まれたんですけど少し前に出ていった人いませんか」

紘の息は荒く、受付の若い男はぽかんとしていた。

「盗難ですか?鍵は掛けられていらっしゃらなかったんですか?」

しかし状況を理解すると男はまたかという顔をした。

「鍵はちゃんとかけていました」

「本当にありませんか。もう一度探してみてください」

その場でバッグをもう一度漁った。出てくるのは今日来ていたウェアやタオルといったもので、財布が出てくる気配はない。

「やっぱりないです」

「ロッカーに置き忘れたというのはないですか。鍵をかけていらっしゃったのであればきっとどこかに忘れていらっしゃるんですよ」

「そうですね。ちょっと探してきます」

紘は急ぎ早にその場を去った。

別にあの男の対応が悪いとは思っていない。男の立場だったらきっと紘だって同じ事を言う。それでも紘が悪い、間違っているといわれている気がしてならなかった。

もう一度ロッカーを探してみるもやはりない。当たり前だ。さっき探したんだもの。

「ロッカーにもなかったです」

「そうですか。分かりました。もし見つかったらこちらからご連絡いたしますのでこちらにお電話番号を」

男はペンと紙を差し出した。

そうじゃない。俺は財布を盗まれたんだ。

「だから盗まれたんですって。確かに鍵はかかってましたけど」

声が大きくなっていることに気づき、「すみません」と小さくなる。

「まぁお気持ちはわかりますが、だからと言ってこちらからは何もできないので」

男はすらすらと言ってのけた。きっとこんなことが日頃起きているのだろう。

「分かりました。じゃあ見つかったら連絡お願いします」

紙に名前と電話番号を殴り書き、ジムを出た。

風は生暖かく、汗を冷やしてくれない。風邪をひかないという点ではそっちの方がいいのかもしれない。沸いた頭は少しずつ冷えていき、男の対応もまぁ仕方ないと思うようになっていった。

家に帰りつくとすぐにバッグの中のウェアを洗濯機に入れた。

そういやご飯どうしよう。

帰りに買う予定だったご飯は怒りで忘れてしまっていた。

財布。

そのとき、ふと本当に財布をジムに持って行ったのかという不安に襲われた。持って行ったという確信はあるが、よく考えればそういった記憶はない。

紘は家じゅうを探し始めた。目的のものはすぐに見つかり、玄関で息を潜めていた。

財布が見つかったという安堵はすぐになくなっていった。

胸が締め付けられ、頭がうまく働かない。あれだけ強く言っておきながら「実は家にありました」なんて言えない。ジム、次探すか。

貯めたお湯が浴槽から漏れる音で紘は意識を現実に戻した。

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さがしもの 泉葵 @aoi_utikuga

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