雪女
赤花椿
短編・雪女
新年が始まって間もない一月上旬。
一人の若い、身長は一七〇センチ前後で中世的な顔を持つ男。サラリーマンとして働く石上海斗は今、冬休みでスキーを堪能するためとあるスキー場にやってきていた。
海斗は毎年冬になると必ずスキーをしに行くほどで、勿論スキーの道具はすべて自前ですべて揃えている。
彼はスキーを思う存分に一人で楽しむため誰かを誘うことも、誘われても断るってしまう。
腕前は勿論のこと。
最近はスキー場のコースでは物足りなくなっていて、コース外をよく目で追っている。
「退屈だ」
滑りながらそんなことを口から零す。
周囲を見渡してみれば、自分と同じようにスキーを楽しむ人たちで賑わっている。
一見すればとてもいい景色だが、一人でいることが好きな海斗からすれば気に入らない。
誰もいない静かに集中して滑りたいのに、雑音や人影が自分の世界に入らせてくれないのだ。
会社では同僚に気を使い、上司の顔色を窺い、飲み会は酔った上司の自慢話を聞かされる。
ただでさえ日常生活で面白くない日々を過ごしているのに、こういう自分の好きなものに関しては誰にも邪魔されたくない。
そんな邪念を胸に、数回滑った後。
「行くか」
海斗は独り言を呟くと、周囲の人が自分を見ていないことを確認して場外に出た。
「……」
少しの緊張から唾を飲み込む。
海斗は毎日必ずニュースを確認している。
この時期にスキー場の外で滑った人たちが雪崩に巻き込まれ命を失っていることはよく知っていた。
自分もその一人になりかねないのだ。
だが、そんなニュースを見るたびに、危険を冒してまで滑りたいほど面白いのかと気になっていた。
葉の一枚も付いていない木々と穢れのない白い雪で覆われた世界が広がっている。
「……」
行こうか、やはりやめるべきか。
数分間続いた葛藤のすえ、海斗は意を決して滑り出した。
木々の間を縫うように粉雪を巻き上げながら滑っていく。
「はは」
思わず軽く笑いが零れてしまう。
アドレナリンが分泌されているのか。
今は恐怖よりも楽しさが勝り、ギリギリで木々を避けていくそのスリルが楽しくてたまらない。
誰の姿も声も聞こえない静けさだけが漂う場所は、海斗の意識を奥深くへ誘う。
今ならこんな危険な場所を滑りに行く人たちの気持ちがよく分かる。
楽しい。楽しくてたまらない。
もう十分ぐらいは滑り続けているが雪崩がおきる様子は全くなく拍子抜け。
この調子ならば無事滑り切ることが出来そうだ。
そう思っていた矢先のことだった。
後ろから何やら地響きのような音が耳に届いて来る。
最初は些細なものだったが、その音は徐々に大きくなっていることに気が付き、前に気を付けながらも後ろに目をやった。
「まじかよやば……」
後ろから白い煙が海斗めがけて迫りくる。
否、煙ではなく雪だ。
水分の少ないサラサラとした雪が勢いよく斜面を滑り落ちてくる。
先ほどまでは何ともなかったというのに。
気が付けば雪崩はすぐそこまで迫ってきている。
「……」
真冬だというのに、海斗の全身から汗が浮かび上がる。
このまま追い付かれてしまえば確実に雪崩に巻き込まれ命を落とすだろう。
こんなところで命を落とすなどごめんだ。まだ二十六年しか生きていないというのに。
海斗は必死になって滑り下りていく。
無駄な動きを最小限に気の間を交わし、姿勢を低くして速度を上げる。
もう一度、後ろを振り返ってみてみれば、雪崩との距離は縮まってはいない。
海斗の滑る速度が雪崩とほぼ同じ速度に達していた。
「ははは、行ける! 行けるぞ!」
まるで海外で撮影された雪崩から逃れるように滑る人みたく、自分もこのまま雪崩から逃げ切れるのではないだろうか。
アドレナリンの影響もあり心の中で自信過剰になったその時だった。
「⁉」
スキー板が何かに引っかかったような感覚と共に、海斗は盛大にバランスを崩し転げてしまった。
恐らく原因は、雪に埋もれて見えなかった木の枝にでもぶつかってしまったのだろう。
そう、そして海斗は死ぬのか、という考えすらさせてもらえないほどの速度の雪崩に飲み込まれた。
:
視界は暗く体は寒い。
ああ死んだのか。これが死後の世界か。
何となく自分に置かれた状況にそう結論付けた時。何やら風の音が聞こえ、そして暖かさとパチパチと木が燃え弾ける音も聞こえてくる。
自分の視界が暗いのは目を閉じているためだと気が付き瞼を開けると、そこには焚火がありそれが体を温めていた。
「死んで、ない?」
壁にもたれかかる形で座っている自分の周囲を見渡してみる。
岩に囲まれていて、洞窟であることは容易に理解できた。
「ぐっ」
体を起こそうと力を入れたところで痛みが走った。打撲か骨が折れているのか。自力で動けそうにはない。
自身の服装を見てみればスキーウェアを着込んでいて、雪崩に巻き込まれたのは夢ではないようだ。
ではなぜ自分は洞窟にいるのか。確かに雪崩に巻き込まれたはずだ。
雪崩に巻き込まれ、流された先がたまたまこの洞窟であったとしても、自分を襲った雪がどこにも見当たらないのは不自然。
雪崩に巻き込まれたのは現実なのに自分は何故か洞窟で、しかも体は負傷して十分に動かせない状況にも関わらず焚火で寒さをしのいでいる。
もう何が何だか分からなかった。
「ここが地獄か?」
本当はこれが現実ではなく死後の世界なのではないかと思い始めた時。
「……」
音が聞こえてきた。
ペタペタと人間が素足で歩くような音が洞窟の奥から聞こえてくる。
さらにその音は近づいて来ているようだ。
焚火で照らされている海斗のいる場所以外はもちろん暗闇。
「だ、だれだ!」
恐怖にとらわれながらも喉から声を絞り出す。
「……」
反応があるわけがなく。足音だけが確かに近づいて来る。
人か。化け物か。
やっぱりここは地獄だったのか。
そして足音の正体は焚火の光に照らされた。
白装束のような服に、白く長い髪に白い眉毛に白いまつ毛。肌も不健康そうな白さをしており、足音の通り素足の女性がそこに立っていた。
「ほう、目が覚めたか」
凛と大人びた声が洞窟にこだました。
人生で一度も出会えないだろう白い美女に目を奪われながらも、海斗は口を動かす。
「あ、だ、誰ですか?」
海斗の問いに女性は腕組みをして唸る。
「何者……どう答えたものか。前に会った人間には雪女と言われたな」
「雪おんな……」
確かにその例えは彼女の姿から適当かもしれない。
こんな寒い中で明らかに生地の薄い服で平気そうな顔をしている当たり、ただの人間ではないことは確かだ。
「まあ雪女ということにしておいてくれ」
見た目の印象とは少し離れた男勝りな感じの喋り方に違和感を覚えるが、雪女呼びに自分の中で了承した。
歩みを進めてさらに距離を詰めてくる雪女に警戒しつつ、海斗は問うてみる。
「君が、俺をここに連れてきたのか?」
「そうだ。雪に埋もれていたお前を引っ張り出したのだ」
やはりここに連れてきたのは雪女のようだ。
彼女がいなければ自分は確実に雪崩で死んでいただろう。自分の中でまだ彼女がどんな人物、いや妖怪なのか分からないので気を許すわけにはいかないが、一応お礼は言っておくことにする。
「ありがとう」
「……」
すると雪女は少し意外そうな顔で目を丸くした。そんな彼女の反応に海斗は問う。
「どうかした?」
「いや、お前が素直に礼を口にしたことが少し意外だったのでな」
「そうか?」
命を救ってくれたのだ。礼を言うのは当たり前だと思うのだが。
「今までの人間たちは疑り深く礼を口にすることはなかったぞ」
確かに彼女が本当に雪女であるならば、何か危害を加えるつもりで自分も救ったのではないかと、疑いたくなる気持ちも分からなくはない。
どんな理由であれ、今は生きているのだ。礼をするのが筋というものだろう。
「俺は礼を言うべきだと思ったからそうしただけだ」
「そうか。ところで腹はすいているか?」
「ん、いやまあ」
どれくらいこうしていたのかは分からなないが、スキーを滑っていたのは確か午前中。
言われてみれば確かにお腹がすいているような気がする。
「そうか少し待っていろ」
そう言うと彼女は洞窟の奥へと向かうと、ほどなくして何かを持って戻って来る。
その手に持っているものをよく見ると、氷漬けにされた魚のようだった。
それを雪女は焚火の前に置いて解凍し、焼き始める。
「人間は魚が食えるのだろ?」
「そうだな」
魚が嫌いな人もいるため一概に人間皆が食べれるという訳ではないが、海斗は食べられるので問題はない。
「前に救ってやった人間は魚は嫌いだの我儘で困った奴だった」
魚嫌いな人にもいたらしい。彼女も苦労しているのか。
それから数十分が経過し、魚の焼けるいい匂いが洞窟内に漂い始めた。
「そろそろ頃合いだろう」
そう言うと、雪女は焼けた魚を素手で持ってそのまま手渡して来くる。
「いや、火傷しちゃうよ」
「お前も我儘だな」
いや、我儘というか火傷するのが分かっていてそのまま持とうとは思わない。
「雪女は火傷しないのか?」
「火傷、とは火で負傷することか? 熱さは感じないのでな」
なんと羨ましい。これも雪女の特性なのか。
「仕方ないな」
雪女は両手で魚を持つと、ふうと息を吹きかける。
すると、雪女の吐息から冷気が出て熱い焼き魚を冷ましてくれた。
「これで食べられるだろう?」
「あ、ありがとう」
まだ少し痛む腕を動かし魚を受け取り礼を口にすると、海斗は魚にかぶりついた。
川魚特有の塩気のないさっぱりとした味が口の中に広がる。
「……」
と、黙ったままこちらを見つめてくる雪女が気になる。
「あんたは食べなくていいのか?」
「私は食べる必要はない」
妖怪だから食事が必要ないのか。
そんなことを考えながら魚を食べ進める。
内臓が取り除かれていないため内臓の癖のある味が口の中で感じて、顔をしかめそうになるが、取り繕って我慢する。
流石に嫌な顔をすれば彼女を不快にさせるかもしれない。
先ほどの口から吐いていた冷気で凍らされたらたまったものではない。
「ふう」
海斗は魚を一匹食べ終わり一息つく。
「喉は乾いているか?」
「ん、まあ」
確かに空気が乾燥しているため喉は乾いていた。
すると、雪女は懐からプラスチックのコップを取り出すと、片手をかざして何をするのかと思えば、何もない所から白い雪を出現させてコップに盛ると、焚火の熱でコップに入った雪を溶かして水に変えた。
「……」
魔法を使っているようにしか見えないその光景に、海斗は思わず唖然とする。
先程冷気を使っているのを見て、彼女が本物の雪女であることは信じざるを得なかったが、さらに凄い物を見せられればそんな反応もしてしまう。
それからというのも、雪女との過ごすことになってしまった。
洞窟は真っ暗で外が昼なのか夜なのかも分からず、眠気を感じたら寝て、お腹がすいたら雪女がご飯を用意してくれてそれを食べるという生活。ご飯といっても魚ばかりだが。
体の負傷は治ったのか痛みは引いていた。
どうやら骨折はしていなかったようだ。雪崩ということで外傷もなかった。
「くせ」
体の匂いを嗅いでみると、流石に最後に風呂に入ってから時間が経っているため少し臭っていた。
まあ帰ってお風呂に入れば済む話だ。
海斗は立ち上がると体をぐっと伸ばす。
「あ~」
体が伸びている感覚が気持ちいい。猫の気持ちが分かる。
「さて」
洞窟を出て帰還できるか。
「体は治ったか?」
洞窟の奥からやって来た雪女が話しかけてくる。
「おかげさまでな。出口はどっちだ?」
「帰るのか?」
「ん? ああ」
「出口なら向こうへ進めば出られる」
雪女は自分がいる方とは逆の方向を指さした。
「助けてくれてありがとうな」
そう言って海斗は雪女が指さした洞窟の奥へ歩みを進めていく。
焚火の灯りが徐々に遠のいていき、やがて焚火の灯りがなくなると同時に外から差し込む光が見えてきた。
出口だ。
帰れるという嬉しさからか足取りが早くなっていき、洞窟の出口にたどり着いた。
長いこと洞窟の中で過ごしていたせいで、外の光で視界が眩む。
徐々に光に慣れ目を開けると。
「……」
海斗はその場で立ち尽くした。
確かに外だ。だが、余りにも酷い吹雪で帰れるような雰囲気ではなかったのだ。
吹雪の中を無理やり進もうとすれば遭難するに違いない。
吹雪が止むまで待つか。出口への行き方は分かった。それに寒すぎるため焚火の暖かさが恋しくなり、とりあえず海斗は洞窟内へ引き返す。
洞窟の奥へと進むと焚火の灯りが見えてきて、雪女の姿も見えてきた。
「どうした?」
戻って来た海斗に問うてくる雪女。
「吹雪が酷かったから止むまでまた厄介になりに来た」
「そうか」
そっけない声だが、表情は少し嬉しそうな顔をする雪女。寂しいのだろうか。
雪女の表情の意味が気になりつつも、焚火で暖をとって時間を潰した。
それからというもの。吹雪が止むのを何度も確認しに行くが、吹雪が収まる気配は全くなく帰れないまま時間が過ぎていく。
一度、無理やり吹雪の中を進もうと試みて見たものの。視界が全く見えない状況に追い込まれて断念。
そのまま大人しく吹雪が止むのを待っているのだが、一向に吹雪は止まない。
雪女に世話になるばかり日々。
帰れないままどれだけ時間が経過しただろう。
余りにも暇を持て余していた海斗はふと気になることが出来た。
雪女の行動だ。
雪女は良く洞窟の出口とは逆の奥へ行くことが多く、いったい奥に行って何をしているのか気になっていた。
「奥には何があるんだ?」
「特に面白いものはないが?」
雪女に直接問うてもそんな返答をされてる。
「行ってみてもいいか?」
「ダメだ」
「……」
踏み込もうとすると強い口調で拒否してくる。
何か隠している。そうとしか思えなかった。
そんなあるとき。
「少し食料を取ってこよう」
雪女が洞窟から出ていった。
吹雪の中でまともに歩けるのかと思ったが、彼女は人間ではないのだから大丈夫なのだろう。
そう思ってふと洞窟の奥へ目をやった。
彼女は今、洞窟を出ていったばかりですぐには戻ってこないだろう。
海斗が洞窟の奥へ行くことをかたくなに拒んだ理由が今なら確認できる。
「……」
海斗は立ち上がると洞窟の奥へ歩みを進めた。
自分の足音だけが響き渡るなか。少し緊張を覚えて唾を飲み込む。
どのくらいの距離を歩いただろう。焚火の灯りはすっかり届かなくなっていた。
「寒い」
急に強烈な寒さを感じて手に息を吹きかける。
周辺は暗く様子を確認することが出来ない。
なにか灯りがないかと自分の着ている服のポケットをあさると、すっかり忘れていたが携帯の存在に気が付いた。
恐らく今まで置かれたことのない状況に陥っていたせいか、あることに気が付けなかったのだろうか。
携帯を取り出して画面を点けてみる。
バッテリーの残量は二十パーセントで、圏外を示す携帯の画面を操作してライトをつけてみた。
周囲を照らしてみると、何やら巨大な氷の塊がライトに照らされる。
恐らく急に強烈な寒さを感じたのはこの氷が原因なのだろう。
氷の塊を覆う霜を手でふき取りライトで照らしてみた。
「……」
思わず固まった。氷の中に人影が見て取れたのだ。それも一人ではないざっと見る限り五人ほどの人間が氷漬けにされている。
雪女は前にも人間に会っていると言っていた。洞窟で暮らしているなら手に入ることはないだろうプラスチックのコップを持っていて、雪女らしい冷気や雪を使っている姿を見た。頑なにここに行くことを拒んだ雪女。ここには氷漬けにされた人間。
そして外の吹雪が雪女の力だとするなら。
雪女が外に行っている間に無理やりでも吹雪の中を進んでここから逃げるべきだ。
そう思い、引き返して今すぐ洞窟を出ようと振り返った時。
「⁉」
「……」
携帯のライトに照らされた雪女が黙ってそこに立っていた。
恐怖のあまり口から声が出ず息を吐き出すことしかできない。
心なしか、先ほどよりも周囲の気温が下がっている気がする。
「見られってしまったか」
「……」
なにも言えずにいる海斗の代わりに雪女が言葉を続ける。
「私は長いこと一人でな。そのことに何とも思わなかったのだが、あるとき遭難した人間を暇つぶしに救ってやったのだ。人間から聞く話はどれも新鮮で面白くてな。その時の人間は帰してやったんだが、それ以来なんだか退屈で寂しくてな。次にまた他の人間を救ってやった時にお願いしてみたんだ。ここにいる気はないかと。だが断れてしまってな。食い下がったがそれでもその人間が無理やり出ていこうとしたので氷で捕まえたのだ」
「⁉」
話していた雪女の顔が笑みで歪み、それがあまりにも不気味で海斗は全身を震わせた。
「氷で逃げられないようにしたのだが人間はもろくてな。ほどなくして死んでしまった。死んだ人間をどうしたものかと考えて全身を氷漬けにしたんだ。だが死んでしまうと話ができない。だから次の人間が来ては死ぬまで話をして、氷漬けにして寂しくならないようにここに集める。お前で六人目だ」
「……」
恐怖のあまり立ち尽くしていると、雪女が徐々に距離を詰めてきて。
「さあ、死ぬまで話しをしよう。すぐには死なぬよう食料も用意した」
冷たさを感じて海斗は自分の足元を携帯のライトで照らしてみると、氷が足を固めていた。
「お前は長生きしてくれよ?」
雪女の笑みが目に入った。
:
朝のテレビニュースで日常の一部と化した悲報が流れる。
テレビ局のスタジオで女性キャスターがカメラに向かって口を開く。
「○○県の○○市スキー場にて昨日未明から一人の男性が行方不明との情報が入ってきています。名前は石上海斗。二十六歳。スキー場付近で雪崩が起きた痕跡があり、巻き込まれたとみて捜索活動が行われています」
雪女 赤花椿 @akabanatubaki
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