ヨイヨイ、今宵の花見酒
シロヅキ カスム
【SS】ヨイヨイ、今宵の花見酒
カーキのジャケットの薄っぺらさに、心もとない気持ちになる。着心地が悪いわけではない。久しぶりに袖を通したせいか、そわそわと肩をゆらした。
室内の明かりを消した、薄暗い玄関の前。本当にこの格好のまま外に出てよいか、ためらった。
外は寒いだろうか?
日中は陽気に包まれてはいたが……。
いやいや、ここで迷っていてもしかたがないと、思い切って玄関の重い扉を開けた。するとゴウッ。吹き込んできたのは──生暖かい夜の空気であった。
ああ、よかった。
夜になっても、外は寒くない。
この薄手のジャケットで出かけても、問題ない気温だと安心した。同時に、少しものさびしさを感じる。分厚いダウンジャケットに隙間なく包まれていた、あの感触が恋しい。
けれど、もう冬はしまいなのだ。
季節は春に変わってしまったのだから。
かぶっていたニット帽を脱ぐ。こいつも玄関に置いていこう。
ワックスを落としたボサボサ頭であるが、外は真っ暗だ。夜道に誰とすれちがっても気にならないだろう……ましてや、現在の時刻は深夜の十二時を越えたときている。
ジャケットのポケットに忍ばせた、ワンカップの酒ビン。それとスマホだけを持って、俺は部屋を後にした。
これから、真夜中のお散歩である。
* * *
湯煎したワンカップのフタを、道中で開けた。一口ノドに通せば、熱く、胃が満たされる。
ほんのり温かな湯たんぽを片手に、のろのろ歩き出した。
深夜の散歩は、ひそかな楽しみである。
さすがに冬場は寒くて控えていたけれど、今日の昼間に春一番の風を浴びて確信した。今宵こそが解禁日であると。
今日は初日だ。あまり遠くへ行かず、適当に近所をぐるっと一周するか。アパートを後にして、向かいの道路からスタートする。
最近の電灯はみなLEDだから、道に影がくっきり落ちるくらい明るく照らしてくれる。反面、道の明るさゆえに、空の星はよく見えない。夜空は晴れていて、月は糸のように細かった。
夜といえど、時折、車が通りすぎる。ライトがまぶしく、目を少し細めて立ち止まった。気づかれずに
車が通りすぎると、またゴウッと生暖かい風を浴びた。
微弱な砂も舞って、さらにぐっと目を細める。もうほとんどまぶたを閉じていたのかもしれない……。
ん?
なにかが、頬についた。
目を閉じたまま、頬についたものに指を触れる。
それは小さくて、平たかった。紙のように、でも触感がつるりとしている。無機物ではない、指で取って恐る恐る目を開けた。
──はて、どこから飛んできたのだろう。
指先につまんだそれを、まじまじ見つめる。スマホの画面に照らして見れば、はっきりとその正体がわかった。
サクラの花びらだ。
おかしい、まだサクラが咲くには早い時期なのに……。
首を傾げていると、またゴウッと風を鳴らして車が横を通りすぎた。
今度のは完全に不意打ちだった。驚いて、とっさに道脇へ体を寄せる。どこぞの人ん
するとまた、はらり。顔に花びらが落ちてきた。
頭上を見上げる。夜空を背景に、ぽんぽんと咲いた花の塊が視界を満たした。
ハヤザクラか。
塀から突き出たハヤザクラの枝。思わぬめっけもんに、思わず口元がほころんだ。
本当に、もう春が来たんだなぁ。
そのハヤザクラを見ながら、ワンカップをぐびりと傾けた。
じんわり、ノドが温まる。春一番、自分だけのささやかな深夜のお花見であった。
ヨイヨイ、今宵の花見酒 シロヅキ カスム @shiroduki_ksm
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