Episode❹ 吸血鬼と夜更け

「しまった」


 大学のレポートをまとめようとしている最中、くみ子は困っていた。

 明日の朝の講義で提出期限の為に必要なレポート用紙を切らしている。

 ほとんどの講義ではパソコンのメールでWordにまとめたデータを送ればそれでいいのだけれど、明日の近代町村史の講師は紙のレポートでの提出しか認めていないので、レポート用紙が必須だ。


「マジかよー。ちゃんと確認しておけば良かったー……」


 幸い、くみ子は大学近辺のアパートに住んでいるので、コンビニに行けば大学生に需要のあるレポート用紙は確保できる。

 くみ子はスマホの電源ボタンを押し、時計を確認した。

 時刻は深夜0時過ぎ。若い女性が一人で出歩くのは憚られる時間帯だ。その上、くみ子はパッと見では中学生に間違えられるくらいの背丈と幼い顔つきだ。夜に出歩いて警察の補導を受けそうになった経験も一度や二度ではない。


 仕方ない。


「何もないことを祈ってさっさと行って戻ってこよう」


 既に入浴も済まし、パジャマに着替えていたくみ子は、下だけ外行のものに履き替え、上には愛用のトレンチコートを羽織りボタンを閉めた。いつもはお団子にまとめている髪は後ろで適当に縛って止めた。


「寒っ」


 季節はもう真冬だ。手袋なしでは出歩くのが億劫になるほどに外は寒い。

 これが余裕のある夕方で暖かい春だったりすれば、レポートをまとめるアイディアを考えるためにコンビニまで散歩がてら、というのも良いのだが、生憎今のくみ子にはそんな余裕はない。気持ち的にも期限的にも何もかも。


 くみ子は部屋をしっかりと施錠し、コンビニに向かうまでの路地を歩いていて、ふと足を止めた。そして大きく溜息をつく。


 路地に人が倒れていた。

 頭の方を電柱に寄りかかるようにして、若い男が口を開けてポケーっとした顔で虚空を見つめている。年齢だけ推察するなら、くみ子と同じくらい。大学生くらいの年齢に見えるが、くみ子にこんな学生の見覚えはない。

 それにこの男──。


「大丈夫っすか。酔っ払いっすか。警察か救急車でも呼ぶっすか」


 くみ子は男から少し離れたところで男に呼びかけた。

 男は虚ろだった眼差しをくみ子の方に向ける。


「──た」

「はい?」

「腹減った」

「今時行き倒れっすか」

「なんか、食うもの」

「はいはい。今あたしコンビニ行くところっすから、おにぎりでも買ってくるっす。この時間だとここあんま人通んないし、大人しくしてたらすぐ持ってくるから」


 男にそれだけ言って、くみ子は最初より少し急いでコンビニに向かった。

 お目当てのレポート用紙と一緒に、おにぎりを二つとお弁当一箱にお茶を手にする。おにぎりとお茶、お弁当だけ別のビニール袋に入れてもらって、ついでだからと自分の夜食用にミニエクレアも買った。


 幸い、コンビニの店員はくみ子を見知っている人なので特に悶着などもなく買い物を済ませ、はや足でさっき男の倒れていた路地まで戻る。


「はい、買ってきたっすよ」

 くみ子は男にビニール袋ごと男の前に放り投げた。男は目を丸くして、袋の中からおにぎりを取り出すと、乱暴に包装を外して口の中に放り込んだ。


「お代はいらないっすから。適当に食べてさっさといなくなってください」


 くみ子はさっさと伝えることだけ伝える。あまりこの手合いに長く付き合うつもりもない。何せ、大学のレポートをまとめるという重大任務がくみ子を待っている。


「ありがとう」

 男はムクリと立ち上がり、くみ子に深々と頭を下げた。

「もう歩けるんすね? じゃああたしはこれで」


 くみ子が踵を返すと、その瞬間、くみ子の耳元でささやく声が聞こえた。


「いただきます」


 先程まで動くこともできなかった男が、くみ子のすぐ後ろを位置取っている。


「それはやめた方が良いっす」


 くみ子は、口を大きく開けて迫る男を睨みつけた。 

 その目を見て、男は大きく怯んだ。男の全てを見通すような鋭い眼差しには、圧があった。


「それでもと言うなら、あたしがあんたを喰らうっすけど?」



🌕


「ふうん。貘、ねえ。さっきはだいぶビビったよ」 くみ子と先程行き倒れていた男は、それぞれ公園のベンチに別々に座って食事をしていた。 男の方はくみ子の買ってきた弁当を、くみ子は自分の夜食用のエクレアを口に頬張る。


「あたしもまさかと思ったっすよ。あんた、どこの人っすか? ここらじゃ見かけないっすけど。学生じゃないっすよね。だとしたらあんたみたいなの、ウチの教授とかが放っておいてないし」

「ああ、違う。歳はそのくらいだけど。普段は東京あたりをフラフラしてる」

「じゃあ何で今日は」

「散歩がてらな。たまには普段行かないようなところを歩いてみるのも良いかなーなんて適当に歩いてたら腹が減ってさ。腹を満たそうにも近くには人間もいないし」

「それは何っすか? つまり、人がいればさっきみたいに襲っていたってことっすよね? やっぱり、食べちゃった方がいいな?」

「いやいやいや! 普段は本当に! 本当に人は襲わないんだって! さっきは気が動転してて!」


 男は慌てて首と手を振って、弁解した。


「ただ、まさかそれで襲おうとした相手がまさかお仲間とは」

「一緒にしてほしくないっす。あたしはお腹空いてても人襲おうなんて思わないし」

「だから悪かったって」

「あたしはねー。ただコンビニにレポート用紙を買いに行っただけなんすよ。それが何すか? 吸血鬼て」


 行き倒れていた若い男。

 小鹿野シンヤを名乗る彼は、自分のことを吸血鬼だと紹介した。

 くみ子もそれを聞いてすぐに納得した。

 何故なら、くみ子もまた吸血鬼でこそないものの、怪異をその身に宿しているからだ。


 貘。怪異喰い。


 くみ子は他の怪異を喰らうことのできる貘の姿にその身を変えることができた。

 だから、先程シンヤに襲われそうになった時も、その力の一端を見せつけたのだ。その力にアてられたシンヤは萎縮し、自分の正体をすぐさま暴露した。


 行き倒れていたシンヤを見つけた時点で、くみ子は彼が何らかの怪異と関わり合いのある人間だということはわかっていたが、倒れている人を何もわからずに放っておくのも気が引けて、やれることだけやってすぐアパートに帰ろうとしていたのだが、この様だ。


 大学の先輩などには「そういうお人好しなところはくみ子の長所だが、貸し借りなしで人に良くしようなんてのはやめた方がいい。自分が損をするだけだ」と、いつも忠告されていたりする。


「さっき散歩がてら、って言ってたっすけど」


 くみ子は、ベンチでコンビニ弁当を口にかき込むシンヤに尋ねた。


「もしかして何か探し物でもしてたっすか?」

 その言葉で、シンヤは弁当を口に運ぶ動作をピタリと止めた。そして箸を手元に置き、くみ子の顔を見る。


「何でそう思う?」

「ぶっちゃけ勘す。でもよく当たるんすよ、ウチの勘。あんた、公園に来てからもあたりをキョロキョロ見回してたし、何か気配を探るような感じだった。もしかしたら誰かから逃げてるのかとも思ったっすけど、それならこんなとこでゆっくりもしないだろうし」

「すごいな。貘ってのはそんなことまでわかるのか」

「これは怪異関係ないす。ただあたしがそういうの得意なだけ。──はい」


 くみ子は座ったまま、シンヤに手を伸ばした。その手には名刺が握られている。シンヤも手を伸ばしてその名刺を手に取ると、書かれている文字を声に出して読んだ。


「東雲大学文化人類学研究科、百目鬼倶楽部所属、尾々間くみ子……」

「あたしこんなんでも大学生でして。そのサークル、怪異絡みの探偵みたいなことしてるとこなんすよ。なんか相談あればいつでも聞くんで、連絡ください。あ、名刺の電話番号は個人番号じゃないっすから」


 くみ子は最後のエクレアを口に入れて平らげると、美味しそうに頬を抑えて飲み込み、立ち上がった。

 いい加減に大学の課題に手をつけなければならないのだ。少なくとも今の自分には吸血鬼とやらに構っているヒマはないが、彼が何か助けが欲しいというなら、百目鬼倶楽部の一員として手を貸してやることができる。


「んじゃ、今度こそあたしはこれで」


 くみ子はそう言って、ベンチから立ち上がる。そして名刺をじっと凝視しているシンヤに手を振って、レポート用紙を小脇に抱えると小走りで公園から立ち去った。



🩸


 小鹿野シンヤにはパートナーがいた。

 吸血鬼であるシンヤは、昼間出歩けないなどの縛りは特に持たないが、頻繁に訪れる吸血衝動だけはどうしようもない。そのまま吸血衝動を抑え続けていれば、あの時の夜のように誰彼構わずに人を襲うことだってあり得る。

 だから、シンヤは普段、決まった相手の血だけを吸っていた。


 シンヤとパートナーの朝峰あさみねアゲハとはもう長い付き合いだった。

 シンヤがまだ小さい頃からの仲でシンヤが吸血衝動を持つ存在であることもアゲハは知っていた。大人になってからは、アゲハは自分から進んでシンヤの為に血を提供して、二人で暮らすようになっていた。


 だが、ある日シンヤとアゲハとは大喧嘩をした。

 人間として暮らしているシンヤは、普通と人間と変わらぬ生活をしている。だから仕事もするし、普通に食事もする。吸血衝動に苛まれる以外には、ほとんど人間と変わらないのだ。 シンヤは仕事先の上司に連れられて、キャバクラに通っていた。あくまで仕事上の付き合いと自分には言い聞かせていたが、いつもは自分の正体バレも恐れ、アゲハ以外の女性と付き合う機会も少ないシンヤは、上司を言い訳に何度もキャバクラに行っていたのが、アゲハにバレたのだ。

 それを知り、アゲハは激昂した。

 自分はシンヤにとっての何なのか。ただ血を提供するだけの餌なのか。確かに男女の仲だなんて二人の間で言葉にしたことはなかった。 けれど、そうであるのだということはお互い暗黙の了解だと思っていたのに──。でもたかがキャバクラじゃないか──。

 そんな風に言い合いをした末に、アゲハはシンヤの家を飛び出した。


🩸


「それで彼女を探しに彼女の実家の近くをうろついて、しまいには行き倒れっすか。最悪っすね。クズ。アゲハさんかわいそう」

「俺だって悪かったとは思ったよ。ただ、良い機会にはなった──。俺もあいつには甘えてたんだ」


 あの夜、行き倒れのシンヤと会ってから数日が、百目鬼倶楽部のもとにシンヤからの連絡が入った。

 パートナーだったアゲハを探してほしい。謝りたい、と。


 シンヤの依頼を聞き、百目鬼倶楽部の情報網(特にくみ子の先輩である赤木ジョイのもの)を駆使して、アゲハの居場所を探し当てることができた。


 くみ子はシンヤと一緒にアゲハのもとを訪れ、これまでの経緯を説明した。

 くみ子立ち会いのもと、改めて二人で冷静になって話し合い、二人は一度距離を置くことを決めた。


「フラれちゃいましたね」

「仕方ないさ。俺が悪い」

「ホント悪いっすからね。反省して」

「これからどうすっか」

「ウチにいつでも来たら良いっすよ? あんたに血を喜んで提供してくれる人も見つかったし」


 百目鬼倶楽部へ相談した結果として、シンヤは新たなパートナーも得た。


 アゲハを探すのに買ってくれたくみ子の先輩、ジョイが「自分で良ければ」と血液提供者になることを了承したのだ。他にも怪異のことを隠さなくて良い相手が、百目鬼倶楽部には数名いる。


「ただし、血を与える代わりに俺の言うことには付き合ってもらうぞ。貸し借りなしの関係は破綻する。それを今回の件で思い知ったろう」

 とはジョイの弁だ。


 そんなジョイに対し、シンヤはあの夜のように深々と頭を下げた。



🌕


「うげ、マジか」


 大学の校内掲示板に貼られた近代町村史、そのレポート合格者欄を見て、くみ子は頭を抱えた。 

 合格者欄の名前に、くみ子が載っていない。

 つまり、この講座のレポートは再提出確定ということだ。


「あんなに頑張ったのにー……」


 シンヤと別れた後に猛スピードでレポートを仕上げてしまったせいで、適当になってしまったのが悪かったか。


「もう、二度と行き倒れなんて助けない……」


 おそらくはこれからの人生でまた起こることもないであろうが、くみ子はそんなことを思い、今度は絶対にレポート用紙の切れなんてないようにと、改めてレポート用紙を買いに大学の購買部に向かった。

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