第29話 自己肯定の罠
私は自分自身、自己肯定感が低いと考えている。
たとえば何か試験などを突破した時、確かに達成感もあるし自分の能力が一定水準にあると保証されたと思うのに。三日もたてば、自分でも驚くぐらい自信がなくなる。何故か「この程度、皆できるよなぁ」と思ってしまう。
認知の歪みがあり、脳内で自分自身を下げる妄想をしてしまっているのは分かっている。『皆できる』というのが間違いで、試験に落ちた人は存在するし、自分の能力が下がったわけでもない。
しかしながら、こういう感情の浮き沈みというのは、理屈で考えて少しはマシになるものの、根本ではずるずると自己批判を繰り返してしまったりする。
自分のありのままを(悪いところさえも)受け入れて肯定できれば、どんなにか心穏やかに凪いでいられるだろうに、と思う。
しかし、である。私はこの自己肯定について、ちょっとしたことに気づいてしまった。本当に、ひょんな瞬間に。
もう誰がどんな動画で言っていたのか、忘れてしまったが。確か「自己肯定って向上しなくなる」という趣旨だった。
なんというか、これは私にとって真理だった。
つまるところ、自分のありのままを肯定することは、それ以上の変化を望まず、よくも悪くも現状は変わらないままになってしまう気がする。少なくとも私は。
受け入れられない、肯定したくない、というのは、逆に考えれば、自分に期待している、ということだと私はとらえたんだと思う。
理想としている自分がいて、もっとこうなりたい、こうしたい! という期待があって。でも現実は違うから苦しい、受け入れがたい、という感じ。
もちろん現実を正しく認知し、そこから向上を図らねばならないから、どうあっても受け入れるしかないんだけれど。
でも自分に期待するって、悪いことだろうか? もちろん現実からかけ離れた理想は良くないけれど。
こうなったらいいのに! と、ジタバタもがくくらいは、した方がいい気がする。
まぁ、もがくことと、自分を痛めつけることは同じじゃないし。本来の意味合いでは、自己肯定は成長を阻害しないとは思うんだけど。
この塩梅というか、ニュアンスは難しい。諦感と諦めはちょっと違うし。肯定することと、変化しないこと、も、実は繋がらないし。
ただ私は、環境や状況を自分好みにより良くしていこうと貪欲に思える気質で。そのため逆に苦しく状況を悪くしがちという、矛盾して不毛な行動傾向の人間だということなんだろう。
そんな私が自信を思い出す方法は。自分のできる能力(根拠のないこれ自分すごいよねっての)を数えること。
例えば、プリン。
私はフライパンと蓋と布巾と茶碗と茶漉しがあれば、卵二個、牛乳適量、砂糖適量から、もっっのすごーっく美味しいプリンが作れる。あ、水も必要か。
自画自賛するお茶碗プリン。子供の言ってくれる「お母さん天才!」も完全に真に受ける。
あとローストビーフも作れるし。サバ味噌も自分史上最高に美味しいレシピを持ってるし。止まらない美味しさのくるみクッキー(しかもバターと砂糖と薄力粉とくるみだけで作れる)も。
食べ物ばっかり………。 だけど、この能力を持っている! とは確信でききている。
そして、この能力で我が子が「美味しい!」って言ってくれる。それだけで、自分はこの世界で生きる価値があるって思えるんだ。
あ、もちろん子供が言ってくれなくなったって自分で「美味しいぃぃぃ! 私、天才!」ってやってると思う。
なんか自己肯定って、こんな感じで良いんじゃあないかって思い始めている、今日この頃。
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