第23話 泣けないこと


 夫が亡くなってから、私は泣くことが少なかった。

 自分でも薄情だな、と思ったくらい、涙が出ない。もしくは泣いていても、どこかで嘘臭い、演技臭いと自分自身を嫌悪していた。

 これが不思議で、夫がいなくなってショック、悲しい、寂しい、しんどい、怖い、恋しい、という感情は強烈に感じるくせに、いざ涙が出はじめると途端に自分が安っぽい偽物のような、何かつじつまをあわせているような、嘘臭さを持ってしまうのだ。

 人前でそうなるのはまだ分かる。他人にいかにも可哀想な未亡人として見られるだろうから、それを演じているように感じるのはまだ分かる。

 ところが私は誰も見てやしない、自宅にたった一人の時でさえこれを感じて自己嫌悪に陥っていて、冷静に考えるとたいへんに病んでいた。

 メソメソと泣く自分がどうにも滑稽で、いかにも悲劇のヒロインに酔っている風で、嫌になってしまう。

 この心理はたいへん馬鹿らしく、一人メソメソと泣いておけばよいものの、そうもせず、また感情を棚上げするものだから、ストレスはたまる一方だ。

 発作のメカニズムはおそらくこれが原因だと思っている。

 夫を思って泣けない。何だか私ばっかりが可哀想って感じがする。本当に可哀想なのは死んでしまった彼だろうに。

 もっと生きたかっただろうし。美味しいものだって食べたかっただろうし、子供の成長だって見たかっただろう。

 可哀想なのはあの人で、生きている私が可哀想ぶってどうしようというのか。

 という、何故かこんな思考だった。そして、そう考えられる思考力があるうちは泣けない。

 どうしてあんなにも自分の涙が、胡散臭く安っぽく嫌悪するまでに感じられるのか、本当に謎。

 自分は薄情なのかも、とか、己を責めたりした。

 けれど、とある親切な知人に「夫の死にまつわることで自分を責めない方がいい。それは良い結果を生まないだろうし、不毛なことだから」と助言をもらった。私は本当に人に恵まれている。 

 確かに不毛なことだ。精神衛生上よろしくない。

 だから私は己を責めはじめたら、イカンイカンこの考え方は違うぞと、無理矢理にでも思考にストップをかけた。

 それでも嫌悪感が抜けないのだから、後になって考えるに重症だった。

 ただこれも、時間薬しかなかった。何をしたって無駄で、時間をやり過ごすしかなくて、しかもそれが最適の治療法だった。

 今では泣ける時に泣いたらいいと思っている。し、時々、夫を思い出して泣くこともある。

 長い時間がたって、ようやく罪悪感なくしみじみとあの人の為に泣けるようになって、本当に良かったと思っている。









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