雨道

傘立て

 

 ただでさえ暗い真夜中の通りは、雨と傘のせいでさらに視界が悪かった。傘を持つのとは反対側の右手が、降り注ぐ雨に濡れている。水を吸った袖が腕に貼りついて、重い。右手が濡れるのは、傘の外から伸びた別の手に掴まれているせいだ。一歩前を歩く男に、吉川の手首はしっかりと握られている。

 



 連日日付けの変わる頃に帰り着くような残業の日々にもようやく終わりが見えたものの、休日前夜の浮かれた気分は、突然降り始めた雨にくじかれた。コンビニで慌てて傘を買ったが、買ったばかりのそれを開こうとして手元が狂い、鞄を引っかけた挙句に水溜まりに落とした。おまけに、信号のない交差点でスピードをゆるめずに直進してきた車に接触しかけた。間一髪でかわした瞬間の反射速度と身のこなしを誰かに褒めてほしかったが、残念ながら通りすがる人もなく、車もそのまま走り去ってしまったので、褒めてくれるとしたら、降り続ける雨だけだ。至近距離で跳ね上げられた水がかかり、膝から下はどうしようもなく濡れた。

 

 目指していたのは、このところ足しげく通う古本屋だ。下手をすれば廃墟のように見える店は、こんな夜でもいつもと変わらず開いていた。古書店のくせに昼過ぎに開けて深夜まで営業する、変わった店でもある。いつも軒先に出されている投げ売りのワゴンや小型の陳列棚は雨模様の今日はしまわれ、屋号を記した置き看板だけが引き戸の外に据えられている。「古書シャノワール」と書かれたまわりを植物の蔓が取り囲んだ、凝った意匠をしている。ガラス越しに漏れる店内の灯りに照らされて、そこだけ暗闇の中に浮き上がって見えた。

 水気を店内に持ち込まないよう、軒下で慎重に体や持ちものを拭いてから中に入る。カウンターで書き物をしていた瀬尾が、すぐに気づいて「吉川くん、いらっしゃい」と声をかけてきた。あれだけ拭いた筈なのにズボンの裾から雨水が滴り落ちてためらったが、「そのまま、気にしなくていいよ」と言われ、店の奥へ進んだ。どこから現れたのか、この店で店主と呼ばれている大きな黒猫が近寄ってきて、吉川が落とした水滴のあとを順番に舐めながらついてくる。

「お疲れさま。明日は休み?」

 瀬尾が人懐っこい顔を向けてくる。それを見て急に気がゆるんだのか、吉川はここに来るまでの災難の数々を一気にまくし立てた。いつもは口数の多い瀬尾は、気の毒に思ったのか頷きながら黙って聞いている。車にはねられそうになったくだりにさしかかったときだけ、「大丈夫だった?」と心配そうに訊ねてきた。

「避けたから当たりはしてないよ。大丈夫」

「そうか、よかった。さっき向こうの通りで事故があったみたいだからさ。はねられた人も運転手も救急搬送されたって。すごい音でサイレンが鳴ってた」

 そう言って、南東の方角を指差す。吉川が来たのと同じ方向だった。視界の悪い今日は事故や事故未遂が多いようだ。

 休日に読む本を選んで会計してもらい、瀬尾が店を締めるのを待って、連れ立って外に出た。住んでいる場所が同じ方向で意外と近いと分かってから、休みの前の夜は時々こうして店に立ち寄っては途中まで一緒に帰るようになった。仕事が通常通りに終われば閉店まで話しこんだりもするが、今日は到着の時間が遅かったのですぐに閉店になった。仕事帰りまで客と一緒で煩わしくないかと思ったが、喋る機会の少ない仕事だし、この街に来てから同年代の知り合いがいないので、かえって話し相手がいるのは嬉しいと言う。吉川にとっても、深夜に散歩がてら連れ立って歩くのは楽しい。黒猫は、夜間は店の奥にある瀬尾の叔父の居住スペースで過ごす。本業の片手間に潰れそうな古書店を経営する男は、店番は甥に任せて日中はほとんど姿を見せないが、夜にはきちんと帰っているらしく、今日も奥の部屋から明かりとかすかな生活音が漏れていた。店との間を仕切る扉の奥に猫を誘導し、鍵をかけてから、店の表側の戸締まりをする。店の灯りが消えると、あたりは急に暗くなった。

「行こうか」

 傘を開いた瀬尾は、ごく自然な仕草で吉川の手をとった。手を繋ぐつもりなのかと焦ったが、そうではなく、手首をしっかりと掴まれた。連行されている気分に近い。訝しくは思ったが、瀬尾が当然のような顔をするので、問いかけるタイミングを失い、黙って従った。前を歩く傘の下に、瀬尾の背中と長い髪が覗いている。

 

 雨の中を、黙ったまま並んで歩く。いつもはあれこれ話しかけてくる瀬尾が、今日は一言も喋らない。雨は強さを増していた。

 途中、駅の方向から来た集団とかち合った。前を歩いていた瀬尾が立ち止まって道を譲り、吉川もそれに倣った。皆、一様に黒い礼服を身につけている。近くで仏事でもあるのだろうか。角から曲がって吉川たちと同じ方向になったため、集団のあとをついていく形になった。

 傘に溜まっていた雨水が一気に落ちたのか、手首に水のかたまりが落ちてきた。驚いて腕を引こうとしたが、瀬尾にきつく掴まれているためにそれもできない。瀬尾はなぜ今日に限って手首を握ってくるのだろうか。傘の下から見える瀬尾の手に目を遣る。黒いジャケットらしき生地の下から、真っ白いシャツの袖口が見えている。喪服のようだと思った。思った瞬間、そこにいるのが瀬尾なのか、急に自信がなくなってきた。瀬尾が今日こんな服を着ていた覚えはない。彼はいつもカジュアルなシャツやニットを身につけている。古本屋の業務は汚れやすく力仕事も多い。こんなきちんとした素材の上着や真っ白いシャツでは仕事にならない筈だ。前を歩く男の姿は、傘に覆われてほとんど見えない。それが瀬尾でなくても、吉川には気づく手立てがなかった。

「僕だよ」

 突然前の男が声を発して、それが聞きなれた瀬尾のものだったことに安心した。同時に、考えていたことが分かったのかと驚いた。どこからか黒い巨大な猫が現れて、足元にまとわりつく。店主だ。追いかけてきたのだろうか。黒い集団のあとに続いて、二人と一匹で連れ立って真夜中の道を歩く。

 急に、明るいところに出た。一軒の家の門に灯りがついている。黒い集団はその中に吸い込まれるように入っていった。花の香りと線香の匂いが漂い、読経の低い声が漏れてくる。誰かの通夜が行われているようだった。

「若かったのに可哀想にね」

「車で」

「雨で視界が悪かったから」

「ぐちゃぐちゃだったって」

 ひそひそと囁き合う声がどこからともなく聞こえる。表札を見て、足が凍りついた。「吉川」と書かれている。思わず門の奥を覗いた。開け放たれた座敷の奥に鯨幕が張られ、その前に菊を敷き詰めた祭壇が作られている。その中心の遺影の顔は、紛れもなく自分のものだ。

 瀬尾が、ようやく手をはなした。

「間違いなく連れて帰ってきたからね、吉川くん」

 傍らを見ると、労わるような瀬尾の目がそこにあった。

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雨道 傘立て @kasawotatemasu

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