第3話 こちらの名前


佐々木双葉。

私立橋月高校二年二組所属。帰宅部。


榮太郎がこの学校に配属されて初めて副担任になった去年、受け持ったクラスの生徒だった。黒い長髪にメガネをかけた彼女は、いわゆる大人しめの生徒で、少し病弱なところがあった。


副担任をしている中で特段交流があった訳ではないが、二年になってからかなり不登校気味になっていると聞いて、心配していた。





「……先生、なんでここにいるの」


緑のドレスに、透き通るような水色の長髪をした少女が、困ったように鉄格子の向こうを見下ろしている。

その表情も声も、やはり知っているものと同じで榮太郎は安心した。


「よかった、やっぱり佐々木だ」


「ていうか、よくすぐに分かったね。髪の色も違うし、眼鏡もしてないし、こんな格好なのに」


「そりゃ分かるさ」


「なんで」


「だって去年一年副担任だったろ?」


「いや、そういうことじゃなくて……。ていうか先生ってそんな感じだっけ?」


ちなみにメイド二人は既にこの場から去っている。正直かなり食い下がって、ロサなど去り際に「男はねえ、全員狼なんですよお嬢様ー!!」と叫んでいたが、半強制的に追い出されていた。そこまで不審者に見えるだろうか。


「とりあえず、一つお願いなんだけど『佐々木』っていうの禁止にしてもらってもいい? ここでは違う名前があって、色々とややこしいんだ」


「ああ。ウィスタリア? だったか? 勿論いいよ」


榮太郎は即答する。

その軽さに佐々木双葉――、あらためウィスタリアは苦笑した。


「ありがと、……聞き分け良すぎない?」


「何か事情があるんだろ? 郷に行っては郷に従うさ」


「だから聞き分けが良すぎるって。ねえ、本当に松野先生? 先生ってもっとオドオドした感じだったよね絶対。THE人見知りって感じの。別にオドオドしてほしい訳じゃないけどさ」


「ああ、ちょっとそれは言わないでくれ。結構悩んでるから」


「ふうん」


ウィスタリアはそう頷くと顎に手を当てて、しばし考え込む。

榮太郎は彼女が何か言うまで待った。


狭い独居房には頭上に細い採光窓があり、時折草の匂いを孕んだ風が吹いてくる。水色の透き通った髪が、かすかに揺れている。

あれはウィッグだろうか。それにしては艶やかで美しい。ドレスもよく似合っていて、まさにお嬢様然としている。


去年見かけた佐々木双葉は、少しぶかぶかの制服を着て、一人静かに本を読んでいるという印象だった。他の生徒と会話をしている所もあまり見たことがない。


「クローゼット、繋がったんだね」


ウィスタリアが上を指さして言った。


「やっぱりお前もあの場所から来たんだな。あれだろ? 旧校舎のロッカー」


「そう、授業サボろうと思って入ったらたまたま見つけたんだけど」


「――おいおい、授業をサボるなよ。そもそも旧校舎は立ち入り禁止で危ないんだ。そうだ、最近学校に来てないって田畑先生が」


「やーめてって、そういう話は。ここ学校じゃないんだから」


ウィスタリアが逆に責めるように言う。

榮太郎も「それはそうだ」と納得した。というか、どの状況で説教をしているという話だ。傍から見ればどう見ても榮太郎が叱られるべき構図なのに。


「それで、先生を出してあげたいのは山々なんだけど説明が難しいのよね。どうすればいいと思う?」


「さあ、俺はこっちの事情を全く知らないからなあ」


「そりゃそうだ。分かった。じゃあ、適当に何とかしてみる。もうちょっとだけここで我慢してもらっていい?」


「なるべく早く頼むよ。もう体のあちこちが痛くて」


ウィスタリアは一つ頷いて、入口へ向かっていく。

しかしすぐに戻ってきて、思い出したように言った。


「あ、もしここから出してあげられたとしても、元の世界にはすぐには戻れないと思う。運が悪ければ数週間、一カ月くらいはこっちにいないといけないかもしれない」


「えっ」


「それでも大丈夫?」


待ってくれ。それ、無断欠勤で教職クビになるんじゃね……?

と出かかった言葉を、榮太郎は飲み込んだ。くだらない心配をするのは後回しにしよう。とりあえず彼女に任せるのが、現時点で最善の選択であることに間違いない。

地獄のような採用試験を乗り越えて何とか勝ち取ったこの職をクビになったらマジで泣いてしまうかもしれないが、親にも呆れて縁を切られてしまうかもしれないが、そんなことを言ってもしょうがないのだから。


「分かった、大丈夫だ」


「……顔、引きつってるけど」


「大丈夫だ」





結構な時間が経った。

冷たく薄暗い独居房では体感時間も長くなっているのだろうが、それにしても随分待った。少なくとも3時間以上は経っている。

せめてスマホがあれば、もちろん誰かと連絡が取れるわけではないが、時間くらいは確認できるはずだ。クローゼットから出てきた時はまだ手に持っていたはずなので、あのロサとかいうメイドに没収されたのだろう。


「ふあああぁ」


榮太郎は大きなあくびを漏らす。眠い。

それもそのはず。ここに来るまで榮太郎は絶賛深夜残業中で、本来なら家に帰って寝ているはずの時間だ。8畳ワンルームの安アパートではあるが、それでもクッションさえない独居房と比べれば天国だ。あのせんべい布団がこんなに恋しくなるとは思いもよらなかった。


元の世界はちょうど日付が変わる頃。

しかし、採光窓からかすかに窺える空は少しづつ明るさを増しているように見える。異世界間でも時差というものがあるのだろうか、と取り留めもなく考える。



「マツノエータロー先生」


そこへ、低い大人の声で呼ばれたので榮太郎は驚いた。

しかも名前をフルネームで。


今度鉄格子の向こうに現れたのは、少しやつれた表情の男性だった。

垂れ目で、猫背で、少しだけ白髪が混じった紺色の髪。分厚い眼鏡をかけている。全体的な印象から老けて見えるが、実際は多分40代後半くらいだ。


「大変お待たせして申し訳ありません。メイド達の説得に少々時間がかかりまして、今お出しします」


「…………ええっと?」


「ああ、自己紹介もしておりませんでした。私、この屋敷の当主であるノワール・エーレンベルクと申します。事情は聞きました。色々誤解があったようですが、娘がお世話になった方をこのような場所にいれてしまい面目ありません」


ノワールと名乗った男は、そう頭を下げる。

しかし、榮太郎は事情がさっぱり分からない。

無事出れることになったらしいのは、喜ばしいのだが。


ノワールはそんな榮太郎の心中を察して、ニコリと微笑んで言った。


「きちんとご説明いたしましょう。しかし斯様な場所ではままなりません。まずは、私の部屋へ」


ポケットから鍵束が取り出され、ガチャリという音のあと、鉄格子の扉は容易く開いた。


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