少女と深夜の猫(KAC20234)

熊吉(モノカキグマ)

少女と深夜の猫

 深夜。

 寝静まった街並みは暗く沈み、点々と灯る外灯が、ちらちらと明滅しながら朧げに散歩道を照らし出している。

 遠くの方で、自動車が走っていくかすかな音が聞こえるが、それ以外は、トボトボと1人で寂しく歩く自分の足音しか聞こえない。


 そんな夜道に慣れた目に、煌々と輝く明かりが眩しく映る。

 ━━━コンビニエンスストア。

 24時間、いつでもどこでも営業してくれている、こんな時間に家から出歩いている[悪いコ]の心強い味方。


 そう。━━━[悪いコ]。


(私は、悪いコ)


 少女は物憂げな表情で顔を伏せながら、疲れ切った足取りでコンビニエンスストアへと吸い込まれていく。


 少女が店内に入ると、今の彼女の沈んだ気分などおかまいなしに、明るく軽快なメロディが奏でられる。

 その音色で来客があったことに気づいたのか、商品の仕出しを行っていた店員がちらりとこちらへ視線を向けてきたが、少女が軽く会釈するとすぐに元の作業に戻って行った。


 きっと、また来たのか、と思われたのだろう。

 そしてその店員にとっては、少女はそれ以上でも、それ以下でもないのだ。


 自分は、とるに足らない存在。


(いらないコ)


 少女の口元に、自嘲する笑みが浮かぶ。


 彼女の両親が離婚したのは、1年前のこと。

 以来、少女は両親のどちらとも、ほとんど顔を合わせていない。


 覚えているのは、ヒステリーを起こし、金切り声で怒鳴り合う姿。

 父親は会社の仕事で忙しく、残業続きで家庭のことなどかまう余裕がなく、母親は家庭のことなど少しも省みない父親のことを非難し、憎んでさえいた。


 ある日、夫婦喧嘩は白熱した。

 皿が割られ、平手打ちの音が響き、そして空中を様々なものが飛び交った。


 床に叩きつけられ、ガラスの砕けた写真立て。

 そこに写っていた、今よりもずっと若い頃の両親が、幸せそうに微笑んでいたのをよく覚えている。


 少女はただ、おろおろと、その光景を眺めていることしかできなかった。

 ただ、こんな風に、両親に喧嘩などして欲しくはなかった。


 やがて喧嘩は唐突に止んだ。

 父親は血の滲んだ唇を噛みしめて握り拳を作りながら震え、母親は殴られた頬を抑えながら床の上にへたり込んで行った。


 泣きながら母親が家を出て行くと、残された父親は、小さな声で言った。


「お前さえ、いなければ……」


 その言葉はかすかなものだったが、少女の耳には今も鮮明に残っている。


 家族が崩壊するのはあっという間だった。

 だがそれは、何年も前に、誰も気がつかないままに始まっていたものだと、そう少女は思っている。


 そう。

 自分が、この世に生まれ落ちた日から、始まったのだ。


 あれ以来、少女は近くに住んでいた祖父母の下へ引き取られた。

 最後に起こった喧嘩はあまりにも激しく、そして、その怒りの矛先は、少女へも向けられることとなったのだ。


 祖父母からは、もっとお互いに冷静になれるまでは、許可がある時しか両親には会ってはいけないと言われている。

 それも片親ずつ、別々の日に、数時間だけ。


 棚に並んだ商品の1つに手をのばした少女は、慌てて、自身のパーカーのそでからのぞいた火傷の跡を隠す。

 それから彼女が手に取ったのは、━━━猫缶。


 会計する際、少女はなにも言わなかったし、店員もなにも言わなかった。

 いつものことなのだ。

 会話することなどなにもないし、少女が買っていくのは、いつも猫缶ただ一つだけ。


 それも、一番安いもの。

 少女は代金を自動支払機に送り込むと、そのまま猫缶をひっつかんでコンビニを後にした。


 少女は深夜の、ほとんどの人たちが寝静まったこの時間が好きだった。

 そこには、誰もいないから。

 自分の姿を誰かに見られることも、他人の姿を見てしまうこともない。


 自分のことを惨めに思うことも、他人のことを妬ましく思ってしまうこともない。


 いつもの時間。

 少女が唯一、外に出る時間。


 お決まりの散歩道を、毎日、飽きもせずに歩き、コンビニに寄って猫缶を買う。


 向かうのは、近所の公園。

 少女が生まれる前からずっとそこにあり、まだ人前に出ることができていた時には、昼間によく遊んでいた場所。


 以前は、誰とでも仲良くなれるような気がしたものだ。

 実際に友達と呼べる相手もいたし、いつもこの公園で一緒に遊んでいた。


 今でも、たまに連絡をくれる相手もいる。

 だが、少女はいつも、曖昧な返事を返すだけ。


 とにかく、誰にも会いたくないのだ。


 やがて少女は公園の中の茂みの前に立っていた。

 自分以外には誰もいない、静まり返った公園は独特の不気味さを漂わせていたが、毎日この時間に猫缶を手に訪れることが習慣化している彼女は、まるでその場所、この時間こそが自分の[居場所]だとでも主張するかのような、穏やかな表情を浮かべていた。


 目の前の茂みをじっと見つめる。

 しかし、物音ひとつしない。

 いつものように。


 だが少女はそこに、自分が会いに来た相手が潜んでいることを知っていた。


 ぺりっ。

 少女が無言のまま、猫缶のフタを開いた瞬間だ。


 突然、茂みをガサガサとかき分け、少女の足元に毛だまりが飛び出してくる。


 猫だ。

 虎柄で、ぐりんと大きな両目に、半分ちょ切れてしまった尻尾、右側だけ垂れてしまった耳を持つ。

 性別は、オス。


 彼はまるで待っていましたと言わんばかりに飛び出してくると、少女の足元で行儀よく前足を揃えて腰を下ろし、じっと、こちらのことを見つめながら、ぺろりと舌なめずりをした。


 その仕草に、自然と少女の口元に笑みが浮かぶ。


「さ、お食べ。

 いつもの、安物の猫缶だけれども」


 その柔らかな表情のまま、優しい声で、穏やかに言うと、少女はその場にしゃがみこみ、猫缶をひっくり返して茂みを囲っていたコンクリートブロックの上に中身を乗せた。


 すると猫は、エサをがっつく。

 勢いよくかぶりつき、前足で自分の食事を囲い込むように踏ん張りながら、一心不乱に貪っていく。


「よしよし。お前にしかゴハンはあげないんだから、ゆっくりとお食べ」


 少女がそう呟きながら猫の頭に手をのばし、くしゃくしゃ、となでても、彼はおかまいなしだ。


 彼は野良猫だ。

 普段はこの辺りを徘徊しているが、この時間になると決まって、この公園の、この茂みの中に隠れて待っている。


 少女と彼は、長いつき合いだった。


 最初に出会ったのは、猫がまだ子猫だった時。

 彼は良く見るように段ボールに無造作に押し込まれた、捨て猫だった。


 たまたま彼のことを見つけた少女は、箱の中でみーみー鳴いていたのを拾って家に帰った。

 ずっと猫を飼いたいと思っていたから、家で育てるつもりだったのだ。


 しかし、両親は許可してくれなかった。

 もう何年も前の話ではあるのだが、すでに二人の関係はぎくしゃくし始めており、猫など持ってくるなと厳しく怒られただけだった。

 それにそもそも、少女が暮らしていたマンションは、ペット禁止だったのだ。


 少女は猫を元の段ボールに、泣きながら連れ戻さなければならなかった。


 だが、放っておくことなどできなかった。

 別の誰かが拾ってくれれば、などと願いながら、少女はこの公園の茂みの中で密かに彼の世話をしてやった。

 学校の図書室で猫の飼い方を学び、なんだかんだ理由をつけて家から子猫が食べられるものを持ち出し、自分の欲しかったものを我慢して溜めた小遣いも使って彼を育てた。


 しかし彼の飼い主は見つからず、結局、野良のままだ。


 あの時よりは大人に近づいた少女は、それがいけないことだったというのを知っている。

 それでも、今さらやめられない。


 なにしろ、彼は少女にとっては、最後に残った[家族]だから。

 自分が、[生かしてしまった]存在だから。


 その絆と責任を、今さら手放すことなどできなかった。


「お前は、暖かいね」


 エサを食べ終えて満足そうにごろんと寝転んでいる猫の背中をなでながら、少女は寂しそうに笑う。


 少女によって世話をされていた猫だったが、彼にとって、野良にとって、世間というのは厳しいものだった。

 猫好きな人間もこの辺りには多く住んでいるが、嫌いな人間も住んでいる。

 彼は邪魔者扱いされ、痛めつけられることもしばしばあったのだ。


 彼の千切れた尻尾も、折れた耳も。

 最初はちゃんとしていたのだ。

 ふさふさとした毛並みにすっかり隠れてはいるが、他にも、傷跡が残っているかもしれない。


 だが、彼は生きている。

 生きて、こうして、少女の手に体温を伝えている。


(私と、一緒)


 少女はパーカーのそでからのぞいた自身の火傷の跡と猫の姿とを見つめながら、彼がこの世界で唯一、自分の理解者かもしれないと思った。


 もちろん、猫はそんなことは考えていないかもしれない。

 少女のことを家族、友達くらいには思ってくれているかもしれないが、彼は「にゃー」としか鳴かないし、こちらの事情など知らないだろう。


 ただ、彼は少女の側にいてくれる。

 絶対の信頼を置き、その身を預けてくれている。


「それじゃ……、また、明日ね」


 しかし少女はいつまでも彼のことをなでてはいられなかった。

 まったく家から出ないよりはいいだろう、と、こんな時間の外出を祖父母は容認してくれているのだが、あまり帰りが遅くなるとさすがに心配される。


 実際、何度か騒ぎになりかけたことがある。

 少女が祖父母の家に引き取られた事情が深刻シリアスであるために、なにかあったのではないかと、すぐに不安に思われるのだ。


 猫は、立ち上がった少女に向かって、四肢を投げ出して地べたに横たわったまま「にゃー」と鳴いた。

 また明日、という言葉に、またね、と答えているような鳴き方だった。


 少女はその挨拶に微笑むと、踵を返し、来た道を戻り始める。


 こんな世界、なくなってしまえばいいと、すべてが終わってしまったらどんなに楽だろうかと、そう思うこともある。


 終わらせようとしたことも、ある。


 だが、その度に、一匹の猫の「にゃー」という鳴き声が、少女をこの世界に引き留める。


「私は、お前を捨てないよ」


 少女は口の中で小さく、だが、断固とした言葉でそう呟くと、暗闇の中に消えて行った。

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少女と深夜の猫(KAC20234) 熊吉(モノカキグマ) @whbtcats

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