九つの命だけ

黒川魁

最初で最後の命一つ

 世界がスローになった。そして、暗転。


 ああ、俺ここで死ぬんだ。走馬灯とやらは流れなかったがそう確信した。スマホの画面に流れる無数の人の声を見つめ、ぼんやりと帰路を歩いていた俺は目の前にぱっくり開いた闇のように暗い大きな穴に気がつかなかった。何年も歩いてきた道、目を瞑っても歩けると思っていたがそれは俺の慢心だったらしい。地面を踏むはずだった足は穴に吸い込まれるように消え、体が傾き異変に気がついた時には穴の中を落ちていく最中だった。俺はアリスじゃないし、うさぎを追っていた訳でもない。だから、この穴の一番奥にあるのは固く冷たい地面だ。


 俺は初志貫徹を胸に刻み、そっと目を閉じた。


────


 いくら待ってもやってこない衝撃に目を開けようとしたその時眩い光が下から俺を照らした。まさかマントル、なんて馬鹿なことを考えて体を丸めると自分はすでに落下していないことに気がついた。落ちていない、しかし光の方へ徐々に体が吸われる妙な感覚がある。薄い膜のの下からひっぱられるような、そんな感じ。


 「俺は、どうなるんだ……」


 呟いた声が想像よりも響いた。ここは穴の中ではない。光に眩んだ目と知らない感覚に次々襲われたことによる混乱で聴覚のみが頼りになるが他の何人かの人間の声がする。


 「無事に召喚されたようだな」


 「こちらの犠牲は……」


 「これで女子供が救われるなら安いものだ」


 俺はこの状況を知っている。何度も読み、憧れた展開だ。


 片目ずつ瞼をこじ開け、そっと周囲を見る。足元には魔法陣、そして俺を魔法陣を囲うように倒れている白いマントの男たち。薄暗くいかにも魔術を扱いますと言うかのような部屋の真ん中でたくさんの蝋燭と交互に立ち並ぶ古めかしい洋装の老人たちが俺を品定めするような目で見ている。


 「異世界召喚だ……」


 一度死を覚悟したはずの俺は心を躍らせ心臓をはやらせた。


────


 「よく来た勇者よ。その手で恐ろしい怪物たちに支配される荒廃した世界を救い、人類の永遠の英雄となれ」


 召喚された俺はあれよあれよとこの世界のものであろう簡素な服と武器防具を身につけさせられ、物語における最高権力者を体現したような老人に謁見(この世界において“王”と呼称するにふさわしい彼に敬意を払いこの物言いとする)し、大層な言葉と幾許かの金貨や食料なんかを持たされあっという間に外へ追いやられた。


 この出立ちと型式ばった流れ、これはネット小説にありていなファンタジーというよりもレトロな王道RPGだ。


 体のどこを触っても、何を念じても、ステータスは見られないし、大樹や岩を持ち上げられる怪力もない。こんなのって無しだ。俺は落胆した。数時間前までの、コンクリートジャングルを生きていたフリーターの俺と違っているところは「勇者」という職が与えられていることと、右腕にある見慣れない猫の紋章だけだ。


 「俺、猫アレルギーなんだけどな」


 紋章を意味もなく摩りながら先ほどまでいた建物と周りの景色を目に焼き付ける。中世風の、しかしどこか偽物じみた城と城下町だ。本物らしくないというか、ハリボテ感が拭えないというか。


 ならばこれは夢なのだろうか、ほんとうは死にかけている俺の魂が最後の抵抗に生み出した深層心理の最奥の幻想に過ぎない世界なのだろうか。そう思って渡されたチンケなボロ臭い大剣に自らの手首を滑らせると鋭い痛みが走り、じんわりを血が滲んでくる。ぼたぼたと地面にしみを作る己の紅とじくじくというオノマトペでは言い表せないほどの痛みに後悔とやはり現状もまた現実であるという確信を抱いた。


 勇者になるにはギルドがあると思っていたし、異世界とハーレムはセットだと思っていたし、チート能力と俺の頭の中にだけ聞こえる女神やなんかの謎の声は当たり前についてくる異世界での特典だと思っていたのになんだこれは。俺は所詮この世界でも地位を与えられただけの人間に過ぎない。


 それならばあのまま何事もなくインターネットの奴隷のまま家へ帰り、空調の効いた部屋でゲームをしながら怠惰に人生を浪費していた方が幸せだった。自業自得の痛みに感情が刺激され、そんな浅はかなことを考えながらうずくまり、半ばやけくそにぽつり呟いた。


 「帰りたい」

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