【百合】二人の旅、死への旅

永倉圭夏

第1話 お人好し

 十一月深夜二時。今年二十歳になった天塚あまつか凪沙なぎさと古賀愛玲奈あれなは白くて古びたセダンの後部座席にいた。ひどい癖っ毛で収拾がつかないくしゃくしゃのショート、大きな丸眼鏡、うっすらとそばかすの浮いた愛玲奈あれなは舟を漕いでいて、前髪をきれいに切り揃えたつやのあるストレートロングが美しい典型的美女の凪沙の肩に寄りかかっている。凪沙も愛玲奈あれなに身体を預けて寝てしまいたいのは山々だったが、そう言う訳にもいかない。

 案の定運転席の男が凪沙に声をかけてきた。歳にして四十絡みだがその割に頭髪が灰色がかって後退していた。そしてその彼はタクシーの運転手などではない。凪沙は身構える。


「しかしおみゃあさんら、がんこ遠くまで行くんだったよなあ。稚内?」


「函館です」


 凪沙は嘘くさいくらいの愛嬌を見せながら一言だけ答えた。稚内? 何聞いてたんだこいつ、と心の中で毒づく。しかもこれで三回目だった。頭の足りない奴には要注意だ。連中は自分の欲望でしか動かない。


「しっかしなんて言うの? 危ねえよぉ? 女の子二人でヒッチハイクだなんてさあ。どっから来たのさ?」


「島根です」


 嘘だ。


「ひゃあ、そんな遠くからなんてなあ。そりゃたまげたわ」


「ええ、ちょっと、色々込み入った事情がありまして……」


 明るくはきはきとして愛想のいい見た目は得意だ。男ってそう言うのに弱いんだろう。ばかな生き物。いいから少し静かにしてくれ。凪沙はそう心の中で呟く。


「とにかく俺が送ってけるのはさっきも言った通り裾野市までなんだわ。そのあとは自力でまあ頑張ってな」


「はい、それだけでもう充分です、本当に助かりました。ありがとうございます」


「ははっ、まあいいってことよ。困ったときはお互いさまってなあ」


 男は寂しそうに笑った。


「母ちゃんの葬式前に人助けしてやれたのはよかったわ」


 ぽつりと呟く。


「なんか功徳を積んだみてえでなあ……」


 その言葉が凪沙に突き刺さる。わたしら、いいや、わたしなんか助けてたって何の功徳にもなりゃしないさ。


 裾野市の裾野駅前にたどり着いたのは深夜から早朝に変わろうかという頃だった。

 車から降りる前、この名も知らぬ男性は財布やらグローブボックスやらから何か取り出してゴソゴソしていた。またしちめんど臭いことでもやらかすのではと緊張感が走った凪沙だったが、男性のとった行動は意外なものだった。


「ほれ、もってけ」


 運転席の男性はその真後ろにいる凪沙に一通の茶封筒を差し出した。


「なんか訳ありなんだろ。少ねえけど足しにしろ」


 凪沙は初めて神妙な面持ちになった。


「いえそんな、いただけません」


 本当ならその場でひったくってでも中をあらため財布にしまいたかったが、さすがにそうするには気が引けた。だが今の凪沙の言葉でその封筒を引っ込まれたらなんともやり切れない。だからもう一回勧められたら一も二もなく有り難く頂戴するつもりだった。


「まあ遠慮するなって。困ってるんだろ?」


 男性は人のいい笑顔を崩さず封筒を更に凪沙に向かって突き出した。


「ありがとう……ございます」


 思惑通りの展開になって、凪沙は安堵しながら丁重に封筒をいただいた。


「いやいやいいってことよ。これもきっと母ちゃんのお導きだ。あいつは困ってる人を放っておけない質だったからなあ、へへっ」


「いい、奥様だったんですね……」


 わたしも愛玲奈あれなもそんなものには絶対なれない。死んだ方がましだ。


「ありがとよ。そう言ってもらえると浮かばれるよ」


 すっと男性の眼が遠くを見つめる。


「どうかされたんですか」


「仕事先のさ、工場こうばで夜勤しててよ。機械に巻き込まれて死んじまったんだと…… そりゃもう形も判んねくらいぐっちゃぐちゃになっちまったんだとよ。俺たちにゃああんたらよりも若い娘が三人もいるってのに何もそんな死に方するこたあねえのによお……」


 凪沙は死んだ方がましだと思ったことをほんの少しだけ後悔した。

 凪沙が男性に何か声をかけようとしたその前に愛玲奈あれなが大きな丸眼鏡の奥の瞳を潤ませて震えるか細い声で男性に言った。


「どうかお気を落とさないで下さいね」


 少し涙を浮かべていた男性は驚いた顔をする。


「あれ、あんたしゃべれんのかい。びっくりしたなあ」


 愛玲奈あれなが笑い声で返すとみんなで少し笑った。

 男性はふと我に返る。


「さて寄り道なんかしちゃいらんねえ。うちに帰んねえとな。母ちゃんと娘たちが待ってる」


 どこか覚悟を決めた表情だった。それを見て凪沙も愛玲奈あれなも車から降りた。


「改めまして、今日は大変な時に本当にありがとうございました」


 珍しく真面目な顔で頭を下げる凪沙。


「ありがとうございました。おかげ様で本当に助かりました」


 同じく真面目な顔の愛玲奈あれな。男性の身の上に深く同情しているのが見て取れる。愛玲奈あれなはそんな女性だ。


「なんのなんの。困ったときはお互い様だ。だけどなあ、ヒッチハイクは本当にあぶねえから気をつけろ。この金使え。な」


 男性は凪沙に渡した茶封筒を指差す。


「はいっ、活用させていただきますっ」


 凪沙は少しおどけて言った。男性は笑って返したがその眼は凪沙の奥深くまでが見透かされているように思えた。


「じゃ、ここらでな」


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 男はサイドブレーキを操作して発車する。


 普通、凪沙も愛玲奈あれなもそのまま踵を返して車のあとなど見送らないのだが、今回ばかりは違った。白くて古びたセダンを見送る。すると車が駅のロータリーを出る前で停まり、男性がウィンドウから顔を出す。そして叫んだ。


「おーっ! あんたらあ! 幸せになれよお!」


 車はそのまま勢いよく走り去っていった。

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