1.鉄屑少女と空飛ぶ案山子(6/8)
『……ちっ』
キンカが空中で世界に見惚れているその傍らで、籠の男は聞こえよがしに舌打ちをした。彼は自分の足元に放った《炸裂》の衝撃と爆風、そして《身体強化》による跳躍を推進力にして、自分の体を地上の重力から切り離していた。誰もいない空へ、誰にも見つかることのない空へ繰り出したはずだった。
彼の体からは、一本の鎖が伸びていた。鎖の両端には金属の輪がつけられて、一方は男の胴体を、もう一方はキンカの手首を、それぞれ離さないようがっちりと掴んでいる。
伸ばした手は届かなかった。だが、転換術でさらに伸ばした鎖は、彼女に舞い降りた幸運を捕まえて離さなかった。
やがて二人の体は急降下を始め、先ほどの路地裏から通りを二、三跨いだ辺りの、建物の屋根の上に着地した。《炸裂》を細かく発動させることで落下速度を緩めたため、着地の衝撃は最小限に抑えられている。
せいぜいバランスを崩したキンカが、ごろりと大げさに転んだくらいなものだ。
『おい』
屋根の上で仰向けになり、大の字になって空を見上げるキンカに、男は苛立たし気に声をかけた。籠の下の表情はやはり見えないままだが、怒りを隠そうともしていないのは明らかだ。
『こんなものを使って無理やり着いて来やがって、一体何が目的だ?』
彼は自分に繋がれた鎖を手にし、キンカに差し出してみせた。彼の手の中で鎖は魔元素の粒子となって、風に流されて消えていく。転換した鉄を、転換後の姿のまま維持することすら難しいほどに、キンカは消耗しきっていた。
キンカは地上に着地してから、感じる暇もなかった右腕の激痛に襲われていた。全身を引っ張り上げられるだけの力とかかる負担を、ずっと右腕一本にかけ続けていたのだ。まだくっついている方が奇跡なのかもしれない。
手首に真っ赤な一本の線が跡になっているのが空中で見えたが、今ではその跡は青紫を通り越してどす黒く変色してしまっている。
『余計なことをしやがって、お前が来なければ、こんな中途半端なところに落ちることもなかったというのに……』
「つまり、ウチがいなければ、本当はもっと遠くに飛べたってことっスよね」
彼の愚痴に、キンカは息も絶え絶えになりながら、彼の胸の内を言い当てた。
少し得意げに笑みを浮かべるキンカに、男はもう一度舌打ちした。
『探偵ごっこでもするために、わざわざ俺に着いて来たのか? あいにく俺は、お前のお遊びに付き合ってられるほど暇じゃないんだ』
「それがこっちからしてみれば、お遊びでもなんでもないんスよ」
キンカは地面に手をついてゆっくりと起き上がり、きっと嫌な顔をしたであろう籠の男に向かい合う。右腕の激痛はまだ尾を引いて、転換術の使用による倦怠感が全身を蝕むが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「助けてもらった相手にこういうことを言うのはちょっと気が引けるっスけど、さすがにあなた、色々とおかしいんスよね」
籠の男の正面に立ったキンカは彼にびしっと指をさす。鬱陶しそうにその指先を見つめる籠の男の視線を気にすることなく、キンカは順番に言葉を並べていった。
「あんなに強い転換術が使えるんなら、お金の稼ぎ方なんてもっと他にあったでしょ。なんでわざわざ通り魔みたいな真似して、路地裏をこそこそしてたんスか? 今だって顔は隠しっぱなしで、話はしても声は出していないし、何よりさっきのことは他言無用って、それもう怪しむなっていう方が無理っスよ」
『黙れ』
「あと服装とか、全身隠しちゃってもう完全に不審者のそれっスよ」
『黙れと言っているだろうが』
「あとあなた、痛みを感じてないでしょ」
籠の男が音のない声を荒げたところで、キンカが不意に核心を突いた。籠の男が彼女の言葉にぴくりと反応したのを見逃さず、キンカはさらに続ける。
「さっき空を飛んだ時、ウチの右腕をあなたの体に繋いでたっスよね。あの時ウチはめちゃくちゃ痛かったし、今も右腕はこんなになっちゃってるっていうのに、どうしてあなたは平気な顔していられるんスかね?」
キンカは自分の腕を掲げてみせながら、籠の男の反応を見た。彼女の元々白く細かった腕は、今は見る影もなくどす黒く変色した肌は、空を飛ぶ彼に引っ張られてできたものだ。
ならばその逆、キンカの体を引っ張り上げ続けた彼の体も、彼女の腕と同じように悲鳴を上げるべきなのだ。
だが、彼は空中を舞っている間も、屋根の上に着地してからも、キンカと話している今ですら、あるべき痛みに全く反応を示していない。
『……この程度、どうということはない』
「ふーん、じゃあ、もう一つきかせてほしいんスけど、そのナイフ、いつまで刺さったままにしておくつもりなんスか?」
キンカに指摘され、籠の男は舌打ちして、腕に刺さったままだったナイフを引き抜いた。瘦せぎすの男に刺されたナイフは、人攫い達を倒している間も、こうしてキンカに問い詰められている時も、ずっと彼の左腕に刺さったままだった。
彼がナイフを引き抜くところを見ながら、キンカは彼が刺された時のことを思い返していた。嘲笑と共に振るわれたナイフが、ざくりと小気味のいい音を立てて左腕に突き刺さる。
あれはそもそも、刃物が肉に突き刺さる音ではなかった。
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