桜夜道
あしわらん
第1話
「そんな処で何してやがる」
男の声が背中を刺し、ビクついて手を滑らせた。
下駄が脱げ、膝小僧を打ち、顔面が湿った板にぶち当たる。薄い着物の破ける音がした。と、ほぼ同時に固い黒土に尻もちをつき、背骨がズンと直に腰を突き刺す。悶絶して息もできない。
塀を乗り越えてお歯黒どぶに掛かる橋を渡ろうとしたのだが、見事に失敗。
「おいおい、勘弁してくれや。今のは俺のせいじゃねえぞ。そんなとこ登ろうとしていた御前が悪い」
男の言うことも聞かず、
「ひぃ……っ!」
娘は飛びのきまた尻もちをつく。
上等な下駄が再び詰め寄り、上から粗暴な声が降る。
「ひぃってなんだ、ああ? 俺は化け物か?」
黒い番傘が舞い飛んで、娘は男に顎をつかまれ、クイと上を向かされる。
「あ、ああ、あ……」
舌を抜かれたように言葉を失いながら、自分を覗き込む顔に不意に吸い込まれそうになる。
乱暴な口調の似合わぬ、漆黒の瞳と柳眉の優しい
娘は一瞬この男に見惚れた自分にぞわりと悪寒を覚えた。それを武者震いで振り払う。
おれは姐さんたちとは違う――。
奥歯をギリッと噛みしめる。
今更何をびびっとんのや。死ぬ覚悟で見世を抜け出し、お歯黒どぶまで来たんちゃうん。ここで切られたところで、その方が楽ってもんやないの。
「ん? 御前、どっかで見たことがある顔だな」
と、男は見世の通りから連れに呼ばれ、そちらを向く。
「
「すまん、悪いが用が出来た。先に行っててくれ」
侍の右手が動く。
切られる――!
反射的にギュッと頭を抱え、膝を縮めて身を固くした。
ポン。
降ってきたのは刀ではなかった。
拳を己の平手に打つ音。
「その着物、
「なんや、御侍さん、可笑しなことを。真夜中なんて何処にあるん?」
恐る恐る体を開きながら、精いっぱい虚勢を張る。
「成程、言われてみれば、何処だろうな」
深夜だというのにこの街は昼よりも明るい――。見世先の赤い提灯、格子の奥に灯る明かり、絢爛な着物を纏った遊女。そして小判と金糸の刺繡で飾られた布団。煌びやかなものすべてが、この街に巣くう闇を掻き消してしまう。
おれは嫌だ。こんな処にはいたくない。おれは嫌だ。
桜士郎はあたりを見回して夜を探すような素振りをする。そしてかぶりを振ると、娘に着物が触れ合う程近付き、黒目がちな瞳を覗き込む。
「この街にはなさそうだ。しかし、この中にはありそうだな」
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