第2話
私は、対外的にはいわゆる優等生としてみられており、自身の成績は、少なくともこの学校の中では基本的に首席を維持していた。しかし、それはあまりにも危うい橋を渡っているようなものであった。学校での勉強以外での取り柄が特にないうえ、試験勉強で精神をすり減らし、しばしばストレスで腹痛になることも多いほど、余裕のない首席。とりわけ、苦手な数学は全体の教科の中で足を引っ張る存在であった。
Nが神になって1ヵ月弱がすぎた中学3年の6月末。授業後の数学補習の試験で、私は初めて不合格となり、居残りになった。日が長い時期とはいえ、時計の針はどんどん進んでしまう。一方で、その試験に合格したNは、早々と帰って行った。
その姿を目で追っていると、なぜだか大きな屈辱感が私に襲いかかった。自分の中の、大切な何かが崩れた音がした。放心状態のまま、なんとか補習を終え、帰宅の途についた。かなり薄暗い。歩きながら、私は涙を数滴流してしまった。近くにいた婦人が、
Nに負けた? そんな馬鹿な。いや、私は、もともとNには遠く及ばない人間である。Nは神だ。でも、同時に私が、Nにはないものを一つだけでも持っているという矜恃を糧に、やっと生きているということもまた、事実であった。Nを神格視して悶々としながらも、なんとか自分を維持できたのも、自分は自分、というところがわずかでもあったからだ。
それが、一気に崩壊した。もっとも、首席の状態とは総合的に見ただけのことであって、数学では以前からNのほうが上で、もともと遠く及ばない。しかし、点数という概念的な差ではなく、「Nは帰る、自分は居残る」という視覚的な差を突き付けられてしまった以上、そしてなんとか保ってきた自分自身の
秋、私は繰り返しの挫折に見舞われた。水ぼうそうに罹患し、直後の定期試験では首席陥落。英語検定不合格、出場した大会で敗北。Nが首席ではなかったのは、かろうじて唯一冷静さを保つことができた要素だった。隣の教室にいるNを物陰から垣間見ては、どうして70号はあんなに穏やかで安定しているのだろうと思った。
彼と自分を比べるのは無意味だということは分かっているのに、どうしても気になる。決して超えることのできない高い高い壁。私のほうが試験の成績がいくらよくても、 Nのように、何にも動じない精神力と、多くの人から信頼される人望にはとてもかなわない。私は、神に感服し、畏敬の念を抱いているものの、それはある種の屈服でもある。Nは、私にとっての救いでもあると同時に、容赦なく自分のみじめさを突きつける刃でもあったのだった。
Nのことを見るだけでジェットコースターのように乱高下を繰り返した私の心の傷を癒す機会となったのが、九州への修学旅行であった。学校以外の場所でNを拝むことができる可能性に、半ば期待し、半ば失望していた。それでも、Nで傷ついた私の心は、またNによって浄化される。それほどまでに、私はNに依存していた。Nのいない世界は、私には考えられなかった。
隣のクラスであるNを修学旅行中に見かけたのは、熊本から島原へ渡る高速フェリーのデッキ上だけであった。Nとの距離は決して近くはなかったが、Nのキリッとした目ははっきりととらえることができた。私の目は釘付けになった。夕陽に照らされた海と、デッキの柵に手を置いて海を眺めているNの横顔はとても美しく、はかなく、神々しかった。
私は気がついていたらNに向かって手をあわせて拝んでいた。ただ眺めることなど、とてもできない。周りの生徒よりも一回り背が低いのに、私にはNにだけ後光が差しているように見えた。あまりの神々しさに目の前が真っ暗になり、身の危険を感じて目をそらす。あのまま見つめていたら、頭が変になって海に飛び込みかねないところだった。
私はしばらく頭を冷やして、もう一度Nを見た。見たというよりも、目が火傷しないように視界に入れた。フェリーを追いかけるように、おびただしい数のカモメが飛び交う。Nや多くの生徒が、カモメに食パンの耳を与えていた。私の目はデッキの柵から伸びたNの手の先ばかりを追っていた。そして、餌をもらったカモメも目で追った。私にとっては、そのカモメも特別なカモメになった。懸けまくも畏きNから直接お恵みを賜ったカモメ。選ばれし、徳のついたカモメなのである。あのカモメは、Nのまぶしいご尊顔を、間近で見たのだろう。その後は大丈夫だろうか。あまりに畏れ多くて失神し、海の藻屑と消えたりはしないだろうか。とはいえ、死ぬ直前にNのご尊顔を拝めるとは、逆にこの世で最も尊いことなのではないか。私はもう少し生きて、もう少しNの姿を拝んでいたい。それでも、やはり私はあのカモメになりたい。それは贅沢な願望だろうか。
季節は巡り、晩秋から冬になろうとしていた。Nを観念的にしかとらえていない私は、やや肌寒い日の朝、ある事件に直面することになる。
私がこれといった目的もなく廊下を歩いていると、突然背後から何者かが私を呼び止めた。振り返ろうとしたが、首を回し始めるか否かというところで、自分の肩に重みを感じるとともに、相手側の顔が視界の右側からぬっと現れた。紛れもなくその顔はNのもので、あまりにも至近距離にNがいることに私は混乱し、頭が真っ白になった。Nは、私の肩に手を回して笑顔でこう言った。
「定期試験って、再来週の月曜から?」
「う、うん……」
この程度の軽い会話で、Nは嵐のように去っていった。絶句した。私は、ただただ、廊下で立ち尽くした。前回にNと話したのはあの夢以前のことだった。すなわち、私はあの夢を見てから初めてNと会話したわけである。私をひどく混乱させたのは、観念的にしかとらえていないNの、生身の人間としての姿である。あれほど遠くで
こんなことがあってはならない、あるはずがない。何かの間違いだ。悪い夢を見ているんだ。ありとあらゆる禁忌が、一瞬で全て破られた。
Nが人間として存在していることをかねてより疑っていた(というより、その事実を受け入れたくなかった)私は、紛れもないNの人間としての姿を受け入れることができず思考が停止し、その後深く深く悩まされることになった。これ以降、私はNが現実に存在する人間であるということを図らずも意識せざるを得なくなったのである。私のN信仰はそれほどまでに重症であったといえるだろう。
当時、自分にとって最も究極的な理想というのが観念化されたNであった。このことは、私とNとの間に交流がないからこそ可能なものであった。しかし、現実にNと会話してしまった。現実として存在するNと観念に存在するNが脳内を錯綜し続ける。結局のところ、観念を追求しても際限がない。だから私はこれまで何においてもどれほど優れた結果を残そうと、観念としてのNが脳内を支配し、満足することは決してなかった。逆に常に不満足で、劣等感すら感じていた。「なぜ自分はNではないのか」、と。
ところが、N本人にとれば私も一応同級生である。この事件によって、何かの弾みにでもNと私が話す可能性があることが示されてしまった。話すたびに混乱しきった私に直面して、Nはどう思うだろうか。私がNを理想として追求するあまりにNを神格化し、同級生同士という本来の対等な関係を維持できない場合、逆に私はNに対して無礼ということになる。これでは本末転倒以外のなにものでもない。同じNをめざすならば、Nという観念的な神ではなく、Nという現実的な友であるべきだ。そして、Nは崇拝の対象ではなく、尊敬の対象であるべきだ。やっとそう悟ったのは、Nと同じ高校に入学する直前のうららかな春の日であった。その悟りは、まるで長い冬眠の末の目覚めのように思われた。
とはいえ、いったん神格化したNを友人として考えようとすることは、そう容易いことではなかった。高校でも一目見て心が揺さぶられるのは相変わらずであった。私はとにかく人間としてのNを追求しようとした。私が長い時間をかけて考えた末の結論が、あの悟りであったから、簡単にそれを捨てるわけにはいかなかったのである。そして、人間としてのN、尊敬の対象としてのNを強く意識しようとしていたときにふと疑問に思ったのが、Nの人生観についてであった。
私はそれまで観念的な部分でしかNを見ていなかった。だから、その人の思想を象徴する人生観すら、私は知ろうとはしてこなかったのだ。いざ現実的なNに向かおうとしたとき、Nの生きざまというのはどのようなものなのか。勉強もできる、運動もできる、手先も器用で常に周りには人が集まっている。それなのに、Nにはそれらのことを鼻にかけたり逆に
梅雨のある朝、私はNを渡り廊下に呼び出した。私が呼び出した理由は他でもなく、Nの人生観を問うためだけであった。
Nがこちらに歩いてくる。人間とは分かっていながら、神々しかった。使い古された表現だが、その表現どおり後光が差しているように見えた。無意識のうちに自分の制服を正す。神々しく見えたものの、Nは人間であった。以前の自分ならば、どんどんと迫ってくるNに混乱し、頭が真っ白になっただろう。しかし、いまは違う。人間としてのNを受け入れることがどれほど大切なのか、あの体温でもって知らされた。だから観念的なNという、私を最も幻惑させる虚像がちらついても、私はその大きな怪物に呑まれない強さを獲得していた。その強さは、現実的なNに向き合おうとする私の大いなる覚悟の産物であった。
「なに?」
Nがこう言って近づいたとき、Nの方からわずかな風がこちらに吹いてきた。Nの歩行による風なのか、自然の風かは分からない。その風は梅雨独特の湿り気を含んだ重みのある風で、その風に乗ってNのどこか甘く攻撃的なにおいも一緒に漂ってきて、私を一瞬しかめ面にさせた。そして、Nが人間であることを改めて実感した。
「突然なんだけれども、自分の人生って何なんだい」
私はいきなり本題に入った。あくまで無機質を装い、そして無表情であるよう努めたためである。しかし、この藪から棒の問いかけに対してすら、Nは動じなかった。
「自分の人生ねぇ。……中途半端。何もかも中途半端。勉強はできるといわれている。運動もできるといわれている。でも、自分は中途半端としか思っていない。自分は何かのプロにはなれないということ。なんか、むなしい……ね」
私はNの意外な弱さを見た気がした。もちろん、それは謙遜に他ならないのかもしれない。しかし、見た目も心も能面のNが、その最後の言葉に本音を少しだけ漏らしたのを私は聞き逃さなかった。そしてNは、私の目を見るわけでもなく、小雨の降る外を見るわけでもなく、ゆっくりと目を閉じて、そのまま次のように語った。言葉を選びながら、私にというよりN自身を説得させながら。
「運命という言葉があるけど、俺はそんな言葉は好きではないね、嫌いだ。それは、この先の人生を決めつけている乱暴な言葉だと思う。……運命は壊すためにある。だから、自分の人生は運命を壊すためにある。……そうだろ?」
最後にカッと目を見開いてこちらを向いたNを見て、私は胸が詰まった。私はあれほど無機質・無表情を装っていて、大きな怪物に呑まれない自信を持っていた。しかし、Nの口からこのような言葉が出るなど、夢にも思っていなかった。この瞬間、Nの人生観がきわめて適切にN自身の口から発せられ、観念としてのNは完全に崩壊した。私はこの現実としてのNを再び観念としてのNにしてはならないと強く感じた。
Nも人間であるから、何かしら弱みを持っているのは当然のことだろう。しかし、Nは自分の弱みをよく理解し、それを自分の原動力にしている。このことは、弱みがない人間(仮にいるとして)よりもはるかに尊いことなのかもしれない。
二階の位置にある渡り廊下からは、次々と登校してくる色とりどりの傘の花がよく見える。その花々は灰色の暗い景色の中でひときわ目立つ色彩を放っている。空から垂れ下がる灰色は、天上と地上との間を支える柱のようであった。雨は音もなく降りしきる。ほとんど霧雨のようである。私は次に出す言葉も忘れ、先ほどのNの言葉を反芻していた。傘の花々はこちらに近づいているが、それを除けば朝の時間が止まっているように思われた。それほど、Nの言葉は衝撃的であったのかもしれない。
「じゃっ、そういうことで」
私が返答につまっていると見えたのか、Nは何事もなかったかのように去っていった。私は一人になってもなお、傘の花を目で追いながら、ぼんやりとその場にたたずんでいた。だんだんと気持ちが落ち着いてきた。
Nは確かにものすごく尊敬すべき人であるが、考え方は自分とはかなり異なっている。私は運命というものに抗うつもりはない。というよりも、運命というものは抗うものではなく、選ぶものだと思っている。そして選んだ先にはまた運命を選択するところがあり、場合によっては行きたかった方に戻ることもある。それが運命だと思っていた。彼は破壊主義者なのか。ふだん静かでいて孤高な存在に見えるが、孤高な存在だからこそ破壊することもあるのだろうか。ともかく、決して私の理解できない領域にNはいる。
まあ、彼の考えが分からないのはそれでよしとしよう。それにもまして私自身驚いているのは、私がNについて理解できないのに、理解したつもりになって感動している自分がいることである。その感動は虚なのか。感動している自分は自分以外のものなのだろうか。Nの前にいた自分と今の自分が別人に思えて仕方がなかった。
確かに異質である。しかし、本当に別人なのだろうか。どんなに理屈に合わなくても、自分はこの自分である。ある考え方を貫かなければ、その人の人格は崩壊し、その人がその人でなくなるというのだろうか。一貫した思想を持つことは望ましいとされているが、それを追求するあまり、一貫性の欠いた自己に出会ったからといってその自己を否定することは、それこそ本末転倒なのではないか。
霧雨は止んできて、傘の花が閉じられてきていた。厚い雲のなかでかろうじて雲が薄い部分は、その向こうに太陽があることを気づかせている。私はその渡り廊下から立ち去り、とりあえず教室に向かう。壁に囲まれた校舎に入ると、やや濡れた廊下で自分の足音がキュッキュッと反響した。
これまで私はNを見ることによってそれまでの自分を全て見失い、新たな自分がそこに現れ、Nを神格視していた。同じ自分ではあるが、全くの他人であった。Nを見るときに現れる自分は、いつもの自分まで混乱に巻き込んでいた。そのくせ、いつもの自分からは影響を受けることなく、独立していた。いわば、いつもの自分という領域は、Nを見るときに現れる自分の「奴隷」であったといえよう。だから、ごくごく平凡な日常の中で突如としてNへの奇妙な信仰心が生まれたわけである。
もう一人の自分の存在は、もとの自分の存在も含めて、自己の生々しさを如実に表す。それは、ふだん自分が主体的に動いているときには気づかれないものである。自己というものは実際に自己がどのようなものであるかを知らぬまま、主体として活動するのである。それは時として自分を本当に見失う危険性もはらんでいるのだろう。Nを信仰していたとき、私は逆の意味で――すなわち、主体自体を失うという意味で――本当に自分を見失っていた。しかしそれを乗り越えた今、私は確実に私自身を直視する機会が増えているように思う。
Nは、神から特別な友に転じようとしていた。
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