深夜散歩考

荒川 麻衣

深夜に散歩し、自分を振り返る。

どうしても眠れない。


最近朝4時に起きて、

なるべく日中起きるように努めていると、

夜9時には眠くなり、

夜10時には寝てしまう。


そして、深夜2時に目が覚めてしまった。


誰もいないと信じて、そっと戸を開け、夜の街へ出る。


今、私は、エリート、選良、

選ばれし人の道を外そうとしている。


もしもまともな人生を送っていれば。

いや。

もしもあの時、犯罪被害にさえ

あわなければ、

もっとマシな人生を送っていたのではないだろうか。


高校時代の傷。


正確には、まだ14歳だったときに

私の人生は終わった。


ある日、稽古場に行くと、

顔が良くて、個人的に好きな男の子が。


私はこう聞いた。


ファンの男の子と付き合ってるって噂になってるよー。

その男の子の学校中で噂が広まっているよー。


と。


自分の好きな男の子から、

へらへらと、

「先輩まじ、ないっすわー」

という意味だったんだと思う。


芸能界は、

正確に言うと、

論語の文章を墨で塗りつぶしたあの時から、

上下関係なく、

平等だと言いながら、

言葉で、拳で、殴り合う時代がやってきた。


戦争中は

上官のせいとか、

日本軍の持っている性質のせいだとか、

そういった単純に、

分かりやすい原因が、

いじめ、人権侵害をかたどっていたと言うのに。


大東亜戦争、

連合軍側は太平洋戦争と言う。


太平洋と言うのは。


私はこう聞いた。


太平洋は、地球の海の中で1番荒れる海である。

故に、その海がいつか収まりますように、と言う意味を込めて、

太平洋と名付けた、と。


つまり、

大東亜戦争も太平洋戦争も中身は一緒である。


個人的には、

そうだな。


島原天草の乱を、

第一次世界大戦だと見立てている。


その後の、

明治維新は第二次世界大戦である。


何故かと言えば。


私は、こう聞いた。


フランス側は幕府支持であった。

世界の国の中で、

軍事力を持っていた国々は、

この日本国内での争いで、

武器を提供していた。


だから。

骨まで残らない、

悲惨な戦争であった。


そのため、骨すら残らなかった、

大地に、新たな建物であったり、

公園だったりを、建てた。


その跡地が、

上野恩賜公園である。


東京国立博物館は、

あの下には、

おそらく、明治維新で倒れた人間の魂が眠っている、と。


大学の卒業論文で、

あの場所の歴史を学んだから知っている。


本当に伽藍が消失したかどうか、

東京国立博物館から、

寛永寺に至るまで歩いたことがある。


異常とも言える位長い道のりであった。


要するに、

あの戦争の後はいまだに残っていて、

歩いてみれば、

硝煙の匂いがする気がした。


毎月聞いているラジオで。

私は、こう聞いた。


とある俳優が、とある作品で、

土方歳三を演じていた、と。


だから、

上野戦争、土方さんはどんな思いで見つめていたんだろうかと、

ぐるぐる考えたことを思い出す。


ここは水戸。


ここは大勢死んだ。


大勢死んだので、本来は、

水戸藩の人材が、新政府に貢献していても良かったはずだ。


だが。


押し付けられたのだ。


桜田門外ノ変、と言うクーデターを、

あれは、2.26事件と同様、

エリート軍人による、

反乱であった。


まずもって、

大老の警備計画が簡単に漏れるはずはないのである。


ゆえに、権力者側が手引きした、と考えるのが自然であろう。


現在の日本と言うのは、

加害者と被害者がくっきりと分かれており、

加害者であれば人間ではないので、

どれだけ痛めつけても構わないという論理である。


要するに、スーパー戦隊にたとえれば、

加害者を糾弾する側は、

ヒーローであり、英雄であるため、

悪者である相手側を倒してもかまわない。


そう言った単純思考で、

割り切れるほど、

世界と言うのは。

いや、人の心というのは。


ディバイド、

引き裂くことはできないのだ。


と、こんな言葉を、深夜の街の中で、

かつて戦争があった、

かつては武士屋敷があったのに、

今ではぽつりぽつりと跡地の碑が

見えるだけで、

それも、推測の文章が書かれている。


深夜であるため、死者たちは静かである。


残念ながら、私には霊感があり、

死者たちは、いつも昼間や夕方に現れる。


街灯があちこち明るいから、

死者たちは出づらいのかもしれない。


とは言え、昔に比べれば、

自分をこのように引き止めようと、

死者たちが、もうない肉体を、

必死に権限させるために、

霊体を肉体へと触れさせるために、

かなりの努力を用いて、

必死で、私の両腕に巻き付き、

お願いだから、死なないでと

懇願することは、ずいぶん減った。


男になろうと、わたくしは努力した。


女の体を持ちながら、男になるということは、神の領域に踏み入れることである。


わたしはこう聞いた。


男役はどこにもいない男である、と。


私もそう思う。


結局のところ、肉体は成長をやめ、

男にも女にもなることにならないまま、

ぼんやりと生を過ごしてしまったので、

いまだに人間にもなれず、

付喪神と化したこの身体を、

もてあましている。


持て余している。

君の手で 切り裂いて

遠い日の 記憶を


かつて高校時代に聴いた曲が、脳みそにこだまする。


私はこう聞いた。


自分と同い年生まれで、学年がひとつ上の俳優が、高校時代に見ていたアニメの、原作となった漫画を、舞台化した作品に、ロイ・マスタング役として、出るという。


あー、その頃の君は、こちら側にいなかったんだね、と、画面の中の君に向かって叫ぶ。


私はこう聞いた。


同窓会と言う、舞台作品を、全国放送する、と。


それも、その俳優さんのつぶやきを見て、知ったわけだが。


深夜の散歩では、いろいろなことを思い出す。


そのつぶやきを見て、1週間楽しみに過ごしていたのは言うまでもない。


その楽しみを打ち破ったのは、

義理の母である。


配信部屋と言って、文字のやり取りで、みんなでワイワイ過ごしましょう、と言う企画を、その舞台の関係者が立ち上げたので、その部屋で知らない人たちとやりとりをしていたところだった。


突然の電話。


その電話は切れた。


言い訳のように。


私は、こう聞いた。


特に用はなかったんだけど、

どうしてるか気になったんです、と。


画面の中では、話が盛り上がっていたし、黒い箱の中では、俳優たちが役を演じているところで、要するに、冒頭部分っていうのは、見逃したらその後の話がわからなくなるので、絶対に最初からみたかったのだが、その楽しみよりも、私のことを優先してくださいと言う意味だったのだろう。


高校時代の私は、はっきり言って、カリスマだった、と自負している。


今で思い出すのは、握手してください。

生徒会会長になってください。

なんで生徒会会長さんに出なかったんですか?


恐ろしく身勝手な、整った骨格を持つ、上級国民、選民の卵。


無責任で、傲慢で、その美しさが、一瞬で失われることを知らない者たち。


その頃読んでいた、恩田陸は、その当時、通っていた高校の、卒業生と言う話だった。


つまり、彼女の本に出てくる高校生は、自分は今相対している彼らなのだと思った。美しく、一瞬の輝きを放ち、そして普通の人間になっていくものたち。


その意味を、当時は知らなかったのだと、20年経って気づく。


同級生でも、高校の頃から変わらない人はわずかだろう。


おそらく、社会に揉まれ、蹂躙され、育児に追われ、選良意識をへし折られ、その輝きはもう無いのだろう。


ちなみに残念ながら、私はあの頃より肉体をとられたが、見た目だけは高校生に似ているらしく。


私はこう聞いた。


高校生なんですか?


1年間、リモートと、対面で稽古をした仲間からの言葉なので、説得力はあるが、一体なんだと思ってたんだ。私を。


庭だぞ、ここ。


子供の頃から遊んでいた場所だぞ、ここ。

だから戸惑ってるんだよ。


基本大部屋だったんだもん。


その他大勢だから楽屋が、あそこじゃないと落ち着かないんだよ。


なんで入学式とか卒業式とか、たまの勉強会で使うここが待機場所になったのかなー。


やりづらいんだけどー?


なお、約20年ぶりの舞台だと言う事は彼らは知らなかったらしい。


本番10分まで声かけてくる共演者って、どうなのよ。


気がつけば、水戸芸術館の野外劇場のほうにいた。


ぐるぐると考えながら歩いた。すでに、こんなところまで来てしまったらしい。


死ぬまでに1度でいいから、この舞台に立つのが目標である。


水戸の野外演劇は、もう何年も行われてないはずだ。


そもそも、1997年の時点で、

野外劇場はがらんとしていた。


そこから音楽会であったり、

300人の第九であったり、

要するに、あそこは、

ある程度の力量を持った人たちの

腕を競う場であり、

ときには。


仮面ライダー鎧武で、

ダンスバトルの舞台として。


その舞台に立ったものが、

盗癖(とうへき)が治らず、

窃盗により、芸能界を引退したと聞いた。


結局のところ、私が見た古き良き日本と言うのは幻で、

おそらく先輩たちの中にも、

軽度の犯罪者であったり、

性犯罪者であったり、そういった道を外れたものがいろいろいたのだろう。


そう言った、道を外れたものであっても、腕が良ければ雇ってくれる時代は終わった。


今大切なのは、自らの体と心を、1時間あたり、何千円と買ってくる人に対して、ニコニコと出資者に笑顔、振りまく仕事であり、職人芸など、絶滅の危機である。


職人肌の私には、辛い時代である。


ただただ、演技していれば楽だった時代はもうないのである。


とは言え、昔から、役者と言うのは、体を売ってなんぼって言うところがあって、体を売ってはいあがってきた人を、私は否定しない。


正確には嫌いだけど、果たして、演技を見せることと、裸を見せること、どちらが恥ずかしいかと問われれば、

演技を見せることだなと即答できる。


推しに対して、自分の演技と自分の裸どちらを見せろって見せろって、

脅迫を受けたら。


裸で勘弁してもらいたい。


それぐらい演技をしている姿を見せるのは嫌だ。


とは言え。


残念なことに。

記録に残ってるんだよなぁ。


映画の画面で見られる位にはでかいんだよなー。


スマートフォンで確認できる位、

私の演技がバッチリ写ってる作品があって、推しが見ていてもおかしくないって言うのがちょっと恥ずかしい。


情けない位弱い身体と、

見せられない位醜い肉体を

引きずって歩く。


深夜に歩くようになったのは、自分が呼吸していると言う罪悪感である。


生き残ってしまったと言う罪悪感から、毎日のように、こうやって、家を抜け出して、親たちが起きないように、静かに起き出して、静かに、毎日、水府橋の上から、水面を眺める。


明日死のう、明日、死のうとして、次々と新しい夜が明けて、気がつけば、人生と言う脚本の、最後の1行へとたどり着いてしまった。


人生と言うのは、まるで歩く影でしかない。


芝居なんて、つかの間の幻なんだ、こんなもの、早く消えてしまえばいい。


その灯をけして下さい。

どうかこの悪夢を終わらせてください。


舞台の上からマクベスが叫ぶ。


しかしながらこの芝居は終わらない。


よげんがあるからだ。


つまり、森が動いて、聖なる母から生まれた男に殺されるまでは、マックスは舞台の上にいる必要がある。


森が動くとはどういうことだろうか。


ちなみに、先行訳は全て間違っている。


私はこう聞いた。


原文では、イエスキリストの母は、父親なしで子供を産んだ、とある。


しかし、何かの手違いで、イエスキリストの母は処女で子供を産んだ、と間違って伝わった。


だから、一部のキリスト教関係者の中には、処女で子供を産めると思っているものがいる、と。


ばかばかしい。


男とまぐわずに、どうやって子供を産むって言うんだ。


だから、マクベスっていうのは、人が静かな悲劇だからと言って、苦しそうに悲しそうに、重苦しく演じる必要は無い。


あれは、子供の作り方がわからない男が、処女で子供を産めると信じた男が、この世には、そんな男は存在しないと思い込んで、自分は殺されるはずがないと思い込む悲劇である。


世の中にそんな男いるのかよと思うが、明治時代以降、日本では処女信仰というのが広まった。


いちどでも男とまじわったら、魔女である。


1度でも男を誘惑したら魔女である。


魔女裁判において、魔女かどうかは、施政者の胸先三寸で決まったのだ。


だから、フェアイズファウル、ファウルイズフェアは、いいは悪い、悪いは良いじゃないんだよ。


そんなものは魔女狩りにあった私がよくわかっている。


高校時代の私は、魔女として、1歩歩けば、魔女なんだろうと、大げさでなく、私にはそういった針のむしろに見えたんだよ。


14歳から19歳までの5年間、私はこう聞いた。


お前は魔女だ。


ただただ舞台立っていただけなのに、目線があったから、僕のこと好きなんでしょ。


と。


舞台立っている人間は、

観客のことを気にしてると思ってるのかお前だ。


気にするわけないだろ、一般人が。


たとえ好きな芸能人が来てたとしても、私は人と目を合わせるのが苦手でね。


だから、中学校1年生からずっと、度数の低いメガネをかけ続けてたんだよ。


そのせいで、大人になっても、毎年毎年どんどん視力が下がっていくんだよ。


いつ見えなくなるんじゃないか、いつか見えなくなるんじゃないか、常におびえているよ。


あの時、中学校の時、目にあったメガネをかけていれば、こんな風に、分厚い眼鏡をかける必要なかったのかな。


要するにさぁ、様々なことを、

私は諦めた。


14歳時に人生終わって以来、私の人生は余生にすぎない。


いつ死んでもおかしくないように準備をしていた方が良いのだろう。


本当は、安楽死の申請を出して、地球の負荷を1人でも減らした方が良いのだろう。


私が死んでもいくらでも代わりはいて、私が死んだ後でも、世界は動く。


この、死にたくないと言う希望は、傲慢な欲望であり、7つの大罪よりも重い罪である。


そんな独り言をずっとぶつぶつと繰り返せるのは、この辺にもう、死者しかいないからだ。


まるで、戦争期の夜のように、今では深夜に歩きまわるような、奇特な人間は減った。


深夜に歩くような私のような人間を、神様は許して下さるだろうか。


疲れ切った、私は、風呂に入らないまま、布団に潜り込む。


どうかまた、夢を見られるような、穏やかな日々が私に、訪れますように。

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深夜散歩考 荒川 麻衣 @arakawamai

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