春霞に酔う

嗤猫

 生活音の静まった居間を通り抜けて、静かに玄関へ向かう。ドアを開けると、バイパスを抜ける自動車の走行音が風の音の様に近付いては去って行く。

『春の暖かい風が心地良くなって来ました』

 朝のニュースが告げる程日中も、ましてや陽の温もりも冷めた夜々中は首を竦めるのには充分な寒さだ。

 歩いて15分のコンビニへ行く道に背を向けて、安い合皮のコートのポケットに手を突っ込んで旧街道沿いを進む。


 代替わりで建て直されたお洒落なポーチを持つ建物と、旧世代のコンクリートブロックの塀とが入り混じった住宅街を抜けると唐突に音が消える。


 ふ。と息を吐くと、ようやっと酸素が肺を満たした気がした。


 毎週末に行われる顔合せと称した、母の恋人との食事会は、食材の如何に関わらず胃に重くドロリとした重さを残す。

 自分は特に気にしていないので、再婚でも何でもどうぞと言ってあるのだが、馴染むまでと云う良く分からない過程を経てから籍を入れるのがケジメなんだそうだ。

 正直、父親の顔も憶えていない位遠い昔に死別して、仕事に恋にと邁進していた1日2時間しか顔を合わせなかった母がどうこうしようと何の感慨も無い。

 そろそろ成人も近く、独立する相手に家族ごっこをしたい?意味が分からない。

 家族の情は無いけれど、専門性の高い大学に無借金で通わせてくれる位の資金援助をずっとしてくれている母に感謝の気持ちはあるので、幸せになってくれれば良い。

 

 歩道から敷地に入ると、角の取れた御影石が敷き詰められた参道が続く。3メートル程先の同じく石で出来た鳥居を潜ると、パツンと背後で何かが切断された気がして、ふわりと身が軽くなる。

 淡く霞む様な白梅と、凛と色付く紅梅が少しだけ果実の酸味を纏って甘くふわりと来訪者を歓迎してくれる。

 削りに削られて、鎮守の森とは名ばかりの、其れでも社を囲む木々に隠された空間は清廉で安心で落ち着く。

 

 小さな神橋の急勾配を登って、中心で座り込むとデニム生地を通してヒヤリと硬質な冷気が尾てい骨から背骨を登る。

 振り返らず、立ち止まらず、躓かず。


「あぁ、君か。こんばんは」


 石の欄干越しに、耳朶に沁み入るような柔らかな声が掛けられた。

 敷地内には社務所兼住居があって、神主さんが住んでいる。小さい頃は特別な力があると信じて居たけれど、防犯カメラの存在を笑いながら教えてくれたのは、先代さんだったっけ。

 人の居ない家のヒタヒタとした暗闇に耐え切れず駆け込んだこの神社で、初めて見付けて貰った。それからずっと、必ず見付けてくれるこの場所は心の拠り所だ。

 

 自販機のコーンスープが手渡され、ヨイショと立ち上がるのを手助けしてくれる。

 縁側には草臥れた座布団が2つ。


「此処に就職しちゃえばいいのに。簿記受かったンでしょ?会計士にならなくても何時でも募集中だよ」

「本気にしますよ」

「本気本気。書類仕事大事!」


 他愛の無い話をして、温かい炭水化物が胃に溜まると、やっと消化器官が動き出す。


「また、来ます」 

「何時でもおいで。そうだ。裏の桜も綻び始めたから、帰り科に見てあげて」


 神楽堂の脇から裏門へ歩くと、門被りの対の腰折れた桜。成る程、端の小枝に薄紅の花笑み。

 次は、月灯りに発光する様な見事な夜桜を見物したい。


 シャンと背を延ばした背中に、そっと枝の様な節榑立った大きな手がトン。と添えられた気がした。


 霧の様な細かな風に乗って、春の息吹が冷たい夜気を混ぜ、季節が廻る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春霞に酔う 嗤猫 @hahaneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ