第十八章 保護

 今月は宋昱軒が不在でアシスタントに不慣れな明廷深が働いているから、冥府のカウンセリング部屋はしばらく営業を停止している。ウチに来る常連客も揃って訪ねてこないから、ことのほかヒマで静かだ。あまりにヒマだから、以前のカウンセリング記録をめくり始めた。


「祐青、白黒無常、衡業、奕容、蒼藍、廷深、昱軒……」私は一つ一つに目を通しながらついでに最近起きたことを整理して、クライエントの心境を変えた出来事を再び記録に書き込んだ。


 民祐青はすでに自分の弱さを正視できるようになった。白黒無常は最近とんとカウンセリングに来ない。どうやら宋昱軒はあの二人の潜在的な爆弾とうまくやっているみたいだ。明衡業がこの一か月の休暇をどう過ごしているのかもわからない……すぐに私は元奕容のカウンセリング記録を整理し始めた。彼のカウンセリング記録はかなり特殊で、黄ばんでザラザラした紙が自由帳の最初のページに挟んである。私がカウンセリング部屋に下りるときはいつも霊体状態だから(実のところ、自由帳を買うのにあまりお金を使いたくはなかったからなんだけど)、カウンセリングで使う物は全部宋昱軒が私のために準備した紙で、書き終わると宋昱軒に綴じて本にしてもらっている。これは台東で偶然廷深に出会ったあと、宋昱軒に冥府から持ってきてもらったからだ。


 私は黄ばんだ紙を開くと、備考欄に目立つように『宋昱軒あのバカヤロー!』と書いた。私はまず疑問を抱き、そのあとすぐに思い出した。あのとき元奕容が口を滑らせたから、内境は冥官を仕留めて楽しんでいると知ったんだ。さらにひどいのは、宋昱軒は私にそれ以上の質問をさせなかったことだ。


 今もまだ冥府への口出しが許されないのか。内境に奇襲を受けたあのときの武術大会やそのあと内境の魔法師に拉致された事件さえ、誰も私にその後の顛末を教えてくれようとしない。まるで誰かが緘口令を命じたみたいだった。


 あまりに水くさいじゃないか!私が人間だということを抜きにすれば、私と冥官の違いはないはずでしょ!殿主たちはまだ私を部外者扱いしているのか──殿主といえば、私は閻魔のためにカウンセリング記録を一冊追加するべきなんじゃないの?じゃないと、最近はカウンセリングの回数が頻繁になってきているし、質問の内容もどんどん複雑になってきているみたいだし──

「もしお前の弟と俺が水に落ちたら、誰を助ける?」


 思い出すと笑えるけど、威厳のある殿主がこんな、カップルの間で起こる感情的な恐喝みたいな質問をしたのは一種類だけじゃなかった。ほかの人間はさておき、他人に対する私の信頼というものは、高校三年のときにとっくにトイレに投げ捨てて海まで流してしまった。でも私の弟は家族だし、さらには家で唯一私に霊視能力があることを信じてくれている人間だ。大事な人間と大事な冥官、私はもちろん大事な人間を選ぶ──


 大事な人間と大事な冥官……


 人間と冥官……


 私は頭を振って考え続けないようにした。彼らが教えてくれないのには当然彼らの理由があるから、私もむやみに推測するわけにはいかない。


 それは彼らの私に対する信頼だし、私の彼らに対する信頼でもある。私はこの暗黙の了解を守るべきだ……私は本棚から残りのカウンセリング記録を引っ張り出すと、一番奥にほとんど開いたことがないと思われる異常に真新しい本を見つけた。


 私は表紙に書かれた名前を見て、すぐになんでこのカウンセリング記録がこんなに新しいのか思い出した。なぜならこのクライエントは、仮にもう一回死んだとしても自分の中のトラウマと向き合おうとはせず、カウンセリングにも二度と来なかったからだ。でも自分の中のトラウマに向き合いたくないからといって、それでトラウマが消えるわけじゃない。


 同様に、二度とカウンセリングに来たくないからといって、心理カウンセラーが自ら会いに行かないというわけじゃないんだ。


 私はいつものようにバスに乗ると、クライエントと顔を合わせる前にまずはどう切り出すかをシミュレーションした。それに、さまよえる亡霊サービスセンターのほかの人たちを、なんとか理由をつけて追い払わなきゃならなかった。けどさまよえる亡霊サービスセンターに到着したとき、私は半透明のガラス戸越しにまったく人払いの心配をする必要がないことがわかった。サービスセンターの中には、クライエント本人以外に人がいなかったからだ。


 晋雅棠は以前と同じように端正で凛々しいお団子ヘアーをしていたけど、今日はいつもの落ち着きがなかった。このさまよえる亡霊サービスセンターの責任者は明らかに忙しく、眉間にしわを寄せながらカウンターの上の物を凝視していた。私はヤモリみたいにガラス戸に張り付いてこっそり覗いていたけど、晋雅棠は顔を上げようともしなかった。ひょっとしたら自分一人しかいないからか、責任者の身分で自らカウンターに座るなんてめったにないのかもしれない……私が知る限り、その仕事の八割は公文書だからね。


 晋雅棠が私を見たらすぐに出てきてドアを開けてくれるだろうから、まだ私には気づいていないはずだ。私はそっとガラス戸を押し開けた。数少ない『幽鬼を驚かす人間』になれると思ったちょうどそのとき、ガラス戸のラッチが図らずも『ギィギィ』と摩擦音を立てた。


 女道案内人の動きは残影しか残らないほど素早く、椅子を後ろに押しやって定位置に着き鞭を取り出して振るう、そのすべての動作を一挙に行った。もしドアをもう少し開けていたら、その鞭はガラス戸じゃなく私の顔に直撃していただろう。顔が潰される惨劇は免れたけど、それでも晋雅棠が振るった鞭はガラス戸を粉々に砕いた。


「──棠ああああ!」思わず頭を抱えて地面にしゃがみ込むと、ガラスの破片が全部私の体に降り注いだ。その叫び声で晋雅棠はようやく正気に戻り、ドアを開けたのがいったい誰なのかを注意深く確認した。


「佳芬?佳芬!」晋雅棠はそれが私だとわかると、冷酷な殺し屋から一転して慌てふためきパニックに陥った。「どうしてここにいるんですか?ケガはありませんか?廷深は?」


 もう、いったいなんでこんなときに私のお供がどこにいるのか聞くんだよ?全身ガラスまみれだから私の動きはいささかぎこちなく、それがまた雅棠の心配を誘った。


「佳芬、大丈夫ですか?」


「大丈夫……いくらかガラスの破片が服の中に入っただけ。むやみに動き回れないけど」胸や背中にかかわらずガラスの破片が服の中で引っ掛かっているから、おそらく少しでも動いたら皮膚に刺さるだろう。そうなったら晋雅棠の罪悪感は一気に上昇することになる。晋雅棠は大急ぎで私を自分のオフィスに連れていくと、私の胸と背中に貼りついているガラスの破片をそっと払い落とし、それから私の服を脱がせて脇で振り払った。晋雅棠は床に散らばったガラスの破片を見て、動きがいささか硬くなった。


「安心して。ケガはしてないよ」


「どうして私が何を考えているかわかったんですか?」


「私はあなたの心理カウンセラーなんだから──当たり前でしょ!あなたたちが人間を傷つけるのは重大なタブーなんだから、鞭が私の顔に当たりそうになって気が咎めないわけがないじゃない?まさか、いい気味だって毒づきたかった?」


 女道案内人は私の暴言に唖然とし、すぐさま同じような激しい口調で怒りを吐き出した。「いい気味だというのはその通りですよ!自分がただの普通の人間だとわかっているのにいつも私たちの周りをうろついて!もし私の鞭が当たっていたら、今頃魂が引き裂かれて痛みのあまり地面をのたうち回っていましたよ──」


 時に、適度な毒舌と怒りは注意力をそらすのにとても良い方法だ。もちろん、これは相手を十分理解している前提の上に成り立つんだけど。


「私のほうこそ、なんでそんな大げさな反応なのか聞きたいよ!」私は深く息を吸うと、晋雅棠よりももっと大きな声で怒鳴った。「サービスセンターに入ってきた全員を敵扱いしてまずは鞭を打つっていうの?ここはサービスセンターじゃないのか?さまよえる亡霊が入ってくる度にこんな挨拶をするんなら、白黒無常に彼らを連れていってもらうほうがよっぽどマシだよ!」


「本来、私たちサービスセンターがサービスを提供するのはさまよえる亡霊だけです。人間が侵入したらすべて内境と見なして追い払うのは、合理的なやり方だと私は思っています!」


「今まで私がさまよえる魂を連れてきたときに、攻撃したことなんてなかったじゃないか!」


「以前の状況は今ほどひどくはなかったんです!」晋雅棠が怒鳴り終わると、その目にすぐ恐怖の色が浮かんだ。まるで何か、言うべきではないことを言ってしまったみたいだった。晋雅棠はすぐにそれをごまかし、ぎこちなく話題を変えた。「やめましょう。それで、今日はいったいどうして会いに来たんですか?」


 また知らなくていいことを聞いてしまった。冥官との暗黙の了解でこれ以上深くは追及できないから、私はとりあえずここに来た目的を白状するほかなかった。私がカウンセリングを強要しに来たと聞いた途端、女道案内人の美しい顔があっという間に崩れた。


「部下とのつき合い方は至って健全ですから、まったくご心配には及びません」


ジャンリンは冥府にカウンセリング部屋ができたと聞くやいなや、すぐにサービスセンターの全員を連れてお願いしにきたよ。あなたが過労で二度目の往生を迎えないようにしてくれ、って。それでもまだ私が心配する必要はないと言う?一回カウンセリングをしてから再診しないだけじゃなく、たまに部下の話題に触れても全部別の話題にすり変えられて、これで本当に私が心配する必要がないと思う?」


 そのときは冥府のカウンセリング部屋がオープンしたばかりで、抱えているクライエントの数はまだ二十を越えてなかった。突然十人の集団がイワシみたいに冥府の部屋に押し寄せてきて、私を見るなりひざまずいて頭を下げた。床のスペースが足りなくて、ソファーと机の上に自分の場所を探すことになった。まるでヤクザの若者たちが過ちを犯してボスに詫びを入れているみたいだった。そのとき私の机の上でひざまずいていたのが、まさに晋雅棠の助手の唐江霖タンジャンリンだった。


 この事実が、これはきわめて厄介なケースだということを証明している。


「江霖は考え過ぎなんです。ちゃんと彼らに仕事を任せたのに──」


「書類業務だけでしょ?」


「私たちはさまよえる亡霊サービスセンターですから、主な業務は迷える魂を導くことです。戦闘は元来私たちの得意とするところではありません」


 この言葉を武術大会ベストエイトの口から言われても、まるっきり説得力がない。あのときは途中で内境に邪魔されて、本当に残念だった。そうじゃなきゃ準々決勝はすごく見応えがあっただろうし、決勝戦は間違いなく神々の戦いみたいに壮絶なものになっていただろう。


「でもたまには怨霊に遭遇することもあるでしょ?もっと練習の機会をあげないと──」


「前回は一緒に怨霊の対処をさせたじゃないですか!」


「単に私がたまたま現場にいたから、あとでつつかれるのが嫌で部下に対処させたんでしょ!しかもあの日は昱軒と白黒無常もその場にいたんだから、彼らに何の危険があるっていうのよ!」晋雅棠が再び反論する前に、いちばん気にしていることでその口を塞いだ。


「あなたの部下は?」


 私は冥官が外見の偽装において、『血の気が失せる』という細かい芸当までできるということを初めて知った。晋雅棠は三秒間フリーズすると、身を翻してカウンターに戻り水鏡に向かって大声で叫んだ。


「江霖!江霖!現場の状況を報告せよ!」


「先輩、今のところまだ交戦はしていません。チュウ判官とチェン判官がまだ交渉中ですが、状況は芳しくありません──」


「くそっ。ここを守る必要がなければ……」晋雅棠はブツブツつぶやくと、すぐにまた水鏡に向かって釘を刺した。「もし本当に戦闘が始まったら、私が指示したことを肝に銘じておけ。安易に死ぬようなことは避けろ……」


 ここまで聞いて、私はこっそりとさまよえる亡霊サービスセンターを後にした。晋雅棠の心は外出している部下に集中していて、私という人間をまったく相手にする気はない。もし今カウンセリングを提案なんかしたらあまりにもKYだし、もしかしたら部下を守りたいという晋雅棠の気持ちがさらに深まるかもしれない。それは逆に、カウンセリングの目的とは反対の方向に進むことになる。


 今日のところはひとまず戦略的撤退だ。私も今日の膨大な情報を整理する時間が必要だしね。


 ……以前から徴候があるとは言っていたけど、『実際の状況』を聞いてしまうとやっぱり頭が痛い。冥府は上から下までこんな大事を私に隠そうとしていたのか。一体全体、冥官たちはみな嘘をつく技術が人より優れていると思っているのか、それとも私が簡単に騙されるバカだとでも思っているのか?


 私は両指で軽く鼻筋をつまんで、こうささやいた。「三十分……裏の通りにある天公廟に行って線香をあげて、ついでに廟の広場で台湾ホットドッグを食べよう」



晋雅棠

初期診断:部下に過保護な上官

治療効果:前回提案した、タスクを段階的に分散するというやり方には耳を貸さなかった。今回もそうならないことは明らかである。時間があるときに再度クライエントと議論を行う。要観察。

備考:冥府は本当にクソったれの集まりだ

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