夢野久作×童話

紅月

瓶詰のキャンディー

拝啓、お父さん、お母さん


お元気でしょうか。とても心配なさっていることを知りながら、お二人の声に応じなくて、ごめんなさい。私たちは、もうお二人の元には帰れません。私たちの手は、大きな大きな罪に染まってしまったのです。


私たちは、魔女を、殺しました。


お使いに森へ入ったあの日、私たちは道に迷いました。暗くて、雨風も強い夜でした。歩いて歩いて、疲れ果てたところで、森の奥に”あの”家を見つけたのです。


魔女が住んでいるという噂の、お菓子の家……

童話で出てくるように本当にお菓子で出来ているわけではなく、質素なログハウスでした。お話に聞いていたものですから入るのは随分と躊躇われたのですが、このままでは死んでしまうことは分かりきっています。一晩でも過ごせればと私たち兄妹は中へ入ってしまいました。


暖かくて、明るくて、奇麗な室内。疲れ切った私たちにはパライソのようで、魔女のこともスッカリ忘れてふかふかのベッドの中に飛び込みました。


どれくらい寝ていたのでしょうか。私が泥のような重い眠りから抜け出すと、兄さんはすでに目覚めておられて、隣のベッドはもぬけの殻でした。建物の中にもいません。私が慌てて兄さんの名前を呼びながら外へ出ると、兄さんはお庭で木の間から注ぐ陽光の中で、神様に祈りを捧げているようでした。

私が兄さん、と声をかけると、兄さんはゆっくりと振り向いて私に微笑みかけました。その笑顔のお寂しいこと……そして、何よりも美しかったこと…


「…なんだか、僕は、ここから帰りたくないんだ」

「私も」

私は即答してしまったのです。…お母さんに怒られて拗ねていたのでしょうか。

__あるいは、もう魔法に陶酔していたのかもしれませんが……


昨晩の雨で洗われた森と、儚く美しい兄さんの禁断の調和を知ってしまった私には、どうしても、家に帰ろうという気も、そもそもここから出ようという気も起きないのでございました。


それからは、刺激はないけれど平穏で暖かい幸福な日々でした。幸いにも、魔女が育てていたのか家の周りには食べられる植物が沢山ありましたし、動物もおりましたから、食べるものに苦労することはありませんでした。あの熱い火掻き棒も、とても硬い鞭もありません。お母さんとお父さんには申し訳なく、寂しくもありましたが、不思議と帰る気にはなれませんでした。

私たちは幸せでした。何も、憂いなどないはずだったのです。

……そう、思っていたのです。


魔女の家で暮らすようになってからしばらくして、私の中に小さな違和感が生まれました。兄さんが私に優しく笑いかけてくれるたびに、私の心の内に、奇ッ怪なわだかまりが出来るのです。毒々しい…しかし、決して不快ではない、不思議なしこりは日を追うごとに大きくなっていきます。そうして、それを自覚するたびに、ぞわぞわと悪寒がして、自分たちの関係が暗く沈んでいくように見え、畏懼こわくなるのでした。

そのうちに、兄さんの雰囲気もどことなく変わっていくようでした。ある時は救世主キリストのように輝かしく、また、ある時は獣のように卑しく……。私を見つめる奇妙に熱を持った瞳の美しかったこと…恐ろしかったこと……。


私たちはすっかり魔法の手中に堕ちてしまったのでした。魔法が心の中に入り込んで、蝕んでゆきました。


抱いている感情が何か、私たちは互いに分かっていたと思います。けれども、私たちは、今までの生活を変えることはありませんでした。手をつないで森を散策して、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て…。言葉にしたら今手元にあるすべてが崩れてしまいそうで、二人とも、互いの、そして自身の一挙手一投足に怯えていたのです。


神様に縋ることでどうにか均衡を保っていた私の心は、ある日とうとう決壊してしまいました。兄さんに触れるたびに、言葉を交わすたびに、心臓がどくどくと跳ねて、胸がいっぱいになっていくのが、恐ろしくて恐ろしくてどうしようもなくなったのでした。お母さんにもらったロザリオを思い切り握りしめ、吐くように泣きました。ロザリオのガタガタと不均一な表面で、私の手は真っ赤っかでした。

そのまま夜の森に飛び込もうとする私を、兄さんは躊躇いながらも必死でお止めになりました。

「離してっ…!!」

自棄になって叫んだときの兄さんの傷ついた顔と言ったら…あまりにも申し訳なく、悲しくなったものですから、今でもくっきり記憶に残っております。

その日から、私たちの仲はそっけなくなりました。たった二人切りのこの森で、何よりも大切な互いを傷つけたくなくて……触れるのが、喋るのが、顔を合わせるのも億劫で……。


禁忌を破った私たちがどうして結ばれることが出来ましょう。どうして二人で幸福に暮らすことが出来ましょう……

私たちの心はすり減っていきました。


そんな私たちに、追い打ちをかけるように”来客”がありました。


私が慰めにお庭の植物の世話をしていたとき、珍しく茂みががさがさと音を立てました。茂みから現れたのは女性……服は汚れ、髪も乱れて、異様な雰囲気でした。


魔女だ、とすぐに悟りました。

きっと遠出から帰ってきた魔女が私たち兄妹を追い出すために現れたに違いない……あるいは、魔法にまんまとかかった私たちの様子を見て嘲笑いに来たに違いない…そう確信しました。


「菴輔r縺励※縺?k縺ョ?滓掠縺丞ョカ縺ォ蟶ー繧九o繧」

よく分からない支離滅裂な言語で話しかけられましたが、そんなの構っていたら殺されてしまうに決まっています。私は急いで家の中に入り、鍵を閉め、兄さんに事の次第を話しました。どん、どん、と魔女が扉を叩く音が聞こえる中、兄さんは落ち着いていらっしゃいました。


「わかった」

兄さんはそう言って、部屋にあった猟銃を抱え、私に下がっているように言いました。魔女と対峙した兄さんの後ろで控えた私はゾッといたしました。いつもの静謐で美しい後ろ姿が…どうも怒っているような、楽しんでいるような印象を受けましたから……。


「菴輔r縺吶k縺ョ!√d繧√↑縺輔>??シ!!」


兄さんが猟銃をバンと撃つと、不思議な言葉で喚いていた魔女は崩れ落ちました。彼女の胸から流れる血が芝生を赤く染めていきます。


兄さんは一息ついて私の方を振り向き、にっこりと微笑みました。その姿からは先ほどまでの恐ろしい雰囲気は霧散していて、いつもの、…以前の、やわらかく優しい繊細な兄さんの姿がそこにありました。


それから私たちは、魔女の死体を捌きました。背高のっぽの魔女は、どこかに埋めるにしても大きすぎたのです。

服を除いた魔女の体は瘦せ細っていて、まるで乾涸びた鹿のようでした。だから躊躇などなくなったのでしょう。


腕を鋸でぎりぎりと削って切り落とすと、こんなミイラからは想像もできないくらい沢山の血が溢れてきました。骨も硬くてすんなり通りませんでした。

栄養失調でしょうか、奇妙に膨れた下腹に鋸を入れると、ドロドロと気持ちの悪い液体が血と混じって流れ出てきます。臭気が辺りを包み、鼻が曲がりそうです。


今、この手紙を読んでいるお父さんは、きっと気を悪くなさってこの手紙を閉じてしまおうとなさっていることでしょう。

けれど、目を逸らさないで、この手紙を最後までお読みください。これが魔女への……


………お母さんへの、唯一の弔いでございますから……


目を抉って取り出すと、生気はないけれど、どこか薄暗い美しさが、目玉を包み込んでおりました。

歯はまるで赤子のように美しく、白く、奇麗な宝石とも形容できました。


最後に、ぐちゃぐちゃに掻き回した死体を、私たちは二人がかりでオーブンに入れました。…人が数人すっぽり入ってしまうような、大きなオーブンに…。


オーブンの番を兄さんに任せて、魔女の火葬を待っているときでした。私は魔女の服を漁ってみたのです。


ポケットから出てきた、青い石の嵌ったロザリオ……

……自分の懐から取り出した血塗れのそれと、一切の相違の無い、この世に二つだけの手製の偶像………。


お母さんのものに違いがないのでした。

私は耐え切れずその場にへたり込んでしまいました。不思議と涙は出てきませんでした。あまりにもショックで…そんな気すら、起きませんでした。兄さんが物音に気付いてこちらに来るまで、私はあっけらかんとして十字架の咎めに縛られていました。


小さいころ、お父さんとお母さんによく「悪いことをしたら魔女が現れて食べられてしまう」と叱られたのを覚えています。

それは正しかったのだろうと思います。


”悪いことをしたら、何もかもが魔女に見えてしまう”のですから……


私たちは、もう元には戻れません。お父さんとお母さんと一緒に、天国へ行くことも出来ないでしょう。


今、兄さんがオーブンの前で待っています。手紙を書く私を、待ってくれています。

私たちは、これから、お母さんを燃やしたオーブンで、二人一緒に死にます。ジィッと予熱したオーブンがきっと、骨の髄まで私たちを燃やし尽くしてくれるでしょう。

お父さん、お母さん。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。この親不孝者二人を、どうか、どうかお赦し下さい。

悪魔に堕ちるしかなかった私たちの運命を、お矜恤あわれみくださいませ。


最後に。

私たちは最期まで、純潔でありました。


敬具

市川 太郎

市川 絢

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