僕らの春は稲妻のように【増量試し読み】

鏡遊/MF文庫J編集部

プロローグ

 僕と彼女にキスはいらない。

 身体を寄せ合えば、トクントクンと彼女の鼓動が聞こえてくる。

 それだけで、よかった。


「わたし、ずっと探してる」

「なにを?」

「世界で一番、綺麗な場所」

「ロマンだなあ。そんなところ見つけて、どうするんだ?」

「決まってる──

「……僕は今、ここで誓ってもいいよ」

「だったら、ここがゴールだね。まるで、メーテルリンクの『青い鳥』だ」


 それだけで、よかったのに──

 ゴールに辿り着かなくてもよかったのに。



 僕に父親がいると判明したのは、中学一年の冬だった。

 クローンでもホムンクルスでもないのだから、父親は存在するに決まっているが。

 ただ、物心ついた頃から父と呼ばれる存在が家庭にいなかっただけだ。

 ずっと母親との二人暮らし。

 母は、父親については「パパはミートパイにしてやったわ」などと、わけのわからない供述をしていた。

 子供の頃はしつこく訊いてたが、分別がついた今なら「父はクソ野郎だったんだろう」と察することができる。

 母との慎ましい暮らしに大きな不満はなく、僕は十四歳の春を迎えた。

 四月四日、十四歳の誕生日──

 僕、はいゆずるは、横浜駅近くの高級ホテルにいた。

 母が奮発して、誕生日に高級ディナーをごちそうしてくれるわけじゃない。

 いや、高級ディナーは待っているらしいが──目的は別にある。

「こんなとこ、初めてだ」

 僕はホテルの出入り口から中に入って、ぼそりとつぶやいた。

 ホテルのロビーは吹き抜けになっていて、正面に幅広の立派な階段があり、その横にはエスカレーターもある。

 ロビーは豪華でむやみやたらに広く、客の姿も多い。

 ほとんどが身なりのいい大人たちで、ラフな服装の中学生は完全に浮いてる。

 正直言って引き返したいが、そうもいかない。

 本日の目的は父親と会うこと──

 ミートパイにされたはずの父親は存命で、このたび感動の再会を迎えることとなった。

 母親から詳しい事情は聞いていない。

 ただ、父親と会うには段取りが必要だとかで、話を聞いたのは冬なのに、春に季節が変わってしまった。

 なんでも、父親は〝やんごとなき家〟の生まれらしい。

 庶民の母親との結婚どころか生まれた子供──僕を認知することもできなかったとか。

 父親はずっと独身で、他に子供もいないらしいが。

 要するに家柄の問題だそうだが、二十一世紀も二〇年以上が過ぎたというのに、信じがたい前時代的な話だ。

 今さら認知するのは父親の勝手だけど、僕を巻き込まないでほしい。

 いや、僕には〝拒否権〟があった。少なくとも、母はそう言っていた。

 会いたいか会いたくないかで言えば、答えは後者。

 ただ──父に会ったところで、

 僕が行動する際の指標というか、方針というか。

 重大なことでも、「別に死ぬわけじゃないし」と思えばたいていのことは実行できる。

 学校をサボったところで死なない、試験で悪い点を取ったからって死ぬわけじゃない。

 そう考えれば、多少の悪いことがあっても、落ち込まずに済む。

 楽天的かもしれないが、自分を追い詰めるよりはマシだろう。

 もちろん、父親と対面して──もし父が失望するような男だったとしても、僕の生死にはなんの関わりもない。

 だから、こうして僕はここにいる。

 まあ、単純に物事を決めているといずれ痛い目に遭うかもしれないが。

 そんな危なっかしい僕を産み育んだ母とは、ホテルで直接待ち合わせだ。

 場違いな僕が、きょろきょろと豪華なロビーを見回していると──


「もう終わったことじゃないですか」


 凛、と透き通った声が響いた。

 客で混雑しているロビーはざわざわと騒がしい。

 なのに、その声はざわめきを貫いて、矢のように僕の耳へと届いた。

「…………」

 僕から、十メートルほど離れたところに女の子が一人いた。

「わたしには、もう関係のないことです」

 透き通るように色素の薄い、サラサラした長い髪。

 すっきりと整った目鼻立ちをしていて、顔は小さい。

 身体つきはひどく華奢で、すらりとした長身だ。

 モデルのよう──というか、モデルなんじゃないだろうか?

 間違いなく、一七〇センチ以上はありそう。

 服装はカジュアルな白の膝丈ワンピース。

 今日はあたたかいが、肩にピンクのショールを羽織っている。

「…………」

 僕は、馬鹿みたいにその女の子を見つめてしまう。

 彼女はただ外見が上品なだけでなく、立っているだけで周りを圧倒するようなオーラを漂わせている。

「おい、ふざけるなよ。勝手に終わらせられちゃ困るんだよ」

「近づかないでください」

 無礼者!と一喝するんじゃないかと、思ってしまった。

 お嬢様──いや、お姫様のような高貴さを感じさせるが、さすがにそんな時代がかった台詞は言わなかった。

 僕の妄想はともかく、どこかの綺麗なお姉さんが男に詰め寄られている。

「わたしは、もう決めたんです。なにを言われても答えは変わりません」

 なんの話かわからないが──

 彼女は、物事を消極的にしか決められない僕とはまるで違う。

 一つの迷いもなく、正しい選択肢を選べそうな、毅然としたたたずまい──

「冗談じゃねぇぞ。こっちの都合もあるってわかってるか?」

 男のほうも、彼女に怯まずにまだ詰め寄っている。

 この男もまだ若い──たぶん高校生くらいじゃないだろうか?

 お姉さんは二〇歳くらいだろうけど、見た目は釣り合わない感じではない。

 男のほうは髪を茶色に染めて、仕立てのよさそうなスーツ姿。

 こちらも背が高いので、スーツがよく似合っている。

「ですから、お断りを入れてから時間をかけて納得していただいたはずです」

「この話はお遊びじゃねぇんだ。タダじゃ済まないってことくらいわかってるよな?」

「もう気づいてるんじゃないんですか? わたしには、怖いものはありません」

 しかし、ずいぶんとズバズバものを言うな。

「くっそ……見た目の割に、本当におまえって女はよお……!」

 男がお姉さんの細い手首を掴み、ぐっと力を入れるのがわかった。

 その瞬間──

「もういいんじゃないですか」

「…………っ」

「…………?」

 男のほうは素早く僕のほうを振り向いて。

 お姉さんのほうは、不思議そうに首を傾げた。

 気がつけば、僕はお姉さんと男の間に割って入ってしまっていた──

「もういいでしょ、お兄さん。人前でみっともないですよ」

「……なんだ? おまえ、誰だよ?」

「誰でもいいでしょう。これ以上は見るに堪えないんで」

 僕は、長年母を放っておいた男の存在を知ったばかりだ。

 不実そうな男を見ると、わけもなくイラついてしまう。

 また、僕の悪いクセが出てしまった。

 男のほうはチンピラのようだが、こんな衆人環視の中で僕を殺しはしないだろう。

 死ぬわけじゃないなら、見るに堪えないこのチンピラを止めたほうがいい。

「引っ込んでろ。見たくないなら見てんじゃねぇよ、クソガキが」

「服の仕立ては上等なのに、中身が下品だと台無しだなあ」

「あぁ!?」

「あはははははっ」

 お姉さんが、口元を押さえておかしそうに笑い始めた。

「うんうん、そのとおり」

「…………っ!?」

 突然、お姉さんが僕の隣に並ぶと。

 さっ、と僕の腕を抱え込むようにした。

 身長差があるので僕が持ち上げられるような格好に──こっちは残念ながら一六〇センチもない。

 お姉さんの胸も僕の腕じゃなくて肩のあたりに当たってる──って、そうじゃなくて、なんでいきなりこんなことを?

「あの、お姉さ──」

「この人、わたしの婚約者だから!」

「え!?」

「いや、そのガキ『え!?』とか言ってるじゃねぇか! 無理があるだろ!」

「わたしの場合、無理がないことはあなたも知ってるはずですよ」

「…………っ」

 男は、ぐぬぬと悔しがっている。

 どうも、一方的に男のほうが優位に立ってるような関係でもなさそうだ。

「そういうわけだから、あなたはお引き取り願えますか? 穏便に事が済むうちに」

「…………勝手にしろ。けどな、これで済んだと思うなよ」

 男はわかりやすい捨て台詞を吐くと、くるりと背中を向けてホテルから出て行った。

「そう言われたら、これで済んだことにしたくなるね」

「……よかったんですか?」

「ねえねえ、ちょっと来て」

 ずいっ、とお姉さんが僕の顔を覗き込むようにして言った。

 それから、僕の手を掴むとすたすたと歩いて行く。

 今さらになって気づいたけど、僕らは周りの注目を集めてしまっていたらしい。

 お姉さんは、とりあえずこの場を離れることにしたようだ。

 ロビーの隅、太い柱の陰まで来ると──

「ありがと、助かったよ」

「え?」

「見たとおり、強引な人で。君が助けてくれなかったら、どうなってたことか」

「あの人もこんな人前で暴れたりはしないでしょ」

「いい声してるね、君」

「は?」

 いきなり話が変わるな、この人。

「びっくりしちゃった。声もいいし、リズムもいい。トレーニングとか受けてるの?」

「いえ、全然」

 僕は思わずそっぽを向いて、首を振った。

「ん、声のことはあまり言われたくない?」

「別に、そんなことは……」

「あるんだね」

「まあ、『女性声優が少年役を演じてるみたいな声』って言われたことなら。これ、悪口ですかね」

 僕は既に声変わりは済んでいるが、どうも特徴的な声をしてるらしい。

「あはは、わたしは好きだよ、その声」

「ど、どうも……」

 美人のお姉さんに〝好き〟とかストレートに言われるとさすがに照れる。

「ところでさ、君。時間はある?」

「え?」

 そうだった、僕は父親と感動の対面を果たすためにこのホテルに来たんだった。

「時間は……そんなにありません」

「そっか、じゃあ手短に済ませよう」

「済ませるってなにをですか?」

「わたしね、嘘は嫌いなの」

 お姉さんは、にっこりと笑い、ショールを翻しながら僕の前に身体を寄せてきて──

「ちょっと、わたしと結婚してみない?」

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