第5話 ぐだぐだ言ってねェで顔洗って来い!

「さて、後はお嬢の熟成待ち・・・・か……」


 清十郎は事務所に戻ると、ジェニーをデスクに座らせた。

 後は放っておいても、勝手に資料を検索し、脳内に相手のイメージを構築する。


 データ量があるレベルを超えると、ジェニーの脳内で「熟成」が始まる。

 

 神経細胞がニューロンによって複雑に結びつき神経回路網ニューラルネットワークを形成するように、大量のデータが無作為の組み合わせの中からパターンを作り出すのだ。


 それは水溶液の中で小さな結晶が生まれ成長していくのに似た、一見偶然任せの反応であった。


 だが――必ずそれは起こる。


 この世に無意味なデータなどない以上、必ずパターンが生まれ、意味が浮かび上がるのだ。


 それは最新のAIエンジンがディープラーニングと呼ばれる学習を行う姿に似ているのかもしれない。


「へっ、こっちは人工じゃねェ本物の知性だからな」


 無意識の作業とはいえ、それには猛烈な脳細胞の活動が必要であるらしい。

 定期的な糖分補給が不可欠だということを、清十郎は知っている。


「嬢ちゃん、夜食のたい焼きだぜ」


「嬢ちゃん、シュークリームだ。油断すると潰れてクリームが飛ぶからな。ゆっくり食べな」


「嬢ちゃん、クレープだ。コンビニの奴だが、評判は良いらしいぜ」


「嬢ちゃん、栗蒸し羊羹だ。ちゃんと噛めよ。栗がごろごろへェってるからな」


 清十郎にできることは1時間に1度、甘味と飲み物を用意してやることくらいだ。後はただ見守ることしかできない。


(うん? 尾瀬からメールか。明日の10:00か。ふん、そこそこ追い詰められてるってか?)


 グレート製薬の不正会計が世間に注目されている今、無駄なことに割ける時間は1分たりともないはずだ。

 その状況で連絡を受けた翌日の勤務開始早々に面会時間を設定したということは、それだけ尾瀬というパートナーが追い詰められていることを意味する。


(即日じゃなかったって言うだけ、ちったァ考える余裕があるようだな。結構だ)


 清十郎は面会了承のメールを相手に返した。


 ゴトッと、重たい音がして振り向くと、ジェニーがおでこを机にぶつけていた。


「落ちたか。どれ、毛布と枕を持って来てやるか」


 この事務所は職住一体だ。事務所と同じ階にジェニーの住む部屋がある。

 清十郎は鍵の在り処も知っているので、このまま送ってやれば良いのだろうが……。


「悲しいかなおいらも年だ。お姫様抱っこなんぞした日にゃァ、間違いなく腰をいかしちまうぜ」


 ジェニーの顔の下に枕を挿し込んでやり、肩から毛布を掛けてやる。


「これで勘弁してくんな」


 夢見が良かったのか、よだれを垂らしたジェニーがにまっと笑った。


 時計を見れば、25時を回ったところであった。霞んだ眼を二度ほど擦らなければ確認できなかったが。


「けっ。年は取りたくないねェ。おいらも目をつぶっとかねェと体が持たねェな」


 清十郎のアパートは徒歩10分ほどのところにある。


 コートに袖を通した清十郎は、最後に一言、ジェニーに声を掛けた。


「それじゃァ、また明日。良い夢を見ろよ」


 ジェニーは「ぐう」と寝息を立てたようだった。


 ◆◆◆


 翌朝8時に清十郎は事務所に出社した。睡眠は十分に足りている。


「おはようー。……やっぱり寝てやがるか」


 寝ぼけて移動したのだろうか。ジェニーは事務所のソファーに昨日の格好のまま毛布を纏って寝転がっていた。


「一旦起き上がったなら、部屋まで行って寝りゃァ良いものを……。おい、お嬢! 起きろ!」


 清十郎は手荒にジェニーの肩を揺すった。


「うんー。今何時……?」

「朝8時だよ。9時には出掛けるんだ。さっさと顔洗って、支度しな」


 肩越しに返事をしながら、清十郎は既に朝食の支度を始めている。といっても、トーストにオレンジジュース、それに目玉焼きをつけるだけだが。


「出掛けるのぉ? ん? 昨日言ってた仕事? 何だっけ、大手の下請けだっけ?」

「ぐだぐだ言ってねェで顔洗って来い! 9時ンなったら用意ができていようといまいと、往来に放り出すぞ!」

「えぇ、ひどぉい。お腹空いたー」

「飯の用意は今してる。良いから、顔洗ってシャワーも浴びて来い」


 結局、飯の用意をしているという言葉が決め手になって、ジェニーは自宅の浴室へと駆け出した。

 下着くらいは着替えてくるだろう。


 ちなみに、今ジェニーはジャージの上下を身に着けている。昨日からそのままだ。

 その恰好で「営業」とやらに行ったのだから、仕事が取れないのも無理はない。


(さすがに今日はスーツを着てくるだろう。着てくるよな?)


 目玉焼きをジェニー好みのターン・オーバーにしながら、清十郎は首を振った。


 サラダをこしらえ、目玉焼きを皿に並べた頃、ジェニーが戻って来た。


「ちゃんと洗ったか? 耳の後ろとか?」

「洗ったよ! たぶん……」

「たぶんてことがあるか、たぶんて……」


 文句を言いながらも清十郎は安心した。


(人間並みの意識は戻ったらしいな。厄介な話だぜ)


「朝ごはん!」

「ほいよ。トーストにサラダと目玉焼きだ」


 清十郎は毎食ジェニーのために調理をしているわけではない。普段はジェニーも自分の面倒を見るくらいのことはできるし、料理も嫌いではなかった。

 しかし、昨夜のように脳を酷使すると「幼児退行」が起こり、何事も人任せとなる。


 清十郎としてはジェニーに頼られるのは構わないのだが、年頃の娘が無防備に人に頼りきる状態は心配で仕方がない。町中で、自分のいない時にそんな状態になったら、どんな男に引っ掛かるかわからない。


 ジェニーも一人前の「会計師」だ。滅多なことは起こるまいとは思うのであったが。


 国家公認会計師とは、常人にない異能を操る存在であった。

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